威力のない扇風機が一台、首を回すときに油の切れた音を立てている。美術室は油絵の具独特のケシ油やテレピン油の臭いがムン、と来る湿気とともに充満し、そこにいるだけで軽く目まいを起こしそうに空気が淀んでいた。S子さんは絵筆を握り締めたまま、椅子の背に深くもたれかかって呆然としている。額にはうっすらと汗が滲む。N氏もその斜め後ろで回転椅子にぐたりと腰かけている。彼の方が浮き出る汗は多かった。
N氏は頬杖を突き、疲労のためまぶたの動きが鈍化した目で、白いブラウスを着たS子さんの背中をじっと見つめていた。
S子さんが首だけで振り向いた。泣きそうな表情をしている。
「やっぱり駄目です」
N氏は目をそらさずに答えた。「そんなことはない」
「駄目です。どうやっても決まりません」
「砂地の色を際立たせるんだ。何遍も言ってる。空のブルーよりも砂地を明るくするんだ。そして、パラソルの赤を引き締める」
「私の技術じゃ無理です」
「君ならできる」
「無理です」S子さんは椅子を鳴らして教師の方に向き直り、声を荒げた。筆を持つ右手と、椅子の端を握る左手が小刻みに震えている。
「君ならできるなんて適当なこと言わないでください。できる人に言われてもできないんだからできないんです。先生はどうせ、凡才の気持ちなんてわからないんでしょう?」
N氏はほとんど表情を変えることなく、彼女の頬を伝う涙を眺めた。彼は唾を飲み込んだ。
「疲れたんだ」
「疲れてません」
「ちなみに僕は、凡才だよ」
「先生は絵が描けます」
N氏は疲れた顔で微笑んだ。
「僕は凡才だ。海辺のパラソルのような題材を描けない。美しいものを美しいままに描けない。描かないんじゃない。描けないんだ」
「私も描けません」
教師は回転椅子をわずかに動かし、腰かけたまま身を乗り出した。両肘を膝の上に突く。距離が縮まる。女子生徒のうっすらとつけた香水の匂いがわかるほどに。
「君は描こうとしている。必死に」
S子さんはその言葉にというより、N氏の表情に印象を受けて黙り込んだ。
扇風機のかた、かた、と首を回す音。
「描けません」とS子は自分のキャンバスに向き直って呟いた。
「描ける」N氏も嘆息して元の姿勢に戻った。
十分間が、そのまま過ぎた。
N氏はぼさぼさの頭を掻き毟った。机の上のペンを手に取り、それをじっと見つめ、また戻す。S子さんのうなじを見る。彼女の背中全体を見る。目に見えない骨格の位置まで確かめるように。華奢な腕、白いブラウスに隠された体の輪郭。スカートの襟から覗く、細いふくらはぎ。彼は目を閉じた。
「先生」
その声で彼は我に返った。
「何だ」
教え子は首だけ振り向いた。
「先生は、今、どんなものが描きたいですか」
「──なぜだ」
「いえ、別に」少女の首は元に戻った。
この部屋は暑過ぎるんだ、と、彼は思った。頭が痛くなりそうだ。汗の浮く全身の筋肉を硬直させて、彼は答えた。限界だった。
「君の裸を描きたい」
十八歳の乙女は椅子を鳴らせて振り向いた。
その瞬間、かなり大きな蝉が鳴きながらガラス窓にぶつかる音がした、とN氏は記憶している。それは自分の発した言葉よりも強烈で残酷に響いたように彼には思えたが、もちろんそんなことはなかったに違いない。
S子さんは当然ながら衝撃と動揺の渦中にあった。彼女は真赤だった。N氏もそれを見て、悔悟に顔を赤らめた。
「ごめん。失言だ。でも正直な気持ちだったんだ」
「先生」
ぶたれるのではないかと、N氏は一瞬思った。彼女は勢いよく立ち上がり、その紅潮した顔には鬼気迫るものがあったからだ。「描いて下さい」
N氏は頬杖を突き、疲労のためまぶたの動きが鈍化した目で、白いブラウスを着たS子さんの背中をじっと見つめていた。
S子さんが首だけで振り向いた。泣きそうな表情をしている。
「やっぱり駄目です」
N氏は目をそらさずに答えた。「そんなことはない」
「駄目です。どうやっても決まりません」
「砂地の色を際立たせるんだ。何遍も言ってる。空のブルーよりも砂地を明るくするんだ。そして、パラソルの赤を引き締める」
「私の技術じゃ無理です」
「君ならできる」
「無理です」S子さんは椅子を鳴らして教師の方に向き直り、声を荒げた。筆を持つ右手と、椅子の端を握る左手が小刻みに震えている。
「君ならできるなんて適当なこと言わないでください。できる人に言われてもできないんだからできないんです。先生はどうせ、凡才の気持ちなんてわからないんでしょう?」
N氏はほとんど表情を変えることなく、彼女の頬を伝う涙を眺めた。彼は唾を飲み込んだ。
「疲れたんだ」
「疲れてません」
「ちなみに僕は、凡才だよ」
「先生は絵が描けます」
N氏は疲れた顔で微笑んだ。
「僕は凡才だ。海辺のパラソルのような題材を描けない。美しいものを美しいままに描けない。描かないんじゃない。描けないんだ」
「私も描けません」
教師は回転椅子をわずかに動かし、腰かけたまま身を乗り出した。両肘を膝の上に突く。距離が縮まる。女子生徒のうっすらとつけた香水の匂いがわかるほどに。
「君は描こうとしている。必死に」
S子さんはその言葉にというより、N氏の表情に印象を受けて黙り込んだ。
扇風機のかた、かた、と首を回す音。
「描けません」とS子は自分のキャンバスに向き直って呟いた。
「描ける」N氏も嘆息して元の姿勢に戻った。
十分間が、そのまま過ぎた。
N氏はぼさぼさの頭を掻き毟った。机の上のペンを手に取り、それをじっと見つめ、また戻す。S子さんのうなじを見る。彼女の背中全体を見る。目に見えない骨格の位置まで確かめるように。華奢な腕、白いブラウスに隠された体の輪郭。スカートの襟から覗く、細いふくらはぎ。彼は目を閉じた。
「先生」
その声で彼は我に返った。
「何だ」
教え子は首だけ振り向いた。
「先生は、今、どんなものが描きたいですか」
「──なぜだ」
「いえ、別に」少女の首は元に戻った。
この部屋は暑過ぎるんだ、と、彼は思った。頭が痛くなりそうだ。汗の浮く全身の筋肉を硬直させて、彼は答えた。限界だった。
「君の裸を描きたい」
十八歳の乙女は椅子を鳴らせて振り向いた。
その瞬間、かなり大きな蝉が鳴きながらガラス窓にぶつかる音がした、とN氏は記憶している。それは自分の発した言葉よりも強烈で残酷に響いたように彼には思えたが、もちろんそんなことはなかったに違いない。
S子さんは当然ながら衝撃と動揺の渦中にあった。彼女は真赤だった。N氏もそれを見て、悔悟に顔を赤らめた。
「ごめん。失言だ。でも正直な気持ちだったんだ」
「先生」
ぶたれるのではないかと、N氏は一瞬思った。彼女は勢いよく立ち上がり、その紅潮した顔には鬼気迫るものがあったからだ。「描いて下さい」