時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

子供がいる方が不幸?

2012年07月20日 | 
FreakonomicsのPodcastはつねに楽しみにしていますが、過去、もっとも面白かったものが、The economist’s guide to parenting(経済学者による子育てガイド)です。そこで、Studies show…と断って言われていたことの一つが「その他の条件を同一にしたとき、子供を持っている人のほうが持たない人よりも(平均すると)幸福度が低い」ということ。この間、それを裏付ける学術論文を探し出しました。

Clark, A.E., Diener, E., Georgellis, Y. & Lucas, R.E. (2008). Lags and leads in life satisfaction: A test of the baseline hypothesis. Economic Journal, 118, F222-243.

この論文の存在を教えてくれた、Nattavudh Powdthavee氏の論文(Think having children make you happy? The psychologists, 22-4) によると、他にも数多の研究があるらしい。

Clark他の論文は、ドイツの男女各のべ65000人程度という膨大なデータで、子供の誕生の4年前から5年後までの時系列の(主観的な)幸福感の変化を追っています。誕生前に幸福度は上昇、平均を上回るが、誕生後すぐに落ち、平均以下に、そのまま低い値を維持し、やっと4~5歳ごろ平均に戻る、というものでした。女性・男性ともほぼ同一の変動を示します。

Powdthavee論文は、多くの人は、「子供がいる人生はより幸せ」と思うものだが、その印象と、データが示す「現実」とが食い違う理由は、Focusing Illusionが原因だと説明しています。人は、稀に訪れる、大きな喜びに強く印象付けられるので、意識的に振り返ったときには、子供が立ったとか、話したとか、その他、感動的なシーンを思い出して、幸せだ、と思う。しかし、実際の子育ての日常の大半は単調で辛い行為の繰り返しで、感じている幸福感をリアルタイムで追っていくと、ストレスを感じていたり、疲れていたり……。一人で歩いていて、お子さんを連れたお母さんが、険しい顔でプリプリ怒って歩いているのを見かけることがあって、「どうしてあんなかわいい子と一緒にいるのに、あんなに不機嫌?」と、とても不思議に思うのですが、むしろこれこそが日常の親の姿なのかもしれません。娘と幼稚園から帰るときの私も、どんな顔をしているのか。

じっさい、個人的な経験に照らしても、上記の知見には納得できる点があります。娘が生まれる前は、幸せと希望にほんわかと包まれていました。ところが生まれて2日目、病院から帰らねばならない夜(米国は短い)、突然、強烈な不安に襲われました。これから何の経験もないわれわれ二人が、この小さな、新しい命を守っていけるものだろうか、と。現実がやってきたわけです。

その後は、ある米国人のお母さんに言われたYou suddenly cease to be someone you used to be, and become someone’s parent.という言葉通り。行動が何から何まで子供の存在によって制限を受け、生活が一変しました。たまに嫁さんと、子供が生まれる前、二人の暮らしも楽しかったね~、と、もう決して戻ってこない過去を懐かしく思い返すことがあります。幸いうちの娘は元気で、望んだとおりやさしい子で、申し分ありません。とてつもない幸せを与えてもらっていると、自分たちの子として生まれてきてくれたことに感謝する日々ですが。

このような学術研究の知見の、方法論や前提の範囲内での有効性は確かだろうと思います。でも、子供がいることで幸せになるかどうかには、個人・状況による大きな変動があるでしょうし、まして研究結果からどんな知恵を引き出すかということはまた別の問題。

個人的には、こういう知見が役に立って欲しいと思うのが、「子供を持つ(持たない)」ということに対する社会、個人、両方のレベルでの「こだわり」の緩和です。個人的な印象ですが、子供を持つということについて、立場を異にする人々の間での、意見の強い対立をしばしば目にする気がします。子供は持つべき、持たないものは不幸、あるいは人として不完全、逆に子供を持つものが優遇されすぎ、身勝手になる、等等。

「子供を持つことで、人は幸せになるとは限らない」という知見が行き渡ることが、子のいる人、いない人がそれぞれ、子供を持つ人生と持たない人生に、公平な目を向け、お互いの生き方を尊重することにつながらないものでしょうか。そして、子を持つことも、持たないことも、親となる人たちそれぞれの状況の中で、自発的に、周囲からのプレッシャー等も受けることなく選ばれ、子供は、他の誰が幸せになるためでもなく、自分自身のために、生まれてくる。そんなふうに生まれることが、子供にとっていちばん望ましいと思うのです。

たった1分で人生が変わる片づけの習慣 読書録

2012年07月16日 | 読書録
私は、どちらかというと片づけは得意。でも、子供のころ~学生時代までは片づけ劣等生。部屋はたいへん散らかっていました。片づけの習慣が身についたのは、大学に勤めていたとき。同僚が、「机の上が散らかっているやつは、仕事ができない」という先輩の先生のことばを教えてくれて、そりゃあまずい、と、机の上をきれいにする努力を始めました。その過程で気づいたことがあれこれあり、今は片づけが習慣化しています。

だから、この本に書いてあることはほぼ全て、既に自ら考え出してきたこと、実践していることでした。読んで得た新たなヒントは、「片づけは一回につき一箇所、15分以内でやれ」くらい。じゃあなぜこんな本を手にとって読んだかといえば、母と暮らしているから。母は、この本に書かれている、片づけをするためにやってはいけない行為のオンパレード、ほぼ完璧な逆の見本だといえます。じっさい、私の片づけに関する基本原則は、母の行為を批判的に検討しながら、具体的な原則として言語化した部分が大。たとえば、以下(一部、標記の本ではなくて私の言い方に変えてあります)。

 今使わないモノは、使わない。(手放せ)
 他の方法で入手可能なら、所有しない(所有するな、借りろ)
 捨てることより、死蔵して物の価値を引き出さないほうが「もったいない」
 モノが少ないほうが人生は充実する
 収納家具を増やしてはいけない
 物が入ってくるスペースを空けておけ(一杯につめこむと、管理不能になる)
 なんでも目に見えるところに置こうとしてはいけない
 一気に片づけると、また散らかる

なので私は、ページをめくるごとに大笑い。そうそう! と。では、母にこの本を読ませるか? いいえ。母は万一これを読んだとしても、考えを変えず、同じことを繰り返すでしょう。貧乏に育ったせいか、世代の背負った価値観のせいか、所有に対する執着が非常に高いので。この手のノウハウ本はたいてい、「やってる人は読まなくたって勝手にやっている(だから読む必要がない)、やらない人は、そもそも読まないか、読んでも変わらない」ということになる気がします。だから、いつまで経っても筆者のような「片付けコンサルタント」の需要はなくならない。ダイエットや語学学習と同じ。商売としては上手。

字も大きく、内容も繰り返しが多いので、一時間もかからず読めます。私にとっては実用書ではなく、気晴らしの「お笑い本」。この本を購入して本棚をあふれさせる原因を増やすのは避け、図書館で借りてあっという間に読んだ私は、著者の片づけ哲学を適切に実践した優等生、といえるのではないでしょうか。

またそれかっ:八日目の蝉 (4)

2012年07月13日 | 
音声学ではここのところずっと第二言語習得にかかわらせた研究が非常に盛んですが、インディアナ大でも教員・学生ともに研究テーマにしている人が多かったので、授業でも第二言語の音声習得に関する話を聞くことが頻繁にありました。

そういうときの話しのマクラとして、「ある領域の音声について、1つの音韻カテゴリーしか持たない言語の話者は、その領域を2つの音韻カテゴリーに分ける言語の音韻対立に対して鈍感で、訓練してもなかなか知覚精度が上がらない」という知見が指摘されることが多く、そのばあいほぼ必ず、たぶん100%近く、日本語話者の、英語のrとlの区別が例に挙がります。論文でも、発表でも、講義でも。

6年もいると、もう何度聞いたか分かりません。後半はイライラしておりました。そりゃあ有名でしょう、日本語のr/lは。典型例でしょう。でも、他にもあるでしょ。毎回、「お前たちはこれ分からないだろ」と言われる身にもなれよ。自分の言語の例を挙げればいいじゃないか。他人を使うな! と。とはいえ、どの人も、たんにスムーズな導入ができれば事足りるわけで、奇をてらってあまり知られていない例を持ち出す理由もない。そしてまた、わが日本語の例を聞かされるわけです。不愉快。

さて、『八日目の蝉』、なかなか面白かった。永作博美さんは今回もまた素晴らしい(見たかった理由の半分は彼女)。映画の薫役の女の子かわいい!(演技もよい) 話しの筋も、文句がある人もいるようですが、私は嫌いじゃない。

ただ、なんでこんなに「母子の絆」のハナシが多い? 作者に文句はありません。作家がそれぞれ自身のテーマを追求するのは当然。そもそも、小説については、必ずしも「母子」がテーマというワケでもないようにも思うし。でも、映画の売り方や、需要のされ方についていえば、やっぱり「母子の絆」になるでしょう。そしてこの話では、またたいていの類似の話でも、出てくる男は、妊娠させて堕胎させる等、無責任・無関心な役割ばっかり。なんだか、男はどうでもいい、苦しむ女を生み出す役割でも与えとけ(実際そんなもんだろ)、と言われてるような気になります。

嫁さんを含め、Bloomingtonで知り合った女性たちが、子供を産むとあっさりと母親になって、がっちり子供を守っているのを見て、すごいなあ、と感心したものでした。「子供を自らのおなかに抱えて過す時期に心の準備ができるから」という説があるそうです。でも、自分の経験からすると、つわりの妻の背中をさすり、子供が蹴り上げる腹をさすりながらだって、心の準備はできる。男だって子供愛してるぞ。子育てがんばり、楽しんでる人はいっぱいいるぞ。それはどうでもいいのか? それじゃ不公平に過ぎないか? と。映画自体は楽しみながらも、頭の片隅でその不満がぬぐえません。ひがみでしょうか。

今読んでいるMother Natureという本で、筆者Sarah Hrdyさんが、「慈愛に満ちた献身的な母」は幻想、ということを丁寧に記述してます。逆にだからこそ、その幻想を強化するようなオハナシの需要が高いのでしょうか。まあそんなことより、このテの大衆文化の消費者が圧倒的に女性だからでしょう。日本語話者のr/lと同じ。目的に合致したお話しが選ばれているだけのこと。男性向けの大衆文化、もっとがんばれ~。

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なお、本当のところ、たとえネガティブな情報であっても、研究者コミュニティーで、常に自分の言語の話題が出されるというのは、悪いことではないでしょう。研究対象としての日本語需要が高いことは、日本語話者である研究者にとって、大きな利益のはずです。

誰と結婚するの?:八日目の蝉 (3)

2012年07月11日 | 
薫が、彼女を誘拐した希和子を本当の母親だと思って、小豆島で暮らしていた三歳半のころ、希和子と以下の会話を交わします。

「きっと薫がもう少しおっきくなって、この人と結婚したいなあと思ったら、それは男の人だよ」
「ほならママは男なん?」
「ママは女の子だって」
「けど薫、ママと結婚したいもん

この手のことを言われたことのある方は少なくないでしょう。私も、ほんの一時期にせよ「パパ(とは呼ばれてませんが)と結婚する」と言ってもらえるかと期待してましたが、うちの娘も結婚したいのは、お母さん。私が、嫁さんと(半分わざと)べたべたしていると、

「かえでが、結婚してるんだから!!」
とか
「かえで、まだ結婚してるんだから!!」(まだ?)
などと、血相を変えて割り込んできます。

もちろん、「結婚する」を大人と同様の意味で理解してるワケはなく、私が、「お父さんは、お母さんが大好きで、結婚したんだよ」等と挑発してるので、おそらく、「いちばん仲良しの、特権的地位」とでも理解してると思われます。そしてそれは、私だと。お父さんは、どけと。私は、いたずらを仕掛けてくるし、大好きなお母さんにちょっかいかける狼藉物で、ちょっと乱暴に叩いたりしても平気で、かつ、お父さんスイッチ連打して、いろいろ遊べる「おもちゃ」(でも、たまに怖い)、という地位から、昇格できそうにありません。

『八日目の蝉』は、うちの娘の今の年齢と重なる、薫3~4歳の頃が、(偽の)母子のもっとも幸せな時期としてわりと丁寧に描写されているせいで、いろいろと自分の身の上に引き移して考えてしまいます。なので、ここ3回、作品のことじゃなくて自分の家庭のことばかり。上の場面もその一つ。

ちなみに、作者にツッコミを入れるわけではありませんが、「(うちの娘が)大きくなって、この人と結婚したいなあと思ったら、それが女の人」という可能性は、無くはないよね、とたまに嫁さんに話します。

誘拐は誰が悪い:八日目の蝉 (2)

2012年07月09日 | 
昨日につづき、『八日目の蝉』から。映画を初めて見た際、反射的で単純な感想もあれこれ持ったのですが、その一つが誘拐のシーン。親は家を留守にするのですね。0歳児を置いて。鍵もかけず、しかも毎日決まった時間に。そりゃあいくらなんでも無用心すぎる、ありえないだろー、と。で、いっしょに見ていた嫁さんに、「産まれてから4年近く経つけど、うちは、誘拐されるかもしれないような無用心なことは一度もしてないね」と言ったのですが、そこで変わる彼女の顔色......

言われるまでもなく思い出しました。娘が0歳のときのこと、Bloomingtonのダウンタウンへ、当時同じアパートにいたおばあちゃん(仏系アメリカ人)、Ninaさんと食事に行きました。足の悪いおばあちゃんを先におろし、嫁さんが支えてレストランへ。私は駐車場に車を停め、後から店に。以下は本当に交わされた会話。

私 「おまたせ~」
嫁 「かえでは?」
私 「あ、車の中!」
嫁 「やだ~(怒気)」

あわてて戻ってみると、車の中、チャイルドシートに縛り付けられたまま、私のほうを見る娘。もちろんカギはかかっていましたが、その間おそらく2~3分。たまたま狙いを付けていた人がいて、ドアをこじ開けられていたら、アメリカのことだから、もう二度と会えなくなっていた可能性が限りなく高い。生きてる可能性も低い。そうなっていたら、わたしゃー今ごろどこでどうしているか、生きているかすら確信が持てません。娘はアメリカ人の子供という扱いをされたでしょうから、それをむざむざ誘拐された監督不行き届きな日本人は、国外退去を命じられていたかも。何も起こらず、ここにこうしていられるのは、ただ運がよかっただけ。

行った店も覚えてます。Applebee's。行った座席すら思い出せる。嫁さんも、決して忘れないと言ってます。結婚以降、ここまでで最大の失態。私には前科がありました。懺悔。。。

『八日目......』に戻ると、お話の都合上、あの子は誘拐されねばならなかったので、うかつな親に登場してもらったと。ちょっとありえないくらい無用心だと思いますが、上記の件のせいで、ちょっと主張しにくくなってしまいました。

先日、娘の幼稚園では、専門家を招いて「連れ去り防止訓練」を催したそうで、その日の帰り、娘が説明してくれました。

「今日ねー、ひなんくんれんがあった」(ん? ああ、連れ去り防止ね)
「くるまにのって、おねえちゃんが、二人来てねー」(おうちまで、乗せていってあげるって言った?)
「お菓子あげるよ、って言ってた」(.........)

果たして彼女は何かを学んだのか、実際にはまんまとお菓子に釣られて誘拐されてしまうのか、確信は持てません。

方言習得の速さ:八日目の蝉 (1)

2012年07月08日 | ことば
前から観たいと思っていた『八日目の蝉』がTVで放映されたので、観てみました。そのあと、図書館で借りて原作も。あれこれ感じたことがあって、少しずつ書いていきたいのですが、とりあえず方言から。関東生まれの赤ちゃん、恵理菜は、彼女を誘拐して逃亡した希和子に薫と名づけられ、逃亡のため、名古屋、奈良、香川(小豆島)と渡っていくのですが、それぞれの土地で、すばやく方言を身に着けていくように描写されていて、映画でも薫役の子が上手に「近畿~四国っぽい」(ホンモノとはちがうのでしょうが)ことばを話してました。

そんなに速く行った先のことばを身につけるものだろうか、と観たときは感じたのですが、思えば幼稚園に入って3ヶ月、娘は急速に「東濃ことば」を身につけつつあります。今や理由の「~で」とか、否定の「~ん」は当たり前。進行の「~てる」も、関東等の平板ではなく、「て」にアクセント核がある形で言います。幼稚園でも、ごく一部を除くと、おかあさんも、先生もみんなばりばり東濃方言、当然子供たちもそうなので、家で父母が標準語的(父は怪しいが)なことばを使おうとも無力。じきに、可能形も「れ」を入れて、「書けれる」「行けれる」と言い出しそう。

事はここにとどまらず。以前、裏のお宅のお嬢さんの影響で「なんでやねん!」を乱発するようになったという記事を書いたのですが、先日、いつもいっしょに遊ぶ女の子が「なんでやねん!」を、やはり意味なく連発しているのを発見。明らかにわが娘の影響。仲良く遊んでいる証拠で、とても喜ばしいことだと考えるべきなのでしょうが、ちょっと申し訳ない。。。

『八日目...』に戻ると、薫が方言を習得し、自然に使用しているというのは、その土地や人々になじんで幸せに暮らしていた、ということを伝えるにはこれ以上なく効果的でしょうから、作家さんも留意し、映画スタッフも丁寧に扱ったにした、というところなんでしょう。

Tricampeones! EURO 2012をふりかえる

2012年07月02日 | サッカー
EURO 2012 はスペインの優勝で終了。タイトルは、スペインのスポーツ新聞as.comの見出し。W杯制覇を挟んだEURO連覇はたしかに偉業。決勝、4-0という結果ほど両チームに力の差はなかったでしょうが、間違いなくスペインが上回っていました。解説の金田さんがおっしゃってましたが、ピッチ状態がよかったこともスペインに有利だったよう。パスが思ったように回せてて、開始10分で勝てそうな(少なくとも簡単にやられることはない)感じが見えました。キエッリーニ、モッタの怪我もあって、ちょっとスリルを欠く、残念な試合にはなりましたが、決勝に到達するまでで、イタリアは力を使い切っていて、のらりくらりとここまで勝ち上がったスペインにはまだ余裕があった、という見方は、後知恵ではないと思います。さて、大会をふりかえります。

1. 注目したチームのできばえ

スペイン:MF(より後ろ)の力だけで優勝してしまった。「ごっつあん得点王」トーレスは、楽勝の試合しかゴールしておらず、重要な得点はみーんなMF。シャビはピークを越した感があるけど、アルバが台頭して、イニエスタが鬼。実質FW抜きでも何とかなってしまうのはすごいけど、バルセロナ黄金期とともに訪れたこの黄金時代の終わりは近そう、という印象も持ちました。王者と認められ、研究・対策が進歩、違うバックグラウンドをベースに、似たスタイルを身につけつつあるチーム(伊・仏)も出て、苦戦も増えてきた。次のメジャー大会では、いよいよスペインを打ち破るチームが現れるのでは。

イタリア:じゃあそれはイタリアなのか、というと、それはない気がする。バロテッリはこの大会の活躍と屈辱をバネに、ホンモノになるかも。でも、このチーム、全体としては若くない。ブッフォン、ピルロという、最重要の選手たちは、キャリアの最後が近い。デロッシ、カッサーノだってもう30歳近く。イタリアはこの大会がチームとしてはいったんピーク、あらたな中心を見つけて、チームを作り直さないといけないので、このまま次の王者へということにはならないと思うのです。

ドイツ:若いチームだし、この次の大会こそ...は、ないと思う。それは、EURO2008、W杯2010のときも思ったわけで、今回確認できたのは、この線で強化をしていってもどこかに限界があって、準優勝、ベスト4くらいにとどまってしまう、ということじゃないかと。大会ごとに新たな選手が活躍、というパターンも今回はなし。たとえば、シュバイニーがコンディション悪くてもゲッツェが活躍、とはいかず、ここからはちょっと停滞、となるのでは。

ポルトガル、オランダ:国の規模を考えると、もうすでに十分善戦。オランダはたまたまめぐり合わせが悪くて大失敗しましたが。元植民地の選手を吸い上げられるにしても、これほどの小国が優勝まで届くのは、相当困難かと。でもCR7やファン・ペルシーの価値は少しも落ちないと思います。

ひどく期待はずれなチームはなく、まあみんなこんなもんだよな、と。あえて言えば、スペイン。経験と「顔」でなんとか勝った感じで、あまり好印象じゃない。それからイングランド、やっぱり中盤からの展開力はないし、前線でボールはおさまらない。この内容でベスト8は上出来では。ルーニーが一級品でいられるあと数年のうちに、新世代に入れ替えてどこまで盛り返せるか。優勝候補に挙げたフランスですが、また揉めてるとか。ブランほどの、みんなの尊敬を集めてそうな人が監督になってもだめですか。次の可能性がありそうなのは、ここだと思ってるのですが。

2. 選手について

前も書いたのですが、レアルマドリーの選手がほぼみんなよかった。筆頭はカシジャス。大会中失点1は、半分以上彼の功績でしょう。個人的大会MVP。それからペペ。退場しなかった(!)。それさえなければ、もともととてつもない能力の持ち主。私の大会ベストDF。ベスト(守備的)MFは、これも前に書いたとおりケディラ。(攻撃的)MFは、スペインの、個人じゃなくて「アルバとイニエスタ(とシャビ)」、「シルバとセスク」の「セット」。こういうところが、スペインの他に対するアドバンテージなのかも。FWはあえていえばセスク。注目はされてないかもしれないけど、ボールの引き出しやポスト的なプレーもけっこう上手いし、アシストもできて、ゴールも決めた。偽FW的位置づけになってるけど、チーム戦術しだいでは、「これがうちの場合のFWなんだ」というのもありかも。(見直すと、アルバをMF扱いしてるし、セスクがMFでもFWでも入ってるし、めちゃくちゃですが、ベスト11を選ぼうというものじゃなく、目立った選手を指摘してるだけなので...)

もうちょっと活躍しても、と思うのは、ポルトガルのナニ。彼がどこかでゴールを決めてれば、ポルトガルはもっといい結果だったかも。それから仏のコシェルニーは、あんまり出られなくて残念。出た試合ではよかったので、今後に期待。ブスケツ、ピケもイマイチだったなー。もっといい彼らを見てきたバルサファンとしては残念。CR7は得点王を逃がし、また彼の大会にはならなかったけれども、よく頑張ったと思う。ポルトガルはマドリーではなく、彼にそれほど点を取らせてはくれないので。

公式のMVPはイニエスタになったそうで。前回のシャビに続いて二大会連続、持ち味はアシストという、やや地味なMFが最優秀、とされたわけで、スペインのようなチームの強みがどこにあるのか、ということに正当な評価が与えられた、ということでもあり、なおかつ、好きなバルセロナの選手がまた、というのはもちろんうれしい。天の邪鬼なわたしはちょっとはずしてブスケツと予測しておいたのですが、やっぱり本命が来ました。でも、得点なしでMVPとは。カシジャスが、PKも含め、決定的で勝負に直結した得点機会阻止の数があれだけあっても取れないとは、GKというのは可哀想なポジションです。

3. 大会全般

全体として、試合を左右するようなPKジャッジとか、退場とかがほとんどなし。審判団が高く評価できる大会だったのでは。決勝戦がイエローカード2枚と、荒いプレーをする選手も目立たず、オランダのファンボメルやデヨンといった、潰し屋が目立ったW杯2010より、サッカーそのものが楽しめた。一方、派手な撃ち合いや、逆転などがなくて、大会全体としては、わりと淡々と決着がついた試合が多かったような。Sportsnaviの元川悦子さんの記事によると、開催国の運営については、とくにウクライナに問題もあったよう。TVでらくらく観戦させてもらえた身としては、報道関連のみなさん、ありがとうございます、と。

決勝戦の試合終了後、スペインの選手がお子さんをピッチに入れていました。トーレスのお子さんらしいおちびさんたち、かわいかった。これで大会終わり、次はロンドン五輪。ここでもスペイン(と日本)が楽しみなのでサッカーだけは(ちょっと)観ようか。。。デヘア、チアゴ、ムニアインと、この世代を見ると、いったん落ちるにしてもスペインはまだまだ強豪ではあり続けそう。今大会試合に出してもらえなかったハビ・マルティネスもがんばるでしょう。

『外国語として出会う日本語』(読書録)

2012年07月01日 | 読書録
図書館にあったので借りてみました。楽しく読めます。筆者ご自身の体験から説き起こしてあるためか、印象的で、かつ説得力も感じます。日本語教授にかかわる諸問題を網羅するという目的で書かれてはいないので、ハンドブック的には使えませんが、留意すべき基本的な指針を得ることはできました。読み取ったのは以下。

 1. 自分の母語でも研究しないと分からない(2章)
 2. 学習者が創るルールを意識せよ(3章)
 3. 学習者の母語の影響を意識せよ(4章)
 4. ことばの背景にある価値観の差異も考慮に入れよ(5章)
 5. 学習者の「わかりにくい日本語」から発見しよう(6章)

6章のメッセージを承け、「あとがきに」書かれた以下の部分は、おそらくこの本を貫くテーマであり、筆者が研究・教育上大切になさっていることなのだろうと思います。

言語の違いを乗り越えるには、「日本人が外国語を勉強して、上手に話せるようになる」あるいは「外国人が日本語を勉強して、日本語を話せるようになる」という二つの選択肢しかないのでしょうか。「日本人が日本語を勉強して、日本語を客観的にとらえるようになる。それによって、外国人のたとえつたない日本語であってもそれを理解したり、自分の日本語をわかりやすく言い換えたりすることができるようになる」という三つ目の選択肢も、あっていいのではないか。。。

ずいぶん前、杉戸清樹氏の「もう一つの日本語教育を」という論文を読んで以来、引用箇所のような考え方は常に頭にあり、学習者の日本語をできる限り理解する努力は払い続けてきたつもりで、学習者の多様な日本語に対する対応力だけは、多少自信があります。地域の日本語講座のような場で日本語教育ボランティアとして日本語を教えることの一つの意味は、ここにあるのでは。

具体的な記述内容で面白かったことについて、メモ代わりに2点。

日本語の関係詞節は非制限用法と制限用法を区別する仕組みがなく、かつ非制限用法として使われることが多いので、それを制限用法のように感じてしまう他言語の話者には、抵抗が大きい。たとえば次の例。日本語話者の頭にあるのは、通常、非制限用法であって、「集合時刻に遅れなかったその他の山田さん」がいるわけではないと。

 集合時刻に遅れた山田さんは、バスに乗ることができなかった。

個人的な経験の限りでは、米国では制限用法と非制限用法を、thatとwhichで役割分担する傾向が見られるような気がしてます。やっぱり、韻律情報だけではときに不十分、ということでしょうか。

 「この機種、写真が撮れますか?」「動画も撮れますよ」

のように、相手の質問に直接答える代わりに、別の情報を「も」を使って与えることで答えることができる前提には、ケータイの性能について

 「電話がかけられる > 写真が撮れる > 動画が撮れる」

というような下位~上位の序列に関する知識が共有されていることが前提となる。

たとえば、David Harrison氏の本で紹介されているような、西欧言語とは非常に離れた文化背景を持つ集団の言語などだと、この種の前提の共有が期待できないだけでなく、言語でコード化するための仕組みまでかなり本質的な点で異なる可能性もあるでしょう。そう考えていくと、言語類型論の研究でよくみられる、「××階層」のような通言語的なモデル化には慎重になったほうがいい、と思えてきます。

最後に一つだけ気になったこと。31ページで、ある文について「×かどうかは「文法性grammaticality」の問題」「?かどうかは「容認可能性acceptability」の問題」としています。これだと、grammaticalityとacceptabilityは文の違う側面に関する適切性であり、両者は原理的には独立だ、と読めるのですが、これはわたしの理解とは異なります。

わたしの理解では、acceptabilityというのは言語話者から直接得られる言語に対する内省の結果であり、その結果がなんらかの程度でunacceptableだった場合、その原因には、意味的な奇異さ、情報構造の不適切さ、等々さまざまな要因が考えられるが、それ以外に狭義の言語学的意味での文法に対する違反ungrammaticalityが考えられる、と。したがって、両者はオーバーラップしている(だから言語学者は、unacceptabilityからungrammaticalityによる要素を抽出するため、四苦八苦している)、というのが理解なのですが。。。