時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

伝道の「技術」について思ったこと

2011年05月11日 | Bloomingtonにて
昨日、お昼ご飯のあと、家のドアを叩く音。娘が窓からのぞいたので一緒にのぞくと、ドアの外でにっこり微笑む見知らぬ女性と目が合ってしまいました。

その二人連れの女性は、嫁さんに会いに来たのでした。彼女たちは、日本でもときどきやってくる宗教団体の伝道師で、嫁さんとは近所の公園で話しかけてきて知り合いになりました。こちらに用はなく、早々にお引取り願いたいわけですが、そこはあちらにも技術があり、嫁さんも簡単には打ち切れず、10分くらいはいたでしょう。あとで話を聞いたところ、あちらのアプローチのうち、二つの点が気になりました。

ひとつめが、「あなたに不安はないか、政治に不満はないか」という質問。この活動は、少なくとも建前上は、人々を正しい信仰へと導く、という崇高な目的で行っているのでしょうが、そういう自覚を持って行う活動が、人の苦しみなり悩みなり、弱い部分を糸口にするってのは、なんか納得いきません。こういう活動に一般的なやり方なのでしょうし、古来、そういうふうにしないと、人は耳を貸さなかったのかもしれません。でも、そんなふうにしないと浸透していかないものって、そもそも...

もひとつ。われわれの話について、もっと理解を深める気はないかと問われ、その気はないことを示すため、「最近、禅寺での活動に参加し始めたんです(先日記事にした三心寺。実際、この日の午前中に行った)」と言うと、「仏陀はたんなるStatueよ」という反応だったそうです。

調べてみると、この団体は偶像礼拝に反対の立場。でも、仏陀って悟りを開いた「人」であって、仏像そのものではないっしょ。他の宗教(仏教がそう言えるか分かりませんが)を批判するなら、もうちょっとちゃんと理解してからやった方がいいんじゃないかと。

その他、日本で行われてるのとほぼ同じやり方。こっちがオリジナルで、日本側がそれに従っているのでしょう。以前住んでいたところはほとんど学生ばかりのアパートで、こういう訪問に会うことはありませんでした。「また、お会いできるといいですね」と去って行ったそうです... 

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