た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

ウーロン茶で愛を語れば(「記憶の長さ」改題)<後編>

2010年01月14日 | 短編
<前編よりのつづき>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 いびつな凹凸のついたアルミ製の灰皿から立ち昇る白い煙の筋が完全に立ち消えてから、権堂警部補は受話器を取り上げた。横に置いたメモ用紙を睨みながら太い指で番号を押す。全部押し終わったところで寝不足の目を閉じて、脂の浮いた眉間を摘み、鼻息を抜く。その鼻息には、解決する案件よりも解決しない案件の方が遥かに多かった、この二十数年間の蓄積された鬱憤が詰まっている。
 広い顔である。目のくまが深く、頬骨やあごの筋肉が不思議なくらいあちこちで小さく盛り上がっている。その隆起のすべてに何かしら波乱に満ちた歴史が刻まれているようで、それが生来ののっぺりした顔に変化を与え、警部補としての威厳と風格を与えてもいるが、また同時に救いようもなく不細工にもしている。
 彼は受話器を耳にあてたまま、隣の丸椅子に座る青年をちらりと見やった。彼に向って口を開きかけたとき、受話器の呼び出し音が止んだ。
 「もしもし」
 「もしもし。夜分に突然お電話してすみません」警部補の声は砂まみれの岩を引き摺るようなだみ声である。「本島里子さんですか」
 「あ、はい」
 「私は本町派出所の権堂と申します」
 「え、あの」
 「ええ。実はちょっとした事故がありましてね。まあちょっとした交通事故ですが。えーと、おたくは瀬川貴彦という人をご存知ですか」
 口元をごしごしと手で擦ってから、彼は慌てて言葉を継いだ。「もしもし。本島さん」
 「あ、あの」
 「もしもし。大丈夫ですか」
 「交通事故、ですか。貴彦君、そんな、うそ」
 「いえあのね。どうか落ち着いてください」
 「はい。あの、はい」
 「本人は無事です。今ここに隣にいますがね。ええ。外傷は何もないです。それでは、あなたは瀬川貴彦さんをご存じなんですね」
 「はい」
 「ええと、お友達ですか」
 「あ・・・はい。何が、起こったんですか」
 「お友達ですか。ならちょっと事情を説明させていただきましょう。ええとね、交通事故です。瀬川さんは歩行者でした。ひどく酔っぱらっていましてね。不意に車道に飛び出たんです。ええ。事故当時、一緒に飲んだ方とは別れた後だったようでして、一人で歩いていました。目撃者は何人かいます。車は急ブレーキをかけましたがね、まあ夜道ですし、いきなり飛び出されたわけですから。街中を走行中で速度が遅かったのは幸いでした。ぎりぎりでしたが・・・ぎりぎり、どん、と。運転手は、向こうから倒れこんできたって言ってますがね。いずれにせよ、ぶつかったってほどじゃありません。ぽん、と軽く身体に当たった感じですな。先ほども言いましたが、不思議なくらい外傷は何もありません。ただ、仰向きに倒れるときに、ちょっと頭を強く打ったらしいんです」
 「そんな」
 「いえ、大丈夫です。大丈夫なんですよ。ええ。救急医に見せましたが、損傷はないみたいです。頭蓋骨ってのは意外と丈夫なもんでしてね。中の脳みそも、何ともないみたいです。ただ、打った瞬間のショックってのかな。脳を強く揺さぶられると、一時的になることがあるらしいんですが、いわゆる記憶障害ってのにかかってましてね。あの、もしもし」
 話し手は、眉をしかめて薄い下唇を噛んだ。電話の向こうからはすすり泣く声が聞こえてきている。
 「大丈夫です。ご安心ください。なに、一晩寝ればだいたい回復します。どうかご安心ください。ただ目下のところ、短期的な記憶が残らない状況に陥ってましてね。それまでの記憶はあるんです。自分の名前とか、勤めている会社の名前とかはきちんと言えるんですが、今この瞬間に何が起こったのか、とか、今何を言われたのか、とか、そういったことが覚えられないんですよ。ちょっとお待ちください」
 警部補は送話口を胸に当てると、空いた手を振り回して向かいの席の若い警官の注意を惹きつけ、そのまま手真似だけで、自分の横に座る瀬川貴彦に茶を淹れるよう指示した。若い警官は頷いてすぐに立ちあがった。
 警部補は受話器を耳に戻した。
 「済みませんでした。ええと、それでですね、そう、記憶の話でしたが、感情ってのは記憶とは別物のようですな。つまり、聞きたい、とか、知りたい、という欲望は持続するみたいで、何があったのか、というのを何べんも聞くんです。ええ。でもそれに対して私が説明するでしょ。そうすると、その説明はもちろん、そもそも自分が質問したことも忘れて、でも聞きたいという気持ちは持続しているから、また同じ質問を繰り返すんです。今、何があったのかって。それを何べんも繰り返すんですよ。ようやく、自分が事故にあったということくらいは理解したみたいですが・・・だから、ちょっと調書も取れないような状態でして。その上、本人はまだ少々酔っ払ってます。つまりまともな会話ができる状態ではないんですわ。ですからどうか、電話口に本人を出させるのはもうしばらく控えさせてください。ええ。いずれにせよですな、身元引受人がいなくて困っとるんです。本人が何もはっきりしたことを喋れませんので。携帯の住所登録の欄を見させていただきましたが、久美子、という方の着歴が一番多い。奥さんかって聞いたら、ちょっとわけのわからんことを言いましてね。そうなんだが微妙なんだってなことを。うーん、で、こちらがその久美子さんという方に連絡を取ろうとしたら、絶対彼女には電話をかけるなって言うんです。彼女には知らせたくないらしいんです。その意志だけは強迫観念のように強い。こちらがもうかけないって言ってもしつこく、かけるなかけるな、と言うもんですからだいぶ弱りましたよ」
 里子の部屋は真っ暗であり、ただ窓のカーテンの隙間から漏れる月明かりだけが影と影との輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。里子は布団の上に両膝を突き、尻を上げ、背筋を伸ばして携帯電話に出ていた。眼鏡は掛けておらず、薄手のパジャマの裾が風もないのに揺れてばかりいた。そうだったんですか、と彼女は答えた。
 「で、どうして、私に」
 「ええ、それがですな。あの人にかけても駄目、この人にかけても駄目。親元には落ち着いてから知らせたいし、そもそも近くにいない、なんて言われまして。最近着信のあった電話番号から順に問い質しましたところ、あなたの名前が出たときに、ようやく彼はOKを言ったわけですよ。あなたなら、古くからの友達で、連れて帰ってくれるって」
 そうだったんですか。と、里子は先ほどと同じ相槌を打とうとしたが、声にならなかった。
 「いやもちろん、あなたにはあなたの事情もおありでしょう。いやだったらはっきりそう言ってください。どうですか。彼を家まで連れて帰ってもらえますかね」
不意に脱力感に襲われたように、里子は上げていた尻を布団の上に落とした。パジャマの一番下のボタンを左手で意味もなく握りしめる。右手の携帯電話はしっかりと顔に当てたままである。
 「もしもし」権堂の低くひび割れた声。
 「あ、あの」里子は無意識に正座になった。「私、久美子という人の電話番号知っています。私がその人にかけます」
 「もしもし、本島さん」
 「久美子さん、大丈夫です。あの人ならちゃんと貴彦君を家に連れて帰ってくれます。私が話します。貴彦君が嫌がっても大丈夫です」
 「もしもし、あのね、もしもし」
 「はい」
 「あなたはその・・・」権堂はちらりと隣を見やった。「その、電話をするという方と、お知り合いなんですか」
 「あ、久美子さんですか。はい」
 「その方にかけても大丈夫ですか」
 唾を呑みこんでから、はい、と里子は答えた。
 「その方と、この人とは、現在どういう関係なんでしょうかね」
 壁時計のかちかちいう音が十回以上は聞こえたと、権堂は待ちながら思った。彼は口を手のひらで擦って返事を待った。
 「夫婦です」
 里子のはっきりした声が、彼の耳に届いてきた。



 派出所の外を大型トラックが地響きを立てて行き過ぎる。
 受話器を戻してからも、権堂の大きな手はなかなか受話器から離れなかった。閉じた口を歪めて小さく頷いてから、彼は隣の青年に向き直った。
 青年は難解な問題でも解いているように眉をひそめ、顎に手を当ててうつむいている。視線だけはその都度何かに思い当ったように、絶えず動いている。
 「瀬川さん」
 「あ、はい」
 こいつは誰だ、といういぶかしげな顔つきで、青年は権堂を見た。 
 「本島里子さんと連絡が取れました」
 「え、どうして」
 「あなたが連絡を取っていいと言ったからですよ」
 「そうですか。そう言いましたか。あの、ここは」
 子どもに向き合うときのように、権堂は両膝に手を置いて正面から青年に向きあった。
 「本町派出所です。さっきから何度も説明していますよ」
 「そうですか。そうですね。では、あの、ここは」
 「本町派出所です。本島さんが言うには、久美子さんに連絡を取って、久美子さんが迎えに来るように取り図ってくれるそうです」
 「え、久美子が」
 貴彦は頭を抱えた。「久美子だけには知らせないでください」
 「あなたにそう言われたのでね、私も迷ったんですが、でも彼女はやっぱりあなたの奥さんらしいじゃないですか」
 「いえ・・・はい。久美子だけには知らせないでください」
 「ええ、でもね、もうこちらの判断で、知らせてもらうことにしました。らちが明かないのでね」
 「はい。そうか・・・。あの、ひとつお願いがあります」
 「何でしょう」権堂は身を乗り出した。
 「久美子だけには、知らせないでください」
 権堂は両肘に腕を立てて肩をいからせたまま、首の力を失ったように項垂れた。向かいの若い警官が、心配そうな面持ちで、彼に茶を差し入れた。




 網戸を抜けた風がカーテンを揺すって絶える。暗がりの中で二つの寝息が交錯する。白砂をこぼすような幼い寝息と、荒波が打ち砕かれるような大人の寝息。二つの寝息の違いは、二十数年の人生経験の厚みの差がもたらす違いであるが、血のつながった親子らしく、規則正しく呼応している。目覚めているときのように、言い合ったり喚き合ったり、叱ったり泣いたり大げさに溜息をついたりすることのない、実に平和な寝息のハーモニーである。
 その平和が突如、電子音で破られた。
 大人の寝息が、鼻に栓をされたように詰まった。長い手が二、三度空をさまよってから枕元の携帯電話に伸びた。
 「な、なによこんなど深夜に」
 「クミ? ごめん、起こしたね」
 「起こされたわよ。何事? 彼氏でもできたの?」
  電話の向こうは小さく笑った。笑いの後に鼻をすすり上げる音までついた。  「違うの。クミ。違うのよ。そんなことだったらいいけど、大変なことになったの」
 「何さ。一度に二人もできたとか」
 「クミ。よく聞いて。貴彦君が、事故に遭ったの」
 腹一杯に空気を吸い込んでから張り上げたような声量で、「え?」と聞き返す浅田久美子の声が、本島里子の鼓膜を震わせた。すぐに子どものむずかる声がそれに続いた。
 「あ、ごめんサト。英明が起きた。ちょっと待って」
 よし、よし、と親友が彼女の一人息子をあやすのを、里子は両手で携帯電話を耳に当てたまま聞いていた。男の子の泣き声は五分ばかり続いて止んだ。それから部屋を移動する足音や扉の音が聞こえ、椅子を引く音と続いてから、久美子の声が電話口に戻ってきた。先ほどとは打って変わって冷静な声である。
 「ごめんごめん。案外早く寝たわ。今、食堂に移ったから大丈夫。で、どういうことだっけ」
 「あの、貴彦君が、車にぶつかったの」
 しばらく間をおいて、椅子の位置を直す音が聞こえてきた。
 「車にぶつかったって、どういうこと。あいつが車にぶつかったの? 車があいつにぶつかったの?」
 「え」
 「つまりどっちが飛び込んできたのよ」
 「そりゃ、そりゃ車の方よ。もちろん。そうだと思う。でも、貴彦君も相当酔っぱらってたらしいけど。車道に出ちゃったのは貴彦君の方かな。でも運悪くそこに車が突っ込んできたの。それで、急ブレーキかけたんだけど、ぶつかって、貴彦君は頭を打ったんだって」
 「へえ」
 「クミ、クミ、これほんとの話よ」
 「嘘の話で深夜に電話掛けてくる人じゃないわよ、あんたは」
 「クミ、貴彦君は頭を打って」
 「死んじゃったの」
 「クミ」
 「最悪の言葉は人から聞かされるより自分で言っちゃった方がいいと思っただけ。つまり、あいつは死にはしなかったんだね」
 「クミ。けがはしてないの」
 「ほんと? じゃあ血も出てないの」
 「血も出てないの。でも」
 「でも? 何さ、あんたももったいぶるわね」
 「でも、記憶がなくなったらしいの」
 時計はこの瞬間に、双方の家で午前一時を指した。



 「記憶喪失?」
 「違うの。昔の記憶はあるの。でも、今の記憶がないんだって」
 「サト、あんた何だか難しいこと言うね」
 「ごめん。私、説明下手だから。あのね、今起こったこととかを記憶できないんだって。今までの記憶はあるけど、新しく記憶をためることができないみたいなの。よくわからないのよ。二三日したら治るらしいけど、でもよくわからないの。警察から電話があったの」
 久美子は脚を組み、深く息をついた。
 「サト、何であんたに警察から電話があったの」
 「それはクミ、それは、警察が携帯電話の履歴かなんかを調べて、ほんとはあなたに電話したかったんだけど、貴彦君があなたにだけは電話しないようにってお願いしたんだって」
 へええ、と、久美子は長く伸ばした相槌を打った。「そりゃ、まあ、もう離婚してるんだから、当然よね」
 「違うのよ。クミ。違うの。貴彦君は、あなたにだけは迷惑をかけたくなかったからよ。あなたにだけはこんな姿を見せたくないと、思ったと思うの。今何言われたかも覚えてないありさまよ。あなたにそんなみっともない姿を見られたくないじゃない。それで、仕方なしに、警察の人が、私の履歴にかけてきて、誰に引き取りをお願いしたらいいか相談しにきたのよ。クミ。だから私答えたの。私答えたの。あなたが行くって。あなたが、貴彦君を引き取りに行くって。あの人を引き取りに行けるのは、あなたしかいないって。貴彦君がどんなこと言おうと、彼はあなたが来るのを待っているって。だから、私からあなたに電話して知らせるって、そう言ったの」
 電話を持つ右手が汗ばむものを感じて、久美子は左手に持ち替えた。テーブルの端を握り、離した。
 「もしもし、クミ」
 「うん」
 「行ってくれるよね」
 栗色の前髪を手で払った。「やっと、あいつから離れられたと思ったのよ」
 電話の相手は無言で首を横に振る。
 「まったく、なに飲み過ぎてんのよ」
 「事故に遭ったのよ、クミ」
 「ほんとブサイクね」
 「行ってあげて」
 「なんでサトに頼まれなきゃいけないの?」
 里子は膝を叩いた。「もう、クミが行かないんなら私が行くよ?」
 町二つ分またぐほどの、とまではさすがに言えなくても、里子がびっくりして携帯電話から顔を離すほどの、そして、久美子の家でも隣部屋で英明がまた泣き出すほどの大声が、久美子の全身の筋肉を使ってほとばしった。
 「どうしてあんたが行くのよ」
 耳鳴りがして、里子はすぐに返事を返せない。
 「サトには関係ないでしょ。私にも関係ないけど、サトには全然関係ないでしょ。ほっとけばいいのよ。拘置所かなんかで一晩寝かせてもらったら、次の日には酔いも醒めるし頭痛も治ってるわよ。いいよ、私が行くよ。これで後で吐いたりして脳内何とかで倒れられたら、寝覚めが悪いもん、さすがに。私が行くよ。畜生、あいつ英明の百倍くらい手がかかるよ。とにかくサトが行くことはないよ。またからかわれるのが落ちだから。サトごめんね。これは任せて。元夫婦の腐れ縁だから。どこの拘置所?」
 里子の声は涙声である。
 「本町の交番。拘置所じゃないよ」
 「そうね。別に悪いことしてないもんね」
 「悪いことしてないもん」
 「ま、最低のことはしてるような気がするけど」
 「そう。最低のことはしてるよ」
 「じゃあほっとこうか」
 里子は泣きながら笑いだした。「ほっとこうか」
 「ねえサト」
 「うん?」
 「あいつの今の住所、私知らないんだ。知ってる?」
 里子は首を振ってから声を出した。「ううん」
 「そうか。ま、酔っ払っててもそれくらいは聞き出せるか。そうね、いざとなったら今晩くらい」
 「今晩くらい?」
 「え? いや、あいつの尻を蹴飛ばしてもいいかなあと思っただけ」
 そうね、と里子は微笑んで答えた。
 「だってあの野郎、安眠妨害だもん」
 「そうね。安眠妨害ね」
 「英明も起きちゃったし」
 「大丈夫?」
 「英明は私が起こしたようなもんよ。じゃあ、切るね」
 「うん」
 「アディオス」

 相手がもう何も言い出さないのを待ってから、二人は携帯電話を切った。重くなった右手がゆっくりと下がる。それぞれの思いを乗せた吐息が、約八キロ離れた二つのアパートで、同時に、夜気にまぎれた。


<終>







コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1月5日 | トップ | ウーロン茶で愛を語れば(「... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

短編」カテゴリの最新記事