goo blog サービス終了のお知らせ 

た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

ウーロン茶で愛を語れば(「記憶の長さ」改題)<前編>

2010年01月14日 | 短編
※こういう所に載せる物としては少し長いですので、ご了承ください。

......................................................

 水道工事会社のパート事務員である浅田久美子はこの夏、アパートに帰りつくやいなや冷蔵庫を開けて悪態を吐くのが日課になっている。悪態は日によって上司に対してであったり、ふた月前に別れた元夫に対してであったりする。ごく稀ではあるが自己批判のときもある。「あんたいったい何のために生まれてきたのさ」とか。一通り悪態を吐き終わると、発泡酒を一缶取り出して右手に握りしめる。それから汗まみれのひたいに当てる。吊り目を閉じ、唇をへの字に結ぶ・・・。
 はっと気がついたように、彼女は缶を手放す。彼女を現実に引き戻したのは、一人息子の英明のピアノ教室である。五時半のレッスン開始まであと三十分。保育園まで迎えに行かなければ。彼女はかぶりを振って缶ビールを冷蔵庫に戻し、代わりに冷水出しのウーロン茶の入った二リットルガラスポットを取り出してグラスに注ぐ。そして世の中を罵る言葉を吐きながらぐっとウーロン茶を飲み干すのである。
 グラス二杯を立て続けに空けて、冷蔵庫を睨みつけていたら、おもちゃ箱をひっくり返したような音楽が鳴り響いた。携帯電話の着信音である。深い井戸でも見下ろすような目つきで、ナンバーディスプレイを見つめる。グラスに三杯めのウーロン茶を注ぎ、ゆっくりと半分まで喉に流す。長い溜息をつき、自分の親にも見せたことのないような盛大なげっぷを添えたあと、久美子はようやく携帯電話を取り上げた。
 「すっごくおひさ。元気?」



 ところで浅田久美子に電話したのは、本島里子である。
 私立大学の非常勤司書を去年お払い箱になり、現在24時間営業のスーパーマーケットで朝八時から夕方三時までレジ係をしている彼女は、親友の久美子より帰宅が二時間ほど早い。帰宅すると、誰もいないのに「ただいま」とつぶやく。鍵を鍵掛けにかけるように、そっとつぶやくのである。一人暮らしの八畳1DKは、いつも小ざっぱりとしている。玄関で靴を揃えた後、ベランダに直行し、ジョロにたっぷり二杯分の水を、朝顔やハーブやミニトマト、職場で貰ってきた枯れかけた観葉植物、山歩きをして偶然見つけた名前も知らない植物などに順番に遣る。ゆっくり、撫で回すように水をかける。それから窓辺に腰を下ろし、眼鏡を外す。赤い縁の眼鏡。強度の乱視である里子には、眼鏡がなければ世界は手ぶれを起こした写真のようにしか見えないのだが、何も見えないことを彼女は密かに楽しむのである。 もう少し背が高くて、もう少し目もとがぱっちりしてればね、と彼女を産んだ母親に言われたことがある。そんなところね、と当時小学五年生だった彼女は答えた。
 瞑想するように、窓辺でじっとしている姿は、長いときには小一時間に及ぶ。
 普段はそれから立ち上がって夕食の準備に取り掛かる。ところが今日は、両手で顔を覆って泣き始めた。涙が、痩せた指の隙間から、植木鉢に注がれることもなく幾筋も落ちた。
 表通りの歩行者用信号のメロディが、かすかに聞こえてくる。公園では子どもが何やら言い合いをしている。車のクラクション。西日が一段と低くなる。
 ようやく泣き止むと、立ち上がって台所に行き、凄まじい音を立てて洟をかんだ。眼鏡を掛け直し、ちゃぶ台の前に体育座りをして携帯電話を取り上げる。しばらく手に握りしめていたが、諦めたように電話をちゃぶ台に戻す。再び手に取り、また戻す。それからやっぱり取り上げ、涙で濡れた親指を震わせながらボタンを押す。携帯電話を耳に押し付けると、本島里子は、虚ろな目を窓辺に向け、音も立てずに吊り下がっている色あせた風鈴を見つめた。
 
 「すっごくおひさ。元気?」
 「ごめんなさい」
 蚊の鳴くようなその声で、浅田久美子は、肺の空気を全部抜きとるほどに長い鼻息をついた。
 「何で謝るのさ」 
 「だって」
 「何で謝るのさ」
 「ごめん」
 「もうとっくに時効だよ」
 電話の向こうは泣き声を上げた。久美子はひたいに手を当てた。
 「ねえサト、サト。時効という言葉が悪かった。悪かったわ。あたしが謝る。だってサトは何にも悪いことしてないんだもの。そうでしょ? ねえ。言ったじゃない。あたし何にも気にしてないって。あのね、サト。あんたに罪はないの。あんたがやったことは、罪じゃないし、女として普通のことなの。とっても普通。女だったらさ、何て言うか、愛し合うことに関しちゃ、誰に遠慮もいらないでしょ? 」
 泣き声が大きくなった。久美子は憤慨して冷蔵庫を睨みながら声を張り上げた。
 「ねえ。ねえサト。いい加減にしな。こら。ちょっと。あたしの話聞いてる? あたしは自分で言うのもなんだけど、ほんとさっぱりした性格なのよ。全然根にもってないし。とにかく、これで繰り返し言うのはかれこれ八度目くらいだろうけど、いい? あれは、あたしたちの関係が終わってから、あれがあったのよ。あんたと貴彦のことがあったのは、あたしと貴彦が決裂したあと。あたしたちの関係は、そんときはもうきっぱりさっぱり終わってたの。終わってたの。わかる? 離婚届けに署名こそまだしてなかったけど。でももう、明日あさってには市役所に行こうって話になってたの」
 「でも」
 「とにかくサトに責任はないの。ないの。ナッシング。そのとき貴彦と何しようが、離婚の前提が揺らぐ可能性はなかったし。むしろおかげでスムーズに行ったくらいよ。いいきっかけって感じ。ねえ、だから泣かないでよ」
 「私、クミと貴彦君に離婚してほしくなかったから、説得しに行ったのに」
 「そうね。そうよ。サトこそお気の毒よ。腹いせにもてあそばれたみたいな感じでさ。あんた強姦されたのよ、貴彦に。被害者よ。あいつほんとにずうずうしいからね。信じがたい奴だからね。新聞の料金を徴収しにきた女だって口説き落とそうって思うんだから。獣が服着てたようなもんよ。あたしたちがジ・エンドを迎えることは、四年も前にはすでに、四年後のオリンピック開催国みたいにばっちり決まってたの。結局、早かれ遅かれだったのよ。サトとのことがいいきっかけ。あんときにゃもうオリンピック開会式一週間前のリハーサル状態。そりゃあさ」
 気がつけば久美子は、しゃべりながらテーブルに点いた焦げ跡を爪でこそげ落とそうとしていた。はっと指を引っ込め、爪についた汚れを点検する。
 「そりゃあ、まあ、サトのおかげでさ、最終的には一日から三日分くらいスムーズに事が運んだかも知れない。かも知れないけど、けど、その分あたしのストレスが三日分軽減されたわけよ。そう。ストレスから来るいろんな、胃潰瘍やら自律神経失調症やら肝硬変やらを回避することができたんだから。感謝したいくらいよ、ほんとに」
 「肝硬変はアルコールでしょ」
 「ストレスで飲み過ぎるんだから同じよ」
 里子は初めて笑い声を洩らした。その声を聞き、久美子も口を開けて短く笑った。
 


 風鈴が音を立てる。赤い眼鏡の里子は少しだけ安心したような表情をして、座布団の上で両脚を伸ばした。携帯電話を耳に当てたまま前屈のような真似をする。ほとんど骨と皮だけの脛である。衣装箪笥の上に乗る金魚鉢で、出目金が跳ねた。

 久美子は凝りをほぐすように首をひねり、顔をしかめた。足で冷蔵庫を開けて缶ビールを再び取り出す。右手で缶を転がしながら壁時計を見上げる。鼻息をついて缶をまた冷蔵庫に仕舞う。足で冷蔵庫のドアを閉める。
 
 二人の女はそれぞれ、次の相手の声を待って携帯電話を強く耳に押し当てた。



 里子のアパートの隣は小さな公園である。すずかけの木にやってきた鳥の鳴き声を、里子は目を閉じて聞いた。
 「この一か月、ずっと死にたいと思ってたよ」
 里子のこの告白に対し、彼女の親友はしばし、仏像のように沈黙した。「そう」右足のかかとを手のひらで擦りながら、彼女は言葉を付け足した。「じゃあ、これからは生きたいと思って過ごしな」 
 「うん。そうする。ねえ、クミ」
 「何?」久美子は時計を見上げた。「そろそろ英明を迎えに行かなくちゃいけないんだけど」
 「あ、ごめん。じゃあまたにする」
 「いいよ。ちょっとだったら。何さ」  
 「うん、またにするよ。またでいいから」
 「言いかけて止めるなよ。気持ち悪いじゃんか。何さ」
 「うん」
 ちゃぶ台の上に乗っているペン立てを、里子は無意識に引き寄せた。鉛筆やらボールペンやら蛍光ペンやら筆ペンやら色鉛筆やらが、これ以上新規のペンは受け付けないぞとばかりにぎゅうぎゅうにおし込められている。里子はそのどれを抜き取るわけでもなく、自分のひたいをペンの束に押し当てた。それからペン立てを元に戻し、携帯電話に頬を寄せた。
 「クミ」
 「お?」
 久美子は空いた手で手鏡を出して鼻毛の有無を点検していた。「何さ」
 「クミ、貴彦君のこと嫌いなの」
 北風が吹きつけるような豪快な音が里子の耳に届いた。久美子のため息である。
 「好きだったら離婚してないわよ」
 「そうかな」
 「何だよ。あんたはまだ未練があんの」
 「そんなこと」誰にも見られていないのに、里子は懸命にかぶりを振った。「私は本当に、あの日のことがなかったらって思うよ」
 「まあとにかくろくな男じゃないよ。調停に来た女友達を手ごめにするんだから」
 「クミ」
 「笑ってるの? 泣いているの?」
 「笑ってるんだよ。クミ。クミ。クミ。相変わらず口が悪いなあって」
 久美子の耳には、しかし、嗚咽のような音が届いた。
 「クミ。でもね」と里子は鼻を啜りながら続けた。
 「でも、貴彦君、クミのこと話しながら大泣きしたんだよ」
 「あ、そう」
 「あそう、じゃないでしょ」
 「最低だね」
 「何それ、クミ。クミ、どうしてそういうこと言うの」
 「トイレに行きたいだけだよ」
 「もう。クミ」
 「下世話だけど、ほんと行きたいんだよ。ウーロン飲んだからさ。そいで、もううちのこぶを迎えに行かなきゃいけないからさ」
 「そんな言い方やめて、クミ」
 「いやほんとに、ピンチなんだ。英明のピアノがあるから、急いで保育園まで迎えに行かなくちゃいけないの。その前にトイレ、トイレ。やばいよ。サトが今ここに居てあたしの青ざめた顔見たら、納得してくれるわよ。ごめん。とりあえず今日はここまで」
 「うん。わかった。ごめんね、クミ」
 「こっちこそ。また、またね」
 「うん。クミ?」
 「どうした?」
 「ありがとう」 
 「どういたしまして。アディオス」
 「うん」
 本島里子は携帯電話を親指で切った。浅田久美子もその音を確認してから、親指を動かした。
 二人の女性の間に、町二つ分の距離が戻る。



 薄暗いダイニングルームは冷蔵庫の音しかしない。浅田久美子は椅子の背もたれに体重をかけながら黙然としていたが、不意に身体を起こし、食卓を手のひらで思い切り叩いた。それから痛そうに手を振り、立ち上がった。 
 「裏切り者」
 急いで鍵を持ち、バッグを肩に掛けながらも、彼女は独り言を止めない。
 「死にたいなら死んじゃえ。え? 死んじゃえどいつもこいつも。糞ったれが」



 風鈴が狂ったように鳴り始めた。夕刻の風がベランダに差し込んできたのであろう。本島里子はいまだちゃぶ台の前に座り込んだまま、両手で握り絞めた携帯電話に見入っている。ディスプレイに映る写真が次々と変わる。雪山が映る。久美子の特大の顔とVサインが映る(見ている里子は小さく笑った)。写真の久美子は、今よりも痩せていて若い。久美子のVサインが三回続けて映る。それから、帽子の位置を直しながら、カメラマンに要求されて眼だけこちらに向けた瀬川貴彦の全身像が映る。久美子のVサインがまた映る。里子自身が映る。やはり今より若いが、妙に緊張している。脇に抱えるボードの重みに戸惑っているようにも見える(自分の写真を見つめる里子の目は冷ややかである)。写真はさらに替っていく。リフトに乗ってチョコポッキーを口にくわえた久美子の横顔。手ぶれをおこして何が映っているのかわからない画像。山の上から眺め下ろす雄大な冬景色。最後に、三人がそれぞれのボードを抱え、並んで立っている写真。三人とも命令されたように突っ立っているだけである。左から瀬川貴彦、それにくっつくようにして浅田久美子、少しだけ離れて本島里子。
 宵闇が部屋の中に急速に広がりつつあった。画像は何度か自動的に消えたが、その都度里子はボタンを押して三人の写真を復活させた。視線を落とし、うつむく。しばらくそのまま項垂れていたかと思うと、顔を上げ、親指を動かし、帽子の位置を直す瀬川貴彦の写真のところまで戻った。
 携帯電話を鼻にくっ付きそうなほど近づけて見入る。ディスプレイの明かりが、赤い眼鏡をかけた里子の顔を照らす。口をへの字につぐんで眉根を寄せる彼女の頬に、また涙が細い筋となって伝った。




 とにかく狭い居酒屋であった。酒がどこでこぼれようが床に落ちた割りばしを誰が踏みしめようがそれどころではなかった。カウンター五席と二人掛けテーブル一台はすべて酢漬けにしたような酔っ払いたちで埋まっていた。酒のにおいに正体のわからない饐えたにおいが混ざり、耳鳴りがするほどの喧騒が店内を満たしていた。そうそう、奥のトイレに行く途中に三畳ほどの座敷もあるにはあったのだが、すでに二人の酔いつぶれた男共で占領されていた。客の構成は以下の通りである。商店街の暗い先行きと明るい夢物語について気炎を上げる、地元商工会の若手グループが五人(そのうち二人が座敷で寝ているので、現在はカウンターに三人)。入口付近の残り二つのカウンター席では、水商売風の女二人組が煙草をふかしながらけらけら笑い転げている。そして壁際の、両肘も突けないほど狭いテーブル席に、学生時代の後輩の宇藤庄司を前にはべらせて、瀬川貴彦がいた。
 彼は夕立ちを浴びたようなひどい顔で泥酔していた。鷲鼻に太い眉に細い顎というもともと精悍な顔立ちは今や脂汗にまみれ、今朝丹念に櫛解いたはずの髪は無残に乱れ、目は殺人を犯した直後の人のように血走っていた。なおたちの悪いことに、くだを巻いていた。
 「お前! 友香ちゃんといつ結婚するんだよ」
 「まだしませんよ」
 「え? 早くしてしまえこら。うかうかしてると俺が取っちゃうぞ」
 「止めてくださいよ」
 「でもなあ。でもなあ宇藤。言っとくが、結婚だけはやめとけ」
 「瀬川さん、それもう何回も聞きました」
 「うるせえ。宇藤聞け。恋人同士のときが一番だぞ。結婚はなあ。結婚てのは、ひでえもんよ」
 説教する貴彦の首は、しゃべりながら時折下がる。「結婚は、はっきり言う。泥棒と一緒だ。奪われるんだよ。結婚するときに奪われ、結婚が失敗したときにも奪われる。二度奪われる。ろくなもんじゃねえ。」
 「何を奪われるんですか」
 「あ? 何を奪われるんですか? あ、当ててみろ」
 「知りませんよ」
 「馬鹿野郎。当ててみろ」
 「金ですか」
 「そんなちんけなもんじゃねえ」
 「ちんけですか、金が。そうだなあ。二度奪われる・・・結婚するときと離婚するとき? まさか、童貞とか処女とかじゃないですよね、このご時世に」
 「馬鹿野郎」
 「あ、わかった。自由とか」
 「自由? 離婚すりゃむしろ自由が手に入るじゃねえか」
 「未来とか」
 「けっ、そんな薄っぺらなもんじゃねえって」
 「はあ」
 「自由とか未来とか、どーでもいいんだよ。どーでもいいんだそんなもの。自由なもんはもとから自由だし、不自由なもんは不自由なんだよ。未来だ? 未来なんてほっといてもやって来るんだ。ほんとお前は昔から薄っぺらだなあ宇藤」
 宇藤庄司はさすがにむっとした表情を隠さない。
 「じゃあ何ですか」
 「尊厳だ。尊厳だよ」
 「はあ」
 「はあじゃねえだろ。尊厳だよ。結婚するときも、離婚するときも、人間としての尊厳ってやつを奪われるんよ」
 「なるほど」
 「なるほどじゃねえよ。わかったようなこと言うな。え? 尊厳を奪われるんだよ。結婚してひもで首つながれるときに奪われる。家畜化されるわけよ。つまり。そんでもって、離婚すれば、もうそうなったら目茶苦茶に、とことん、徹底的に尊厳を奪われる。使えない家畜みたいに扱われるわけだ。病気持ちの豚みたいなもんだ。ハエやアブよりも邪魔者扱いされるわけだよ。とんでもねえ。だから結婚なんて絶対やめとけ」
 宇藤は苦笑しながら先輩のお猪口に酒を注ぐ。
 「でもそれは離婚したらの話でしょ」
 貴彦は両肘を突いて頭をかきむしる。
 「ある種の女と結婚したら、絶対離婚する」
 「どんな種ですか」
 小皿に残る竹輪の揚げ物を、貴彦は、必死に焦点を定めようとする目つきで睨み、爪楊枝で刺した。
 「許さない女だ」
 「許さない女?」
 リンチのように何度も貴彦の爪楊枝に刺される竹輪を、宇藤もぼんやり見つめながら聞き返した。
 そこへ韓国人の女将が熱燗を持って現れた。
 「セガワサーン、ダイブヨッパラッテルネー」
 貴彦は幽霊のお岩のような笑顔を女将に向ける。
 「酔っ払えないんだよ」
 「ダイジョウブー?」
 「大丈夫でしょう、多分」宇藤が貴彦の代わりに、女将の心配に答えて熱燗を受け取った。



 壁と天井の境に取り付けられた年代物のテレビが、誰も聞かない六時のニュースを終えた。
 カウンターでは何やら共通の話題で全員がつながり、下卑た哄笑が沸き起こった。
 「許さない女だ」
 貴彦は話の続きに執着する。
 「許さない女ですか」
 「許さない女だ。結婚してから一度も、どんなことでも俺が勝手にするのを許したことがない。常に何か文句を言わなきゃ気が済まないたちなんだ」
 宇藤はキャベツを二三切れ口に放り込み、顔をしかめて咀嚼する。「そうですか」
 「例えば、例えばだぞ、俺がこうやって一人で飲みに出ると文句をつける。そもそも俺とあいつは飲み屋で知り合った仲だ。酒の世界、酒の文化ってものを、互いによくわきまえているはずだろ。なのに、なのに、結婚した途端に、不寛容だ。不寛容っても、あれだぞ。おめえ、自分は女友達と平気で深夜まで飲みに行くんだぞ。それなのに俺がお前とか同僚とかと飲み会で出かけると、すごく不機嫌なんだ。男の飲み会はすぐキャバ嬢といちゃいちゃするコースに流れるから嫌だとさ。ふざけんじゃねえよ」
 キャバ嬢、という言葉に、カウンター席の女二人組が反応してちらりとテーブル席を振り向いた。
 貴彦はしゃっくりとげっぷの混ざったような音を出した。
 「それから、金だ。金の管理。俺が稼いだ金なのに、全部巻きあげといて、とにかく渡さねえ。一月の小遣いが五千円って時もあったんだぞ。え? 五千円だぞ。五千円。信じられねえだろ。え? 今どきゃガキの小遣いだってそれより多いぞ。そんときゃいくらなんでも月の半ばにもっと出させたけどよ。やっていけるわけねえだろ、五千円で。泣きたくなるよな。とにかく、とにかくだな、あいつは俺を信用してなかったんだ。全然信用してなかった。いつでも共産主義国のスパイかなんぞみたいに疑り深い目つきで、監視してたんだ」
 なみなみ酒の注がれたお猪口を震える手で持ち、口に運んだが、半分かたはテーブルにこぼれた。
 苛立ちの音を立ててお猪口を置く。 
 「俺があいつを裏切ったのは、はっきり言おう。別に言ったって構わねえよ。二度。たった二度だ。一度はあいつが妊娠中に、酔っ払った勢いの出来心だ。これは俺が悪かった。認める。俺はそんとき、最低の男だった。認める。何度も詫びたし、土下座までしたよ。ああ。二度としないって約束した。二度目は、もう離婚することに話し合いで決まってからだ。だからそっちに罪はない。だから、正確に言えば、あいつを裏切ったのはたった一度だ。たった一度。後はキャバクラだろうがテレクラだろうが何にもねえよ。わあわあ言ってるけど、ほんと何にもねえんだ。女は好きだし助平なことも言うけど、俺なりに反省して我慢してきたんだ。たった一度なんだ。畜生。一度。それも酔っぱらってよくわかんなくなってだ。畜生。もちろん一度でも罪は罪だ。ああ。でも、そんとき花瓶投げつけて怒りゃいいわけで、何も、洗濯物を分けて洗うくらい毛嫌いすることはねえだろ?」
 「洗濯物を分けて洗うって、どういうことです?」
 「おれのパンツと自分の下着を一緒に洗わねえってことだよ」
 宇藤はしばらくお品書きを見上げて口をポカンと開けていた。カウンター席に座る何人かが再び貴彦の方に振り向いている。誰かの忍び笑いが聞こえるに及んで、宇藤はようやく視線を自分の学生時代の先輩に戻した。
 「ほんとですか」
 急激な酔いと眠気に襲われて項垂れていた貴彦は、土気色の顔を起した。
 「ほんとって何がだよ」
 「洗濯、別々に洗ってたんですか」
 「ああ。最後の五年間くらいはな」
 「五年間も」
 「五年間だ」
 「五年間」
 「びっくりするだろ」
 「びっくりしました」
 「そういう女だったんだ。あいつは」
 貴彦は両肘を突いたまま乱れた髪に両手を入れ、さらにもみくちゃにした。 
 「嫌悪感だけで生きてきたんだよ、あいつは。愛情が少しでも残っていたんなら、許せるだろ。でも全く嫌いになったものに対しては、許せるわけねえんだ。あいつは俺をゴキブリの死骸みたいに嫌ってたんだ。ほんとだぞ。ほとんど結婚生活を通じてずっと。あいつは憎しみの塊なんだよ」
 宇藤は顔をしかめて貴彦の顔を覗き込んだ。
 「先輩、顔色悪いですよ。出ましょう」
 貴彦は髪の毛が抜けるほど強く頭をかきむしり始めた。箸が音を立てて転がり落ちていった。
 「それなのに」
 「先輩」
 「それなのにさ」
 「先輩、ここを出ましょう。飲み過ぎましたよ」 
 「それなのに、何で俺はあいつが愛しいんだ? 愛しいんだよ。笑えよ瀬川。笑え。俺は別れたくなかったんだ。あんな毒蜘蛛みたいなやつとでも、結婚生活を続けるよう努力したんだ。努力したんだよ。英明がいたからだ。英明がいたからだよ。英明があんまりにも不憫だろ? こんなことでこんなになってさ、まったく大人の勝手だろ? 久美子なんてどうでもいいんだ。どうでもいいんだあんなやつ。あんなやつどぶ板に足挟んでひっこ抜けなくなって死んじまえばいいんだ。でも英明があんまりにも不憫だろ。」
 「先輩」
 「うるせえ。お前先に帰れ」
 「先輩。そんなに奥さんを」
 「うるせえ! 帰れ!」
 貴彦は叫び、邪険に宇藤の手を払いのけた。宇藤は弾みで後ろによろめいた。




<つづく>







ウーロン茶で愛を語れば(「記憶の長さ」改題)<後編>

2010年01月14日 | 短編
<前編よりのつづき>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いびつな凹凸のついたアルミ製の灰皿から立ち昇る白い煙の筋が完全に立ち消えてから、権堂警部補は受話器を取り上げた。横に置いたメモ用紙を睨みながら太い指で番号を押す。全部押し終わったところで寝不足の目を閉じて、脂の浮いた眉間を摘み、鼻息を抜く。その鼻息には、解決する案件よりも解決しない案件の方が遥かに多かった、この二十数年間の蓄積された鬱憤が詰まっている。
 広い顔である。目のくまが深く、頬骨やあごの筋肉が不思議なくらいあちこちで小さく盛り上がっている。その隆起のすべてに何かしら波乱に満ちた歴史が刻まれているようで、それが生来ののっぺりした顔に変化を与え、警部補としての威厳と風格を与えてもいるが、また同時に救いようもなく不細工にもしている。
 彼は受話器を耳にあてたまま、隣の丸椅子に座る青年をちらりと見やった。彼に向って口を開きかけたとき、受話器の呼び出し音が止んだ。
 「もしもし」
 「もしもし。夜分に突然お電話してすみません」警部補の声は砂まみれの岩を引き摺るようなだみ声である。「本島里子さんですか」
 「あ、はい」
 「私は本町派出所の権堂と申します」
 「え、あの」
 「ええ。実はちょっとした事故がありましてね。まあちょっとした交通事故ですが。えーと、おたくは瀬川貴彦という人をご存知ですか」
 口元をごしごしと手で擦ってから、彼は慌てて言葉を継いだ。「もしもし。本島さん」
 「あ、あの」
 「もしもし。大丈夫ですか」
 「交通事故、ですか。貴彦君、そんな、うそ」
 「いえあのね。どうか落ち着いてください」
 「はい。あの、はい」
 「本人は無事です。今ここに隣にいますがね。ええ。外傷は何もないです。それでは、あなたは瀬川貴彦さんをご存じなんですね」
 「はい」
 「ええと、お友達ですか」
 「あ・・・はい。何が、起こったんですか」
 「お友達ですか。ならちょっと事情を説明させていただきましょう。ええとね、交通事故です。瀬川さんは歩行者でした。ひどく酔っぱらっていましてね。不意に車道に飛び出たんです。ええ。事故当時、一緒に飲んだ方とは別れた後だったようでして、一人で歩いていました。目撃者は何人かいます。車は急ブレーキをかけましたがね、まあ夜道ですし、いきなり飛び出されたわけですから。街中を走行中で速度が遅かったのは幸いでした。ぎりぎりでしたが・・・ぎりぎり、どん、と。運転手は、向こうから倒れこんできたって言ってますがね。いずれにせよ、ぶつかったってほどじゃありません。ぽん、と軽く身体に当たった感じですな。先ほども言いましたが、不思議なくらい外傷は何もありません。ただ、仰向きに倒れるときに、ちょっと頭を強く打ったらしいんです」
 「そんな」
 「いえ、大丈夫です。大丈夫なんですよ。ええ。救急医に見せましたが、損傷はないみたいです。頭蓋骨ってのは意外と丈夫なもんでしてね。中の脳みそも、何ともないみたいです。ただ、打った瞬間のショックってのかな。脳を強く揺さぶられると、一時的になることがあるらしいんですが、いわゆる記憶障害ってのにかかってましてね。あの、もしもし」
 話し手は、眉をしかめて薄い下唇を噛んだ。電話の向こうからはすすり泣く声が聞こえてきている。
 「大丈夫です。ご安心ください。なに、一晩寝ればだいたい回復します。どうかご安心ください。ただ目下のところ、短期的な記憶が残らない状況に陥ってましてね。それまでの記憶はあるんです。自分の名前とか、勤めている会社の名前とかはきちんと言えるんですが、今この瞬間に何が起こったのか、とか、今何を言われたのか、とか、そういったことが覚えられないんですよ。ちょっとお待ちください」
 警部補は送話口を胸に当てると、空いた手を振り回して向かいの席の若い警官の注意を惹きつけ、そのまま手真似だけで、自分の横に座る瀬川貴彦に茶を淹れるよう指示した。若い警官は頷いてすぐに立ちあがった。
 警部補は受話器を耳に戻した。
 「済みませんでした。ええと、それでですね、そう、記憶の話でしたが、感情ってのは記憶とは別物のようですな。つまり、聞きたい、とか、知りたい、という欲望は持続するみたいで、何があったのか、というのを何べんも聞くんです。ええ。でもそれに対して私が説明するでしょ。そうすると、その説明はもちろん、そもそも自分が質問したことも忘れて、でも聞きたいという気持ちは持続しているから、また同じ質問を繰り返すんです。今、何があったのかって。それを何べんも繰り返すんですよ。ようやく、自分が事故にあったということくらいは理解したみたいですが・・・だから、ちょっと調書も取れないような状態でして。その上、本人はまだ少々酔っ払ってます。つまりまともな会話ができる状態ではないんですわ。ですからどうか、電話口に本人を出させるのはもうしばらく控えさせてください。ええ。いずれにせよですな、身元引受人がいなくて困っとるんです。本人が何もはっきりしたことを喋れませんので。携帯の住所登録の欄を見させていただきましたが、久美子、という方の着歴が一番多い。奥さんかって聞いたら、ちょっとわけのわからんことを言いましてね。そうなんだが微妙なんだってなことを。うーん、で、こちらがその久美子さんという方に連絡を取ろうとしたら、絶対彼女には電話をかけるなって言うんです。彼女には知らせたくないらしいんです。その意志だけは強迫観念のように強い。こちらがもうかけないって言ってもしつこく、かけるなかけるな、と言うもんですからだいぶ弱りましたよ」
 里子の部屋は真っ暗であり、ただ窓のカーテンの隙間から漏れる月明かりだけが影と影との輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。里子は布団の上に両膝を突き、尻を上げ、背筋を伸ばして携帯電話に出ていた。眼鏡は掛けておらず、薄手のパジャマの裾が風もないのに揺れてばかりいた。そうだったんですか、と彼女は答えた。
 「で、どうして、私に」
 「ええ、それがですな。あの人にかけても駄目、この人にかけても駄目。親元には落ち着いてから知らせたいし、そもそも近くにいない、なんて言われまして。最近着信のあった電話番号から順に問い質しましたところ、あなたの名前が出たときに、ようやく彼はOKを言ったわけですよ。あなたなら、古くからの友達で、連れて帰ってくれるって」
 そうだったんですか。と、里子は先ほどと同じ相槌を打とうとしたが、声にならなかった。
 「いやもちろん、あなたにはあなたの事情もおありでしょう。いやだったらはっきりそう言ってください。どうですか。彼を家まで連れて帰ってもらえますかね」
不意に脱力感に襲われたように、里子は上げていた尻を布団の上に落とした。パジャマの一番下のボタンを左手で意味もなく握りしめる。右手の携帯電話はしっかりと顔に当てたままである。
 「もしもし」権堂の低くひび割れた声。
 「あ、あの」里子は無意識に正座になった。「私、久美子という人の電話番号知っています。私がその人にかけます」
 「もしもし、本島さん」
 「久美子さん、大丈夫です。あの人ならちゃんと貴彦君を家に連れて帰ってくれます。私が話します。貴彦君が嫌がっても大丈夫です」
 「もしもし、あのね、もしもし」
 「はい」
 「あなたはその・・・」権堂はちらりと隣を見やった。「その、電話をするという方と、お知り合いなんですか」
 「あ、久美子さんですか。はい」
 「その方にかけても大丈夫ですか」
 唾を呑みこんでから、はい、と里子は答えた。
 「その方と、この人とは、現在どういう関係なんでしょうかね」
 壁時計のかちかちいう音が十回以上は聞こえたと、権堂は待ちながら思った。彼は口を手のひらで擦って返事を待った。
 「夫婦です」
 里子のはっきりした声が、彼の耳に届いてきた。



 派出所の外を大型トラックが地響きを立てて行き過ぎる。
 受話器を戻してからも、権堂の大きな手はなかなか受話器から離れなかった。閉じた口を歪めて小さく頷いてから、彼は隣の青年に向き直った。
 青年は難解な問題でも解いているように眉をひそめ、顎に手を当ててうつむいている。視線だけはその都度何かに思い当ったように、絶えず動いている。
 「瀬川さん」
 「あ、はい」
 こいつは誰だ、といういぶかしげな顔つきで、青年は権堂を見た。 
 「本島里子さんと連絡が取れました」
 「え、どうして」
 「あなたが連絡を取っていいと言ったからですよ」
 「そうですか。そう言いましたか。あの、ここは」
 子どもに向き合うときのように、権堂は両膝に手を置いて正面から青年に向きあった。
 「本町派出所です。さっきから何度も説明していますよ」
 「そうですか。そうですね。では、あの、ここは」
 「本町派出所です。本島さんが言うには、久美子さんに連絡を取って、久美子さんが迎えに来るように取り図ってくれるそうです」
 「え、久美子が」
 貴彦は頭を抱えた。「久美子だけには知らせないでください」
 「あなたにそう言われたのでね、私も迷ったんですが、でも彼女はやっぱりあなたの奥さんらしいじゃないですか」
 「いえ・・・はい。久美子だけには知らせないでください」
 「ええ、でもね、もうこちらの判断で、知らせてもらうことにしました。らちが明かないのでね」
 「はい。そうか・・・。あの、ひとつお願いがあります」
 「何でしょう」権堂は身を乗り出した。
 「久美子だけには、知らせないでください」
 権堂は両肘に腕を立てて肩をいからせたまま、首の力を失ったように項垂れた。向かいの若い警官が、心配そうな面持ちで、彼に茶を差し入れた。




 網戸を抜けた風がカーテンを揺すって絶える。暗がりの中で二つの寝息が交錯する。白砂をこぼすような幼い寝息と、荒波が打ち砕かれるような大人の寝息。二つの寝息の違いは、二十数年の人生経験の厚みの差がもたらす違いであるが、血のつながった親子らしく、規則正しく呼応している。目覚めているときのように、言い合ったり喚き合ったり、叱ったり泣いたり大げさに溜息をついたりすることのない、実に平和な寝息のハーモニーである。
 その平和が突如、電子音で破られた。
 大人の寝息が、鼻に栓をされたように詰まった。長い手が二、三度空をさまよってから枕元の携帯電話に伸びた。
 「な、なによこんなど深夜に」
 「クミ? ごめん、起こしたね」
 「起こされたわよ。何事? 彼氏でもできたの?」
  電話の向こうは小さく笑った。笑いの後に鼻をすすり上げる音までついた。  「違うの。クミ。違うのよ。そんなことだったらいいけど、大変なことになったの」
 「何さ。一度に二人もできたとか」
 「クミ。よく聞いて。貴彦君が、事故に遭ったの」
 腹一杯に空気を吸い込んでから張り上げたような声量で、「え?」と聞き返す浅田久美子の声が、本島里子の鼓膜を震わせた。すぐに子どものむずかる声がそれに続いた。
 「あ、ごめんサト。英明が起きた。ちょっと待って」
 よし、よし、と親友が彼女の一人息子をあやすのを、里子は両手で携帯電話を耳に当てたまま聞いていた。男の子の泣き声は五分ばかり続いて止んだ。それから部屋を移動する足音や扉の音が聞こえ、椅子を引く音と続いてから、久美子の声が電話口に戻ってきた。先ほどとは打って変わって冷静な声である。
 「ごめんごめん。案外早く寝たわ。今、食堂に移ったから大丈夫。で、どういうことだっけ」
 「あの、貴彦君が、車にぶつかったの」
 しばらく間をおいて、椅子の位置を直す音が聞こえてきた。
 「車にぶつかったって、どういうこと。あいつが車にぶつかったの? 車があいつにぶつかったの?」
 「え」
 「つまりどっちが飛び込んできたのよ」
 「そりゃ、そりゃ車の方よ。もちろん。そうだと思う。でも、貴彦君も相当酔っぱらってたらしいけど。車道に出ちゃったのは貴彦君の方かな。でも運悪くそこに車が突っ込んできたの。それで、急ブレーキかけたんだけど、ぶつかって、貴彦君は頭を打ったんだって」
 「へえ」
 「クミ、クミ、これほんとの話よ」
 「嘘の話で深夜に電話掛けてくる人じゃないわよ、あんたは」
 「クミ、貴彦君は頭を打って」
 「死んじゃったの」
 「クミ」
 「最悪の言葉は人から聞かされるより自分で言っちゃった方がいいと思っただけ。つまり、あいつは死にはしなかったんだね」
 「クミ。けがはしてないの」
 「ほんと? じゃあ血も出てないの」
 「血も出てないの。でも」
 「でも? 何さ、あんたももったいぶるわね」
 「でも、記憶がなくなったらしいの」
 時計はこの瞬間に、双方の家で午前一時を指した。



 「記憶喪失?」
 「違うの。昔の記憶はあるの。でも、今の記憶がないんだって」
 「サト、あんた何だか難しいこと言うね」
 「ごめん。私、説明下手だから。あのね、今起こったこととかを記憶できないんだって。今までの記憶はあるけど、新しく記憶をためることができないみたいなの。よくわからないのよ。二三日したら治るらしいけど、でもよくわからないの。警察から電話があったの」
 久美子は脚を組み、深く息をついた。
 「サト、何であんたに警察から電話があったの」
 「それはクミ、それは、警察が携帯電話の履歴かなんかを調べて、ほんとはあなたに電話したかったんだけど、貴彦君があなたにだけは電話しないようにってお願いしたんだって」
 へええ、と、久美子は長く伸ばした相槌を打った。「そりゃ、まあ、もう離婚してるんだから、当然よね」
 「違うのよ。クミ。違うの。貴彦君は、あなたにだけは迷惑をかけたくなかったからよ。あなたにだけはこんな姿を見せたくないと、思ったと思うの。今何言われたかも覚えてないありさまよ。あなたにそんなみっともない姿を見られたくないじゃない。それで、仕方なしに、警察の人が、私の履歴にかけてきて、誰に引き取りをお願いしたらいいか相談しにきたのよ。クミ。だから私答えたの。私答えたの。あなたが行くって。あなたが、貴彦君を引き取りに行くって。あの人を引き取りに行けるのは、あなたしかいないって。貴彦君がどんなこと言おうと、彼はあなたが来るのを待っているって。だから、私からあなたに電話して知らせるって、そう言ったの」
 電話を持つ右手が汗ばむものを感じて、久美子は左手に持ち替えた。テーブルの端を握り、離した。
 「もしもし、クミ」
 「うん」
 「行ってくれるよね」
 栗色の前髪を手で払った。「やっと、あいつから離れられたと思ったのよ」
 電話の相手は無言で首を横に振る。
 「まったく、なに飲み過ぎてんのよ」
 「事故に遭ったのよ、クミ」
 「ほんとブサイクね」
 「行ってあげて」
 「なんでサトに頼まれなきゃいけないの?」
 里子は膝を叩いた。「もう、クミが行かないんなら私が行くよ?」
 町二つ分またぐほどの、とまではさすがに言えなくても、里子がびっくりして携帯電話から顔を離すほどの、そして、久美子の家でも隣部屋で英明がまた泣き出すほどの大声が、久美子の全身の筋肉を使ってほとばしった。
 「どうしてあんたが行くのよ」
 耳鳴りがして、里子はすぐに返事を返せない。
 「サトには関係ないでしょ。私にも関係ないけど、サトには全然関係ないでしょ。ほっとけばいいのよ。拘置所かなんかで一晩寝かせてもらったら、次の日には酔いも醒めるし頭痛も治ってるわよ。いいよ、私が行くよ。これで後で吐いたりして脳内何とかで倒れられたら、寝覚めが悪いもん、さすがに。私が行くよ。畜生、あいつ英明の百倍くらい手がかかるよ。とにかくサトが行くことはないよ。またからかわれるのが落ちだから。サトごめんね。これは任せて。元夫婦の腐れ縁だから。どこの拘置所?」
 里子の声は涙声である。
 「本町の交番。拘置所じゃないよ」
 「そうね。別に悪いことしてないもんね」
 「悪いことしてないもん」
 「ま、最低のことはしてるような気がするけど」
 「そう。最低のことはしてるよ」
 「じゃあほっとこうか」
 里子は泣きながら笑いだした。「ほっとこうか」
 「ねえサト」
 「うん?」
 「あいつの今の住所、私知らないんだ。知ってる?」
 里子は首を振ってから声を出した。「ううん」
 「そうか。ま、酔っ払っててもそれくらいは聞き出せるか。そうね、いざとなったら今晩くらい」
 「今晩くらい?」
 「え? いや、あいつの尻を蹴飛ばしてもいいかなあと思っただけ」
 そうね、と里子は微笑んで答えた。
 「だってあの野郎、安眠妨害だもん」
 「そうね。安眠妨害ね」
 「英明も起きちゃったし」
 「大丈夫?」
 「英明は私が起こしたようなもんよ。じゃあ、切るね」
 「うん」
 「アディオス」

 相手がもう何も言い出さないのを待ってから、二人は携帯電話を切った。重くなった右手がゆっくりと下がる。それぞれの思いを乗せた吐息が、約八キロ離れた二つのアパートで、同時に、夜気にまぎれた。


<終>








不安

2009年08月02日 | 短編
 コーヒーを飲んだら、雨音が聞こえてきた。せっかくの日曜日なのにね。妻は呟いて階下へ新聞を取りに行った。
 濡れちゃった、と言って妻が手渡した新聞をぱりぱりと開く。一枚一枚めくりながら読者投稿欄までたどり着くと、ひとつの記事が目にとまった。

 リストラされ、家に引きこもった父親を心配する女子中学生の投稿であった。

 二杯めのコーヒーを口に含む。窓を眺めると、雨脚は強まっている。
 新聞を閉じた。
 マグカップの温かみを両手に感じる。
 私は戸惑っていた。どこかの家の一室で、無精ひげを伸ばしたまま虚ろにテレビのブラウン管を見つめ続ける男の姿が、脳裏から離れなくなった。違和感と共感をない交ぜにした感情が、コーヒーの澱(おり)のように苦く喉元にこみあげる。
 記事のことを、私は妻に話した。
 「次の仕事を見つける気にはなれないのかな」
 「こういうご時世だもの。なかなか見つかんないんじゃない」
 「ないのかな」
 「どうなんでしょうね」
 僕も引きこもろうかな、と冗談を言ってみせる。妻は首をかしげる。そうだ。たしかに不謹慎な冗談である。この「ご時世」だから、なおさら。自分はどうなっても引きこもることはない、という自信がどこかにあるから言える冗談だろうが、そんな自信は本当にあるのか。いや。本当にあるのか。
 道路に溜まる雨水を蹴散らす車の音が、何台か続く。
 
 妻から話を続けてきた。
 「新しい仕事を探すって、すごく体力がいるでしょうね」
 「僕らの世代は」と、まったく脈絡のない抽象論で私は返答した。迷ったときの私の悪い癖である。
 「僕らの世代は、たとえば一つの仕事を失ったときに、次の仕事を探すだけの気力というか、生きる力というようなものを、学校や社会から教わってきていない気がするよ」
 「あなたは大丈夫よ」
 誠にありがたい言葉である。しかし彼女は、リストラのような境遇に遭った場面での私を、まだ見ていない。
 机の椅子から立ち上がり、私はマグカップを持ったままソファーの方に移動した。何だかもう少し低い所に座りたくなったせいである。
 半開きの窓から差し込む湿気を含んだ風は、思いのほか涼しい。

 遠い田舎にいる私の父親のことを、ふと思った。もう七十になる。教員と農業を両立させながら本家を守ってきた。山中を歩いてマムシが出たら、生け捕りにして焼酎漬けにするような男である。彼なら生き抜く力があるだろう。何しろ彼は、終戦直前、私の祖母に当たる母親に手を引かれ、満洲から辛うじて引き揚げた境遇の持ち主である。
 彼から、生きることに関して何かしら教わった気がする。だが同時に、時代はいわゆるバブルであった。テレビや学校教育や様々な娯楽品が教えてくれたのは、「生き抜く」ことよりも「過ごす」ことに人生のニュアンスを読み替えて生きるべきだ、ということであった。多分。そうだ。そうだ。ぼくらはみんな、人生は「過ごす」ものだと教わったのだ。快適に「過ごす」。充実して「過ごす」。何となく「過ごす」。私の骨肉から、ゲートルの靴音響く満洲の乾いた風のにおいは──そんなものは私にとって想像するしかないものだが──丁寧に除去されて育て上げられたのだ。

 戦後は、本当に終わったんだね。少し自信がなかったので、私は声に出して言ってみた。妻は新聞に目を通しながら、そうねえ、と長く呟いた。もちろんずっと以前に、戦後なんてきれいさっぱり終わっていたのだ。私も馬鹿なことを言う。
 これからは、とマグカップに口をつける。これからは、一つの会社を辞めさせられたら、家に引きこもるような大人がどんどん増えていくのかも知れない。いやいや、どうだろう。世の中がこのままあまりの不景気で混沌としたら、また今の若者たちは、生きる力というものを自然と身につけ始めるのかも知れない。
 だが、バブルと重なった青年期を「過ごし」て終わったわれわれの世代は、果たして、我が家の一室から飛び出すことができるのだろうか。もしそうせざるを得ない場面が訪れたとき、われわれはそのときこそ、「生き抜こう」と思えるのだろうか。

 窓の外は少しずつ明るくなってきている。どうやら通り雨だったらしい。軒先から滴る雫の音は続いている。気の早い蝉が、すでにどこかで鳴き始めた。  

(終)

かぐや姫縁起

2008年12月24日 | 短編
      ─────かぐや姫は、罪を作りたまえりければ、かく卑しき
     おのれがもとに、しばしおはしつるなり。────『竹取物語』


 古典における異本・解説書の多さはその作品の持つ魅力の証しであろうが、我が国最初の文学作品とも評される『竹取物語』の周辺にも、出処の怪しいテキストが山と積まれてある。その一つ、おそらく江戸元禄年間に成立したとされる宇喜多善衛門版『竹取翁物語』は、注釈に長大な紙面を割いており、実に興味深い逸話が載っている。その内容が事実かどうかは、もはや歴史という重い墓石に閉ざされた永遠の謎であり、さしたる重要なテーマと本稿は見なさない。もちろん、事実であれば面白いと思ったからこそ、その史料を底本に以下の物語を書き記したのである。いや、事実である気がしてならなかった、とまで批判を覚悟で告白しておこう。私の直感を肯定してくれる歴史家は極めて少なかろうが、はっきり否定できる歴史家もそういまい。
物語の細部には多分に脚色を施した。その責は偏に筆者であるこの私にある。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これはかぐや姫のモデルとなった女の話である。

 名を矢田郎女(やたのいらつめ)というその女は、ときの右大臣中臣連金(むらじかね)の四女であり、類まれな美貌と聡明さで、幼少期から世間の評判が高かった。見る者はみな心奪われた。女がほほ笑むと、辺り一面光り輝くようであった。
 
 また一面で大変気性が激しかったとされる。貝遊びなどどんなささいな遊び事でも、負けるのをひどく嫌ったという記述がある。書を好み、屋敷に引きこもりがちであった。人付き合いの上手な方ではなかったらしい。

 それでも髪を上げる年頃になると、連日のように結婚を申し込む者たちが押しかけてくるようになった。求婚者たちはみな、一様に身分が高く、金持ちで、世間の評判が高かった。しかし風変わりなことに、女は彼らの誰一人にも心惹かれなかった。どれだけ周りに勧められても、首を横に振り続けた。父親に似て変わり者であるとか、高慢であるとか陰口を叩く者もあったが、本人は一向に気にかけなかった。

 女は十四になり、その美しさはさらに磨きがかかり、ますます周囲を感嘆させた。

 愛を告白する男たちもその数を倍増させた。世間の人が垂涎して羨ましがるような高貴な人物も幾度も現れた。それでも女は一顧だにしなかった。

 屋敷で中秋の宴が催されたことがあった。その折りにも大伴御行(おおとものみゆき)という男がしつこく言い寄ってきた。自分が金持ちであることを何度も引き合いに出し、「あなたの欲しいものは何でも手に入れてごらんに入れます」と言いきった。
 そのとき女は欄干に身を寄せ、月を指さしてこう答えたという。
 「それでは、あの月のようなよみがえりの力をください。この世のすべてはかたときも留まることなく移ろいゆくもの。月もその例に漏れず、あれよあれよという間に欠けて無くなってしまいます。しかし他のものと違い、再びよみがえることができるのがまことに不思議な月の力。欠けてもまた満ちることを繰り返しています。何が欲しいかと聞かれれば、あの尽きることのないよみがえりの力が欲しゅうございます。今でこそ、私は若いがゆえに、あなたのような高貴な方にちやほやされもしますが、やがて年を取り、容貌も色あせていくことでしょう。そのときあなた方男たちは、潮が引くように私のもとを去っていくはず。それを考えるとまことに心細うございます。よみがえりの力があれば、若さを保つことも可能です。あなたに望まれて添うてみたものの、年月が経てばあなたに愛想をつかされ逃げられてしまった、というようなことも起こりますまい。さあ、どうか、わたしに月の力をください」
 男は驚きあきれ、しまいには腹を立てて去っていった。その噂が広まって以来、女は誰言うこともなく「月姫」と呼ばれるようになった。

 ついに女は、ときの帝の目に留まるに至る。帝は連金の縁者に当たる中臣ふさ子という女官を屋敷に寄越し、女に強引に結婚を迫った。
 帝の誘いはさすがに断り難いものがあった。それでも女は、自分がまだ若すぎるだの、器でないだのいろいろ言い訳を述べて誘いを断った。女のふた親は驚きあきれ、女をなだめたり叱りつけたりして、意思を変えるよう説得した。
 女は、病床に伏せるほどの葛藤を味わったが、それでも首を縦に振ろうとはしなかった。
 父連金は激怒し、しまいには、言うことを聞かなければ屋敷の一角に幽閉するとまで脅し始めた。

 女が意地を張るのにもわけがあった。女には別に心に思う男がいた。ただしその者は身分が卑しく、屋敷に出入りする職人であった。そのことだけでも、当時としては到底かなわぬ恋であった。
 名を佐貫(さぬき)という相手の男は、たくましい体と器用な手先を持つ若者であった。
 もともとは屋敷の木々の手入れなどを請け負う職人の一人である。あるとき、慰みに作る竹細工の美しさを連金に認められ、以来屋敷の中のこまごまとしたものを作るよう命じられるようになる。部屋に似合う花器などの注文を受けた時は、その部屋の造りを確かめるために屋敷へ上がることまで許された。

 矢田郎女と佐貫は、暖かい春先に、矢田郎女の部屋で初めて面識を持つ。
 女は男の仕事に興味を示して尋ねた。
 「そなたは竹の細工に大変秀でた者と聞いたが、それはまことか」
 男は平伏して答えた。
 「見事な竹に出会った時は、それなりに満足できる品を作ることができます。良いものに出会わなければ、どれだけ手を加えても立派なものには仕上がりません。竹によって出来不出来を決められる以上、竹細工に秀でたとはとても自慢できません」
女は首をかしげた。
 「竹は松や檜と違い、どれでも同じようにしか見えないが、そんなに違いがあるものなのか」
 「見る者、触る手によって、違いは大きくも小さくもなります。人に対するのと同じです」
 女は顔を赤らめた。
 「見て、触れば、人も違いがわかるのか」
 男は女を見上げた。しばらくそのまま二人とも動かなくなった。
 男は再び頭を下げた。
 「美しいものは美しいとわかりましょう」
 女は眉をひそめた。
 「それは誰が見てもそうではないのか」
 「違います」
 「なぜ違うと言える」
 「見て、触れば、わかります」
 苦しげに息を呑んでから、女は言った。「もう下がってよい」
 それは衝撃的な出会いであった。一目見た瞬間から、と言ってよい。説明のつかない抗いがたい魔力のようなものに女は囚われた。女は片時も男を忘れられなくなった。突き刺すような目線と、よく日焼けして引き締まった顔が夢に現に現れた。何とかしてこの男と、と女は願った。しかし身分の差が岩盤のように行く手に立ちはだかり、決して道を譲ろうとしない。ひっきりなしにやってくる求婚者たちが疎ましく感じられ、親の期待も心に重くのしかかり、どうせ叶わぬ望みならいっそ死んでしまいたいとまで思った。だが何としてでももう一度、かの男と二人きりで会うまでは、死んでも死にきれないとも思った。こうして悩みながらぐずぐずしているうちに、帝にまで懸想されたわけである。女は気が狂いそうになった。誰にも相談できる話ではない。

 思い余ってある日、女は傷んだ飯籠を直させるという名目で佐貫を呼び出した。呼び出しておいてから、籠の中に小さく折りたたんだ和紙を入れて男に差し出した。
 それは思いを告白する手紙であり、密会を求める手紙であった。

 十日ほどして、修繕された飯籠が女のもとに届けられた。一人になるのを待ち、震える手で女は蓋を開けた。籠の底に目立たないように、折った紙切れが挟まれている。女は慎重に紙切れをつまみ上げた。それから涙を流しながらそれを読んだ。

 居待ち月と呼ばれる十八日の月の出た深夜のことである。女は誰にも見られないようにそっと屋敷を抜け出した。近くを流れる小川まで出てから、川上に向かった。
 しばらく行くと、良質の竹が取れると言われる竹林が広がっていた。
 静かな晩であった。生ぬるい風が吹いていた。
 女が意を決して竹林の中に入っていくと、月の光も遮られがちになり、竹の風に揺れる音ばかりが鳴り渡って、まったく生きた心地がしない。
 それでも女は、憑かれたように前へ進んだ。
 やがてぼんやりと白いものが前方に見えてきた。闇の中で、それは光っているかのように見えた。すぐ近くまで寄ると、月明かりに、地面に敷かれた白い布地であると確かめられた。二畳ほどの広さである。まるで、そこだけ時節外れの雪が積もったかのようであった。
 女は吐息をついた。何もかも、手紙通りであった。
 手紙の指示通りに、女は布地の上に上がり、腰を下ろした。

 ひときわ大きく竹がざわめいたように、女は感じた。暗がりの奥から、粗末な服を着た男が姿を現した。もちろん、佐貫である。
 身分の卑しい男は立ったまま、正座する高貴な女を見下ろした。

 よろしいのですか。男は低い声で尋ねた。女は潤んだ目で男を見上げた。かまいません。あなたはこんな私を笑うでしょう。
 いえ。ただし、もしこんなところを誰かに見つかれば、我々二人とも生きてはおられますまい。
 どうせあなたに会えなければ、生きていないのも同然です。
 男は膝を落として女ににじり寄った。
 ──苦しい。
 それは男が発した言葉であったが、どちらがつぶやいたとしてもおかしくはなかった。

 衣擦れの音は、竹林のさざめきに掻き消された。月は人肌を照らすのを嫌い、雲間に隠れた。

            ☆   ☆   ☆   

 二人はその後も逢瀬を重ねた。発覚の危険はその度に増していった。万が一のときのことを考えて、男は病気を理由に屋敷通いの仕事を止めた。女は幼少のころから親しかった側仕えの女房にだけ打ち明け、密会の手引きを手伝わせた。二人は見境を失った恋人同士によく見られるように、だんだん大胆になってきた。昼間に落ち合うことも少なくない。それでも不思議と露見することはなかった。

 だが、世をはばかりながら得た幸せなどしょせん長続きしない。人目を忍ぶことには成功していたが、いつの間にか女は身ごもってしまっていた。不運なことに、男がそのことに気づく前に、女の母親がそれに気づいた。連金の屋敷の中は天地がひっくり返るほどの大騒動となった。相手が元通いの職人の佐貫と知った父親は、家臣を引き連れて男を殺しに向かおうとした。しかし我が娘に足もとに泣きすがられ、留められた。私が悪いのです、私が佐貫をそそのかしたのです。切るなら私をお切りください。もうこうなっては生きても恥を晒すばかりにございます。どうか私をお切りください。
 父親はしばらく歯噛みをして肩を怒らせていたが、えい、と一つ気合いを入れて剣を抜くと、それを思い切り廊下に突き刺し、その場にへたり込んだ。
 女は蟄居を命じられた。
 また家の者には厳重な緘口令が敷かれた。

 一方で、何も知らない佐貫は、竹林に通い続けた。約束の時間になっても女は来ない。次の日も、その次の日も。何日待っても女は一向に現れなかった。男は半狂乱になった。涙の川ができるほど泣き崩れ、天を呪い、衣を引き破った。それでも毎晩、約束の時間になると、約束の場所へ向かった。男はそうすることでしか、心の空虚を埋めることができなかったのだ。

 夏が終わり、秋が駆け足で過ぎ去り、冬が到来した。男の髭は伸び放題に伸び、顔はやつれ、別人のようになっていた。この頃は、さすがの男も諦めていた。止むをえまい。女は身分やら、将来のことやらを考えて、思いとどまったに違いない。あるいは屋敷を抜け出そうとするのを親に見つかったのかも知れない。自分を嫌いになったかも知れないとは、男はどうしても考えようとしなかった。だがいずれにせよ、女はもう戻ってこない。それは流れ去った水が二度と川上に遡上しないのと同じくらい確かなことである。男は女のことを必死に忘れようとした。しかし日が落ちて暗くなり、梟ばかりの鳴く時刻になると、どうしても確かめに行きたい衝動に駆られるのであった。

 冬が終わり、春が巡ってきた。

 女が竹林に姿を見せなくなってから九ヶ月が過ぎ去っていた。
 ある晩、男がいつものように竹林の中に入っていくと、赤子の泣く声がかすかに聞こえてきた。男は身震いした。声のする方へと近づいていくと、一際太い竹の根元に、白い布の塊が見えるではないか。布にくるまっていたのは、泣き声を上げた赤子である。おお、 おお、と男は叫んだ。
 女の産んだ子であることは、男にはすぐにわかった。そのとき初めて、男は全てを悟った。なぜ女が会いに来ることができなくなったかを含めて、男は全てを悟ったのであった。男は赤子を抱き上げ、声を張り上げて泣いた。枯れていたはずの涙が止めどなく男の頬を伝った。

           ☆   ☆   ☆

 以上が、竹取物語の元になったとされる逸話である。史料には、さらに後日譚まで書かれている。佐貫に拾われた赤子は、なよ竹姫と名づけられ、佐貫の父母に引き取られて養育される。やがて母に負けない美しい娘となり、世の評判を勝ちえ、かぐや姫と呼ばれるようになる。もちろん、竹取物語の主人公の名前と、竹から生まれたというエピソードはここに由来する。矢田郎女とその娘であるなよ竹姫の生涯は、本来別々の昔語りとなるべきであった。だが時と場所を変えながら繰り返し伝承されていく過程で、時代の要求もあったのだろうか、いつしか一つの物語として融合し、おまけに月の住人というような大胆かつ想像力に富んだ脚色までなされ、現在へと至ったのである。
 波乱の生涯を送った矢田郎女は、父連金が壬申の乱で敗軍についた罪で斬首されてのち、出家して尼僧として余生を送る。なよ竹姫はさる高貴な人物と幸福な結婚をして天寿を全うしたとされる。佐貫がどういう晩年を過ごしたかについては、残念ながら資料が残っていない。

(終)

運動会

2008年07月16日 | 短編
 青空、それも絵の具を延ばしたように鮮やかな青空を見上げると、私はいつも、小学四年の夏の運動会のことを思い出す。
 もう二十年も前のことになる。
 障害物・借り物競走という種目が当時はあった。今はあるのか知らない。
 まず網の張ったマットに飛び込み、網とマットの間をくぐって抜け出す。それからピンポン玉を卓球のラケットに載せて運ぶ。もう一つ、フラフープで縄跳びをするようなことがあった気もするが、はっきりとは覚えていない。そこまでが「障害」である。それら一連の課題をクリアすることは、私にとっていとも易しいことであった。特にピンポン玉が私のお気に入りであった。スピードとバランス感覚を求められるところがいい。玉を落とさないことなど何の問題でもない。玉を安定させたままいかに身体を傾けてコーナーを回り、観客の歓声を受けるか、ということが私の主要な関心事だった。私は一番手の組に出場した。後続の見本となる組である。小器用で走りも得意であった私は、予定通り、誰よりも真っ先にマットを抜け、玉をラケットに載せて最初のコーナーに差し掛かった。私はスケート選手のように身体を傾けてコーナーを回った。余裕があったのであろう。私は走りながらも、ちらりと観客席に目をやった。母の座る位置から、そのコーナーが一番見えやすいことを知っていたのだ。母に私の勇姿を見せたかった。母が見てくれていることを確かめたかった。母は、泣いていた。
 あまりの意外さに、私は呆然としてしまった。母は私を見つめながら大粒の涙を流していたのだ。やせた肩を震わせ嗚咽までしていた。予想だにしないことであった。手足の筋肉から一気に力が抜けた。一瞬の油断であった。私は脚を滑らし、横転した。派手な横転であった。肘も体操服も砂だらけになり、あまつさえピンポン玉を砂煙の中に見失ってしまった。それでも私の目は、一度視界から失った母の姿を探した。母は同じ場所にいた。やっぱり泣いていた。薄桃色のハンカチを口に当て、晴天の運動会とはどこまでも不釣合いに泣いていた。
 それで私は忽然と思い出したのだ。父が一ヶ月前、若い女を作って家を出て行ったことを。花瓶が割られ、怒号が響き、母が玄関で泣き崩れたことを。やがて写真立ての写真が外され、母は夕食を作る気力も失い、それでもようやくここ数日で外出できるようになったことを。
 無論それは十歳の私にも相当ショッキングな出来事であった。私は父の酒癖や遊び癖は好まなかったが、それでも母と同じように愛していた。父親が母を押し倒して出て行ったことは許せなかった。おそらく一生許せないだろう。しかし許すことと愛することは別だということを、私は父に対する思いを通じて知った。父の出奔ののちも、休日になるとときどき父に会いに行った。父も私には会いたがった。母は二度と会おうとしなかった。止むを得ないことである。二人が別れるのはもっともであり、二度と家族が元に戻ることはないのだと子どもながらに理解していた。家の中で悲鳴や罵り声を聞き続けるよりはマシだ、たぶんマシなんだ、とくらいに思っていた。
 だが今日は運動会であり、抜けるような青空であり、私は活躍していた。まさか母が泣いているとは思わなかった。なぜ泣いているのかしばらくは想像もつかなかった。おそらく母は懸命に走っている私を見ているうちに、様々な思いが去来して気持ちが一杯になったのであろう。
 母が何度も手を横に振った。何の合図か初めのうちはわからなかったが、「行け」という指示であることに思い至った。実際、すぐさま態勢を立て直し、ピンポン玉を拾って走り出さなければビリの座から到底逃れられない状況にあった。他の組の生徒はとっくに私を抜かしていた。何より、私が母をじっと見詰め続けることが母には耐え難かったのであろう。彼女の周りにいる少なからぬ父兄が、私の視線に気づいて母の方を伺っていた。
 野良猫を追い払うような手振りに内心傷つきながらも、私は砂まみれの身体を起こし、ピンポン玉を探した。ピンポン玉は後から走って通り過ぎた生徒に踏まれ、半分めり込んでいた。その潰れた玉をラケットに載せ、砂だらけの痛々しい姿で、それでも私は白線まで走った。
 障害物・借り物競走に対する私の情熱は急速に失われていった。私は一刻も早くこの競技から逃れたかった。だが、まだメインの「借り物」が残っていた。
 テーブルに駆け寄り、最後に一つだけ残っていたメモ用紙を拾い上げた。
 「あなたのお父さんかお母さん」。それが私に課された借り物であった。
 私はすぐさま母のいた場所に目をやった。遠くでわからない。あんなに泣いていた母を連れ出して衆人の目に晒すのかと思うと億劫であったが、躊躇している間はない。もちろん父はいない。母しかいないのだ。私は駆け足で観客席の母のいた場所に向かった。
 母はいなかった。彼女はいつの間にか会場を去っていた。泣いている姿をこれ以上人に見られることが忍び難かったのである。(実際、あとになって母親はそのように理由を言い、何度も私に謝った。)
 私はトラックに立ち尽くし、再び動けなくなった。メモ用紙を汗ばむ手で握り締めたまま、どうしたらよいのか皆目わからなかった。歓声が遠くに聞こえた。そのほとんどは私に向けられた歓声であることが容易にわかった。太陽が急に温度を上げたような気がした。耳鳴りがし、立ちくらみを覚えた。地面にしゃがみこみたい衝動に駆られたが、砂だらけの両足を踏ん張り、私は必死に耐えた。  

(終)

その夜

2005年12月23日 | 短編
 消防車が鉦を鳴らして走る。

 障子の外は凍結しているに違いない。ガラス窓と障子に隔てられた室内でもこれだけ寒いのだから。私はがらんとした部屋の四隅を眺め回し、身震いをする。私はもう三十分もこの畳敷きの部屋で震えながら、誰かからの電話を待っているのだ。
 ここは私のいつもの部屋である。だが先ほどから石油ストーブを焚いていない。私自身が外套を着込んでいる。誰もいなくなった夕暮れ時の小学校の体育館のように、急激によそよそしくなった空間に私は一人でしゃがんでいる。今すぐにも、私はこの部屋を出ようと思っているのだ。三十分も前から、街に出て夜を過ごそうと心に決めて腰を浮かせているのだ。
 しかし、私はそこから動けないでいる。電話が鳴ったのだ。三十分前、チリリン、と一度ほど。

 山から吹き降ろす気まぐれな風がガラス窓を揺らし、さらに内側の障子まで揺らす。
 消防車の鉦の音は、耳を澄ますとまだ遠くかすかに聞こえている。

 いたずら電話か。ただのいたずら電話か。いや、しかし何か違う。
 私は丸めた背中を揺らしながら、冷たく押し黙ったストーブを横目で睨んだ。点ければいいのだ、ここまで寒い思いをするなら。しかし一度止めた暖房器具を再び動かせば、あと何時間でも自分はこのまま電話を待ち続けそうな気がして、私はいい加減踏ん切りをつけるべく立ち上がった。
 街に出かけると決めたのだ。私は。デパートを三階から一階まで冷やかして、それから寒いだろうが大通りをちょっと歩いて、それから喫茶店に入ってブラウニーと珈琲を注文するのだ。
 電話はもうかかってこない。かかってくるはずがない。かかっってきたところで、また一度だけ鳴って切れる誰かのいたずらに違いない。誰かの。
 私は壁にかかるカレンダーを眺めた。外套のポケットの中の家の鍵と車の鍵を、手でまさぐって確認した。私は白い電話に視線を移し、受話器に手を置いた。まるで、優しく電話にさよならでも伝えるように。
 その瞬間、チリリン、と電話が鳴った。
 しっかり掴んだその手の平の内側で、チリリン、と、もう一度電話は鳴った。三度鳴ったところで、私は受話器を持ち上げて耳に当てた。
 がらんとした部屋に響くほどはっきりと、私は声に出した。

 「クリスマスおめでとう。あなたは誰ですか」

 「クリスマスおめでとう。私を覚えているかしら」

 私は顔を上げて障子を見つめた。その外は真っ暗で、凍てついて、街の果てまで、もう消防車の鉦の音も聞こえない森閑とした聖夜が広がっているはずであった。  

寒い夜、Barにて

2005年12月11日 | 短編
 「変人には二種類あるんですよ。
 自分が変人であることに気づいていない変人と、気づいている変人です。
 そこが大きな違いでね。
 変人であることに気づいてない変人は、大衆を形成します。
 変人であることに気づいている変人は、少数派となります。
 ほら、見て御覧なさい。あそこでカクテルを飲んだりピザを食べたりしているカップル、あれずいぶん長いことこの店にいるでしょう。お互いに敬語を使ってます。会社の同僚かな。男は女を一気に落としたがってますね。でも女はね、飲んでるうちに、仕事の話とか、カクテルの知識自慢しかしない相手の男よりも、カウンターにいる私たちに魅かれ始めてるんですよ。いやこれほんと。私かあなたかそのターゲットは知りませんが、まああなたの方が若いからあなたかな、女はそもそもいろんな人とめぐり合いたいと思っている口でね。魅かれてますよ、こっちに。トイレに立ったときちらちらこちらを見てましたし、カウンターに注文しに、ほら、何度もすぐそばまで来てたでしょう。
 へへ、変でしょう。変なんですよ、あの女は。
 自分で気づいていませんが。
 それに例えばあのマスター。マスターを御覧なさい。へへ。しかめっ面してシェーカー振ってるでしょう。彼、自分は寡黙な方が店の雰囲気に合っていると思っているんですよ。でもね、彼ほんとはとってもおしゃべり好きなんです。一度別な店でですけどね、彼と夜明けまで一緒に飲んだことがあるから知ってるんです。おばちゃんのようによくしゃべりますよ。でも、自分の店では寡黙な方が客に受けると思い込んでるんです。でもね、でもねあなた、客だってね、マスターに合わせて神妙な顔して酒を飲んじゃいるけど、ほんとはみんな、みんなおしゃべりをしたがってるんですよ。一人でむっつり飲みたかったら家で飲みますよ。そうでしょう? へへ、この店の客もマスターも、自ら望んでないことをやっているわけです。
 ・・・あなた強い酒がお好きなんですな? 
 ま、てなわけで、マスターも変人なんですよ。でも、やつの始末に終えないのは、自分が変人であることを意図して変人になっていると思い込んでいる。気づいていると思い込んでいるんです。ところが気づいてないんだな、これが。やつはね、自分のスタイルが正しいと思ってクールな真似をやってるんですよ。だからほんとうの意味で、いいですかほんとうの意味で、自分で気づいている変人じゃないんです。自分が正しいと思っている変人は、自分が変人であることをどこかで否定してるんです。変人という自覚がありゃ自分が正しいなんて思わないはずです。自分が変人であることを心のどこか片隅で否定してるんです。まあ、は、つまりは、ほんとうに変人であることをほんとうにはわかってない変人なんですよ。はははは。ややこしいですな。でも世間を見渡してみりゃ、そんなやつばかりでしょ? みんな変人なんですよ。大衆派のね」

 私はこの男のしゃべり方にかなり気分を害していた。筋道もない。空になったショットグラスをずっと手の平で暖めている自分までが、馬鹿馬鹿しくなった。

 ──で、あなたはどちらなんですか。

 不愉快な会話にけりをつけようと、私は幾分挑発的な視線で相手の男に問いかけた。

 「私ですか? 私。ワタシねえ。へへ、私はね、あなたが私と同じ穴のむじなと思ったから声をかけたんでして、だからあなたにはすでにおわかりのはずと、思いますが」

 男は私から身を離して目を細め、蔑むように私をじろじろ見つめた。

 「われわれは常識人ですよ。だから大衆派にも少数派にも属せません。われわれは大衆にすら属せない小心者なんですよ。当然少数派の気概もない。どこにも属さない、何にもできない、常識人です。自分でお分かりでしょう?」

 ため息のように短く掠れた悲鳴が上がった。
 私が笑ったのだ。