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いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

ユーモアの岩田正と、妻馬場あき子

2019-01-13 20:47:29 | 短歌


岩田正は、
晩年、ユーモアに満ちた作品を数多く残した。
夫岩田正と妻馬場あき子のエピソードがある。

歌会の折、
岩田が「馬場君」
と批評し、
馬場が「岩田君」
と呼ぶ、
というほのぼのとした
様子が、
居合わせた歌人の記憶に残っているそうだ。

岩田正の歌を読む時、
微笑を禁じ得ないことが多い。
本人の歌論にも、
そうした作品の理論的根拠が
はやくから備わっていたことを
察することができる。

ユーモアにあふれた作品を3首。

‥‥‥

この曲のここ美しといひし我に目を閉ぢしまま君はうなづく

俺は柿生霊園に入る谷中墓地に他流試合のつもりできたる

魘されし理由はをとめ救わむとして斬られしと妻には言へず

浜田到「天体のごとき量感」の歌

2019-01-13 20:34:36 | 短歌


死に際を思ひてありし一日のたとえば天体のごとき量感もてり

‥‥‥

浜田到の代表作のひとつである。
医師として働く途中、交通事故で亡くなった
浜田到であるが、
スケールの大きい歌を残している。
49歳の若さで亡くなった故に
生前の歌集はないが、
中井英夫に見いだされて、
死後、歌集が出た。
象徴的なもの、ことを
さりげなく歌った短歌が多い。

‥‥‥

にくしんの手空に見ゆかの高き尖塔のうへに来む冬を待つ

哀しみは極まりの果て安息に入ると封筒の中ほの明し

スケールの大きい大滝和子の「白鯨」

2019-01-12 19:41:01 | 短歌


地球儀に唇あてているこのあたり白鯨はひと知れず死にしか

‥‥‥

大滝和子の歌である。
この人は、スケールの大きい歌を作る。
地球儀に唇をあてている。
何を思っているのか。
メルヴィルの「白鯨」を
思っているのかもしれない。
孤独や老いを思っているのかもしれない。
いずれにせよ、鑑賞の幅を大きくしないと、
受け入れることができないだろう。

次のような歌も作っている。

‥‥‥

なぞなぞの通勤鞄乗せながら無限の道を走りゆく橇

海草を買いたるのちにおのずから牛車の外で三日月あおぐ

岩戸から羊歯の葉激しくあふれ出せみどりの活路いずこに向かう

椋鳥の群れ飛び立ちてわが裡に未知の駅らの連なるけはい

宮柊二の戦後短歌~茂吉や文明との違い~

2019-01-12 18:19:17 | 短歌


戦争中、
戦争賛美の歌を詠んだ歌人は多い。
斎藤茂吉など。
また、
空襲にあったり
家を焼かれた歌人も多い。

それらの歌人の多くは、
戦後、たちどころに
民主主義賛美し、
新しい希望を説くにいたったのであった。

ところが、
宮柊二の短歌は、
そうではなかった。
一兵卒の気持ちは変わらない、
と、人生に一貫した姿勢を
とり続けた。
そのことは、
大いに評価してよいと思う。

歌人として、
「コスモス」
を主宰し、
多くの歌人を育てたこととともに、
そのことを
心に留めておかねば、
と思うのである。

岩田正の「窪田空穂論」

2019-01-12 18:03:39 | 短歌


岩田正は、
いわずとしれた歌人である。
馬場あき子の夫である。
昨年、93歳の長寿で亡くなった。
早稲田大学で
窪田章一郎に師事した。
卒論には、
私淑した窪田空穂論を選んだ。

ところが、
章一郎が父の
窪田空穂に見せたところ、
「これじゃ的外れだ」と言う感想であり、
岩田正は、切ない思いをする。

空穂論書きて空穂になんだこれ俺かよと言われし夜あり

空穂論読みし空穂に君若しまあまあともはら若さ褒めらる

その後、
岩田は、
何度も空穂論にいどみ、
数冊の書物を出版している。

戦争直後の宮柊二の歌

2019-01-11 20:06:53 | 短歌


よく知られているように、
宮柊二は、一兵卒として
戦争に参加した。

戦争で死にきれなかった、というのが
彼の思いであったようだ。
戦後、
近藤芳美と並んで短歌界を引っ張った。

しかし、短歌価値なしとする
いわゆる「第2芸術論」
には、関与しなかった。
戦争体験者として
死にきれなかった元兵士として、
ひたすら歌を詠み、
「コスモス」を創刊した。

戦後、
8月下旬に、
自死をもくろんで、
黒部をおとずれる。
その際に読んだ歌5首を挙げて、
その心境を探りたい。

‥‥‥

たたかひを終わりたる身を遊ばせて石群れる谷川を超ゆ

河原来てひとり踏み立つ午どきの風落ちしかば砂のしづまり

砂わけて湧きいづる湯を浴まむとしつぶさに寒し山の狭の

山川の鳴瀬に対かひ遊びつつ涙にじみ来ありがてぬかも

めぐりたる岩の片かげ暗くして湧き清水ひとつ日暮れのごとし












三越に服選ぶ人~米川千嘉子の歌~

2019-01-10 20:47:52 | 短歌


帰国せし三越に服えらぶこの国はただ服の照る国
                     米川千嘉子

北朝鮮から帰国した
曽我ひとみさんの歌。

長い間の拉致から生還した曽根さん。
服も、髪型も、歯並びも、
野暮ったい姿であった。
しかし、
帰国して、どれも、
洗練された。
けれども、
内面のことはあまり報道されず、
三越で
43歳にふさわしい服を選んだことが
ニュースとなった。
内面でなく、
外見だけ見ようとする
底の浅さ。

曽我さんは、米川千嘉子と同年齢だそうだ。

‥‥‥

わたくしの時間のうらに時間ありて曽我ひとみさん(43歳)あらはる

人の時間は雨粒ほども交わらず拉致のテレビをなほ見続ける


滑らかな歌~岩田正~

2019-01-10 11:44:10 | 短歌


岩田正は、滑らかな歌を歌った歌人である。
描写の正確さ、素材の選び方にも特徴がある。
妻は、戦後歌壇をひっぱる馬場あき子。

次のような、飄逸な歌もある。

‥‥‥

イヴ・モンタンの枯葉愛して30年妻を愛して35年

‥‥‥

老年期の歌を3首挙げる。

‥‥‥

ケアセンターの老いらに時に愛情のうごくはわれの生きゐるしるし

よろけつつ床に立ちたり一日のあしたの緒戦先ずは勝ちたり

早く眼のさむればじっと寝たままで目覚まし鳴るを息つめて待つ







いのち2つの歌~河野裕子~

2019-01-09 10:46:33 | 短歌


まがなしくいのち2つとなりし身を泉のごとき夜の湯に浸す

河野裕子がみごもったときの歌である。
母と子といえども、別人格であるが、
妊娠中は、胎児と一体化したように
感ずるという。
風呂に入ったときなど、
とりわけ胎動を意識することが多いらしい。
そのうれしさと驚きを歌の中に込めたわけである。
この自覚を「いのち2つ」と
表現している。
新しい命をこの世に送り出す
罪深さをも感じるとも思っただろう。

すでに明治時代、
与謝野晶子が、双子を妊娠した時の歌が
発表されたことがある。

‥‥‥

不可思議は天に二日のあるよりもわが体に鳴る3つの心臓
この度は命あやふし母を焼くか土ふたりわが胎に居る



8時間PCを打ち続ける大和撫子

2019-01-08 18:45:55 | 短歌



8時間ノートPC打ちつづけこの撫子はわらふことなし

作者は、アメリカへの出張で、
飛行機に乗っている。
隣に座る日本女性が、
PCを打っている。
8時間の搭乗時間、表情も変えず
打ち続けるのであった。
まるでサイボーグのように。

作者は、坂井修二。
歌人であり、
ITを専攻する東大教授でもある。
釈超空賞を受賞した。

ところで、
撫子の花は、夏から秋にかけて咲くが、
たいへん強健である。
ときに、冬になっても咲いている。
歌われている女性は、
その撫子のように、
強い強い女性なのだろう。



春日井建の母を思う歌

2019-01-08 15:27:46 | 短歌


著名な歌人、
春日井建。
歌だけでなく、多方面で活躍した。
それまで健康に過ごしていた60代。
突然、喉頭がんであることがわかる。
急な入院。
それまで守ってきた母は、
壮健とはいえ、高齢であった。
母の存在のありがたさは、
高齢になるほど身に沁みるものである。
健は、母を見送らずに
逝ってしまうことを怖れた。

ボヘミアの古硝子ほどの水いろの空見ゆ母を想へば泣かゆ

結局、母は94歳で逝った。
喉頭がんで死期の近いことを予見していた健は、
悲しむ反面、
逆縁を免れたこと、
母が病気ではなかったことで、
ほっと一息ついたかもしれない。

それから2年半後に、健は、
喉頭がんで世を去ったのであった。

近代の人気歌人斎藤史の「姥の歌」

2019-01-07 19:45:52 | 短歌


近代の有名な歌人斎藤史。
長きにわたって、
歌壇で重きをなした。

次の歌が有名である。

‥‥‥

山坂を髪乱れつつ来しからにわれも信濃の願人の姥

斉藤史60代になったときの
歌である。
93歳まで生きた斉藤に
60代の「姥」とは、
ちょっとちぐはぐだが、
長い間母の介護にあたった斉藤の目は
老いをはやくからとらえていたのだろう。
長野をついの住処とは考えていなかったようだが、
結局、93歳で逝くまで、長野に住んだ。

もう2首挙げておく。

‥‥‥

雪被く髪とも姥の白髪とも夜の道を来しみづからの貌

つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれを置きさり過ぎしものたち

「会う」ことを歌う歌

2019-01-06 19:25:09 | 短歌


「会う」ことを
歌った歌は、古今に多い。
今回は、現代の「会う」歌を挙げてみる。

「会ふ」といふさびしき言葉に吾はゐぬ小楢の透ける空を見にしが
                           河野愛子
河野愛子は、20代の頃、結核をわずらった。
すでに既婚であったので、おりおり、
夫が見舞に来た。
「会ふといふ寂しき言葉」。
「会う」というより、
客観的で醒めた視点が感じられる。
病室から、健康にそそりたつ楢の樹に
軽い嫉妬を覚えたのであろう。

百年の椿となりぬ植ゑし者このくれなゐに逢はで過ぎにき
                           稲葉京子

歌の中の「椿」を植えたのは、
父なのかもしれない。
「死」という言葉を使わずに、
死のことを歌ってしまった。
ある植物は、植えたひとよりも
ずっと寿命が長いのである。
そこに「会う」ことの
切なさをも感じ取ることができるであろう。

岡井隆の断筆の歌

2019-01-06 18:54:46 | 短歌


あけぼのの星を言葉にさしかへて唱ふも今日をかぎりとやせむ

‥‥‥

1970年、
すでに歌壇で中心的な存在であった岡井隆は、
家庭も医師としての仕事も歌も
擲って、
九州に身をひそめてしまった。
そのおり、
最後に発表したのが
冒頭の歌である。

それから5年、
すべてを取り返す如く、
家庭にも仕事にも歌も
復活した。

高名な歌人だったため、
この中断は、
後々まで語り継がれた。

なお、
歌人としての岡井隆に学んだ人のなかには、
復帰後の彼の作品に魅せられた者も
多い。

小野茂樹の遺歌集~黄金記憶~

2019-01-05 22:14:30 | 短歌


くさむらへ草の影射す日のひかりとほからず死はすべてとならむ

‥‥‥

小野茂樹は、
死のモチーフを持つ歌人であった。
観念の詩でなく、
若くから多くの死に
直面させられたからである。
33歳で交通事故にあって早逝したが、
優れた歌を遺したのも事実である。

つぎのような歌群を遺したことから
彼が死に近い情緒を心にしみて感じてでいたことがわかる。

‥‥‥

隆みより日に乾きゆく川の砂まのあたりわれは父の死を見ず

崖の照りかがよふ谷の緑をゆきこの地に還す葬列に会ふ

母は死をわれは異なる死をほもひやさしき花の素描を仰ぐ