時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

封鎖中 (韓国滞在記3)

2006年07月30日 | フィールドワークから
3日目は予定ほとんどなし、チョンヘが「実験は私がやっとくから、あなたは観光したら?」と勧めてくれたのです。でも、実際には朝からザーザーぶりの雨。訪れるのは6回目くらいだったと思いますが、本降りの雨は初めて経験しました。そういうわけで朝からどこへも出ず、2晩泊まったモーテルに留まって発表準備の仕事をしました。

チョンヘが勧めてくれたのが「清渓川」。知っている人も多いと思いますが、首都高速道路をぶち壊して、暗渠にしていた川を復活させた、というパワーのある事業をやった、新たな観光名所です。ただ、ひどい雨だったので「清渓川ツアーバス」に乗ってみようと、夕方高大駅から地下鉄で「光化門」を目指しました。しかし、なんだか車内放送があって、「光化門」駅を地下鉄が通過する。もういっぺん逆方向に乗って戻ろうとしても、また通過。ホームにも誰もいない。訳が分からず、右往左往した挙句雨の中、次の西大門駅で降りて歩こうと向かってみると・・・

写真の通り、道路が当局によって封鎖されており、通りたい人と押し合いへし合い。しばらく見ていましたが、近くの人に聞くと「通れないよ、地下鉄で戻りなさい」と言われ、逆戻り、清渓川を歩き、東大門市場へ行きましたが、さらに雨がひどくなったのでまったく買い物をせず帰途へ。以上、ソウルではほとんどどこへも行かなかったに近い。

その後韓国はさらに雨が続き、亡くなる人も多数出るなどえらい被害にあったそうで。またもや私は訪れた場所に「嵐を呼んで」しまいました。

ちなみにソウルの地下鉄のシートは全て金属製に変っていました。テグの地下鉄で大火災があってたくさん人が亡くなったとかで、シートの素材を燃えにくいものに変えたのだそうです。

追加情報:このブログをリンクしてくださったらしい「マルソリ・ラボ」をブックマークに追加しました。

高麗大学校で実験 (韓国旅行記2)

2006年07月29日 | 旅行記
本日はアクセント調査の準備のための会合に出席。来週京都&大阪の調査に参加させてもらうことになりました。これが今回、日本での最後の仕事。さて、今日も昨日に引き続き、韓国訪問について。

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2日目 実験に参加しに高麗大学校へ。地下鉄の駅の近くの店で写真のお粥を食べました。このお粥のお店はチェーン店だったらしく、晋州のような地方都市にもありました。小奇麗だけどパンチャン(おかず)の種類も少なくて、値段も高め。あんまり韓国っぽくない。食べたのはかぼちゃのお粥と、海鮮粥。かぼちゃのお粥は甘くておいしいけど、一杯まるまるかぼちゃなので、全部食べるとなるとちょっと持て余してしまいます。

研究所 (韓国旅行記2)

2006年07月29日 | 旅行記
高大(コデ)は梨花女子大などと同じく小高い山になったところにキャンパスがあって、実験をした民族文化研究所は山の一番上。学内バスで行きます。そこで研究員をしている友人(このブログをリンクしてくれたそうで・・・)の知覚実験に参加。私本人は実験台ではないので詳しくは分かりませんが、どうやらDownstepと構文処理との関連を考えているもよう。いずれ発表なさるでしょう。

実験終わって (韓国旅行記2)

2006年07月29日 | 旅行記
実験をやったのは「音声言語情報研究所」というところ。友人を含め数人の研究員が仕事してるもようです。写真のようにちゃんとした音声実験室があります。こんなステキな部屋はIndianaの言語学科にはありません。無響室はあるっちゃあありますが、物置のよう。

その実験が終わって、こんどはわれわれのプロジェクトのほうの知覚実験。こちらは同じく高大内のふつうの事務室で。共同研究者(同級生)が担当して知覚実験が始まりましたが、ヘッドホンを使わずPCのスピーカで聞かせていて仰天。「それはいくらなんでも・・・」と思いましたが、まあ、いまさら仕方がない、すでにこういうやり方でたくさんやっちゃったんだろうし、まともはヘッドホンも用意してなさそう。せめて音声データ録音のときは扇風機止めてもらいました。本当は冷房も止めたい・・・

先日発表をしたとき、MIT出身のある先生(って匿名にしても、有名ですけど)が、その昔MITにいたころの話をしてくれました。当時の言語学科はとても粗末な校舎だったんだそうです。そこから世界に冠たる現在のMIT言語学科に発展していったとのこと。施設がどうのこうのではなく、みんなで切磋琢磨すればいいのだ、と勇気付けられました。

その日の晩は、実験に参加した5人で高大近くの料理店へ。チムタクという鶏肉・野菜・春雨の煮込みをみんなで食べ、そのあとさらに近所の飲み屋さんへ。韓国でおなじみのマッコリという濁り酒を飲む店ですが、酒がヤカンで出てくる。そもそもマッコリって、そういう庶民のお酒なんだそうで、いかにも学生街らしい気楽な雰囲気でした。韓国人3人、日本人2人、全員がこのあとアメリカに行く(または戻る)人たちでした。インディアナ、ハワイ、ペンシルバニアと場所はばらばら。縁あって韓国で出会い、食卓を囲み、酒を酌み交わせたのはとても貴重に思えたし、幸いなことでした。酒が苦手な私ですが、その日は珍しく2杯くらいは飲んだと思います。

2年ぶりの韓国 (韓国旅行記1)

2006年07月27日 | 旅行記
日本に来てあっという間に4週間が経ち、もう帰る準備を考えなければならなくなりました。来て1週目はSyntaxの実験。2週目は韓国に行って韻律関連の実験。3週目は研究会での発表のため、ひたすらデータ測定&分析でした。先日発表が終わって、一段落。久しぶりに記事を書く余裕ができました。

やっぱり、日本って食べ物が何でも全体的においしいくていいですね。今のうちと思って納豆とか、豆腐とか、みりん干とか、佃煮とか食ってます(アメリカにもあるけど、高くて買わない)。

それから、日本にいるときは当たり前で気にとめなかったのだろうけど、今回戻って来て驚いたことが二つ。
(1) 洗濯物が乾かない。  Bloomingtonでは風呂場に干していても(かび臭くならず)乾くんですが、こっちでは外に長々干していても乾かない。雨季とはいえ、なんて湿度が高いところでしょう。
(2) 車がきれい。  傷がなくてきれいな車がこんなに多いのか、と驚いてます。Bloomingtonには「廃車だろこれは」と思うような車がまだまだ普通に乗られているし、バンパーなどが「ぐしゃ」っとなったまま修理もせず乗っていることも多い。

さて、今日からは何回かに分けて、2週目の韓国行きの件について、撮ってきた写真を載せて適当に書きます。

5泊6日。最初3日はソウル。そのあと慶尚南道の2都市、晋州と釜山を訪れることができました。実験をやりに行った、はずなのですが、実際には実験はほとんど共同研究者の二人がやってくれて、私は遊びにいった感じに近かったかも。移動が多く、それも大韓民国の北西の端っこ(ソウル)から南東の端っこ(プサン)まで往復したので移動にかかる時間も長く、かなり慌しい旅行でした。

1日目 アシアナ航空便。たった2時間なのに機内食。配りはじめたらもう「韓国の香り」が漂い始めました。洋風の牛肉のソテーみたいだけど? 誰かがキムチでも持ち込んで開いたんだろうか? と思いましたが、チューブのコチュジャンが一緒に出されているからでした(写真右手前)。うーん、洋食まで赤く染めるか。

ソウルから仁川の国際空港に向けての鉄道を建設中でした。数年先(来年? 忘れました)開通の予定だそうです。仁川はけっこう遠いので、これができると便利になりますね。最初の晩は、新村のモーテルに宿泊。最初に来た2000年からこの新村周辺ばかりに来ていて、慣れているので。韓国は2004年の10月、済州道の学会(ICSLPという音響関係のもの)で訪れて以来。新村駅は駅舎を新築中。梨大の正門も新しくなって、2002年に3週間語学研修で来たときに本を買った、正門前「梨大書店」も無くなっていました。

明日は2日目以降について、また写真を載せます。

帰国道中 つづき

2006年07月07日 | 旅行記
帰国道中の続きです。シカゴの国際空港では、国際ターミナルへ移動するには空港内の電車に乗るのですが、乗り場へ移動するブリッジのTVで、ドイツvs.アルゼンチンが放送中。3時間近くの余裕があったのですが、「まあ、どこかでTVを見られるだろう、とセキュリティチェックを通過してしまったのが運のつき。

TVはあるんですが、みーんなCNNだかABCだかのニュース。セキュリティチェック直前のフードコート内にあるバーのTVを壁越しに眺めるしかありませんでした。遠くてよく分からない(泣)。写真はそれに群がる私と同じサッカーバカどもです。PK戦、遠くからですがAyalaが外した事が分かりました。彼はW杯ではいい事があまりなかったような。1994年にはオーウェンにぶっちぎられ、1998年にはベルカンプに歴史に残る名ゴールを決められ(シュートブロックに行ってかわされた)、今回もPK外して。最後に外したカンビアッソもそうですけど、ここまで貢献し、がんばりまくってきた選手が外すことが多いのが皮肉。

最後は成田まで12時間の長旅。寝ようと思って映画を見ることに。アメリカの映画などは吹き替えがイヤで見ず。見たのは日本映画「県庁の星」(織田裕二)と韓国映画「台風」(チャン・ドンゴン)。ほとんど寝られず、最後まで見ました。

織田裕二はいいと思ったし、テーマも悪くない。だけど、県議会で採決までしたあと、突然県庁の職員から修正案の提議、という展開がウソ過ぎて、私はしらけてしまいました。そんな非現実的な展開を無理にでも作らないと「カッコいい」って思えないものなんだろうか。

「台風」の方。アクションが見せ場なんだろうけど、どうでもいい。むしろ前半の東アジアに展開するギャングネットワークに潜入しての諜報活動の中で明らかにされる、ギャングのボスの脱北者としての過去の話のほうが面白い。でも、全体のストーリーを概括すると、秘密兵器が盗まれ、その使用を阻止すべく優秀な南の戦士が活躍する。その戦いの中で、南北に引き裂かれ、敵対する運命にある二人が立場を超えて心を通わせる、という筋。過去の大ヒット作品「シュリ」を思い出してしまいました。「JSA」もあったし、ある意味「またか」の感。

南北問題は何度も用いられているようで、「世界に売ろうという」という最近の韓国映画の戦略上、普遍的にアピールするテーマとして使いやすいのかも。それはさておき、韓国の人にとっては、何度見せられてもぐっときてしまうような切実な問題なのだ、ということもあるのでしょうか・・・ でも「南の人の関心は自分たちの日々の暮らしにあり、統一が本当に切実ではない人も少なくない」という記事を読んだこともあります。本当に痛切にこの話を受け止めるのか、それとも軽いセンチメンタリズムを喚起させるだけのエンタテイメントに過ぎないのか。もちろん、個々人のバックグラウンドによって違うのでしょうが。友達も増えてきたので、一度「統一って、あんたにとってどれくらい切実なの?」って聞いてみたい(失礼か?)。

飛行機は予定より30分も早く到着。でも満席で荷物の輸送に時間がかかり、バゲージクレイムで自分の荷物が出てくるまでに30分かかり、結局予定通りの時間に税関を抜けました。久しぶりの日本は・・・人が多い。アメリカの街に慣れてきたせいか建物などの間隔が狭くてちょっと息苦しい、という感想でした。

一時帰国の落とし穴

2006年07月05日 | 旅行記
日本におります。今日は帰ってくる最中のことを書きます。

出発直前の前日、私は大変なことを忘れたのに気づきました。大学が発行したI-20という書類にサインをもらっておく必要があったのだそうです。

このI-20は入学許可であるだけでなく「学生として継続して学業を続けているので、アメリカへの再入国をさせて問題ありません(不法就労などをすることはないはずだ)」ということを、大学として入国管理局に対して保証する書類だったらしい。だから有効期限があって(私のは1年)、入学してからも、そこまでの単位取得などの学生としての記録に照らして、さらに学費などの資金がちゃんとあることを確認して、承認を更新してもらう必要がありました。これを忘れると、たとえ有効なビザ(私の場合2010年まで)を持っていても、そのビザ(F-1という学生の資格)でアメリカに入国することはできない。つまり、明日アメリカを出たら最後、戻ってこられなくなる状況だったのです。ワタクシちゃんと分かってなかったことを認識しました。

幸い、その問題は解決しました。メールで事情を説明、オンラインで海外郵送をお願いしました(審査はちゃんとするようで、2週間ほどかかる)。夜中に急遽相談に乗ってくれた先輩に感謝。でも、こうやっていちいち落とし穴に引っかかって初めて物事を理解すると人に迷惑をかけることになるので、気をつけないと。

そんなんで非常に不安な出発でした。ちなみに、チケットを取るのが遅かったせいでシカゴの乗り継ぎには4時間もありました。しかし、IndianapolisからのAmerican Airlineの便は50分の遅れ。前回Albuquerqueに行ったときもその程度遅れました(そのせいで荷物が到着しなかった)。だから予想の範囲。乗り継ぎに余裕を持たせたのは正解で、慌てることなく、最後に飛行機を降りました。

写真はシカゴのO’Hare空港に着く直前、ミシガン湖上空からシカゴの中心部の方向を見たものです。本当に湖の手前なんですね。