た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

荒れ模様

2012年07月11日 | essay
 天候が悪い。気分もなかなかに悪い。天候が気分を左右したわけでも、気分が天候の印象に傷をつけたわけでもなく、どちらも同時進行してあまりよくない状態が続いているのである。

 悪天候の原因はブラジルにでも赴いて蝶々に尋ねなければいけないかも知れないが、悪感情の原因は自分に尋ねれば事足りる。簡単明瞭、上手くいかないことがあるのである。ただその解決方法がまったくもって簡単明瞭から程遠いので、ここまで私の心を重くするわけである。上手くいかないのは、えてして人間関係である。無論今の私はそうである。

 話は鈍角的に逸れるが、最近毎朝犬の散歩をしている。妻は出勤、息子は学校なら、仕事の始まりの比較的遅い私が犬綱を託されるのは当然の理がある。低血圧は言い逃れにならない。仕方ないから眠い目を擦って早朝に犬綱を引っ張る。犬の糞も始末する。ビニル袋を手袋代わりにして、放出されたばかりの温かい糞を鷲掴みにするのである。トングも購入したのだが、結局使いづらくて鷲掴みになった。私はこれでも誇り高い人間であり、人間と生まれた以上、犬畜生の脱糞の始末を己が手ですることだけは生涯避けたいと念じていた。それが主たる理由で今まで犬を飼うことに消極的であったと言っても過言ではない。それでもいざ犬を飼ってみると、私の信念などビニル袋に包んで縛って捨てられるくらい小さなものであった。意外なことに、犬というのはなかなかに可愛いものであった。仔犬なのでなおさらである。それで、まあ糞くらいは仕方ないかと早々にあきらめて鷲掴みを毎朝敢行しているのである。

 犬と人間の関係というのは、誠にシンプルである。飼い主と、飼い犬。命令と服従。頭を撫でれば尻尾を振る。糞を自分で始末できないならしてやるしかない。怒りや不満の対象に、犬はなりえない。所詮相手が犬だからである。

 人間はそうはいかない。なまじ言葉が通じる分、期待をかけてしまう。もっとわかってくれるだろう、なぜわかってくれないのだ、なぜそんなことを言うのだ、ここはこう言うべきではないのか、と。しかし人間同士で交わされる言葉というのも、さほど便利で有能なものではないのかも知れない。犬がしっぽを振る程度以上のことを、言葉はちゃんと相手に伝えているのか。

 雄弁は銀、沈黙は金、というオリンピックの速報のような格言は、どれだけ使い古されているとは言え、依然、なかなかに腹に響く。
 
 荒れた風が窓を打つ。明日には止むであろうか。
コメント
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