彼は目を閉じた。
再び目を開けると、彼はポケットに手を入れ、携帯電話を取り出した。三回ボタンを押す。それから、彼は天守閣の向こうの空を見上げた。
「もしもし。警察ですか。───情報を流します。先日、岩代組組長舟橋竜雄が狙撃された事件に関して、容疑者の長谷川松茂なる人物が、現在、松本城本丸内に観光客に粉して入っていきました。───ええ、そのハセ松です。───ええ。すみませんが、それは申し上げられません。では」
携帯を切ると、老紳士はさらにいっそう沈痛な面持ちになり、萎びた両手に顔を埋めた。
☆ ☆ ☆
松本城は古い城である。あまり古いので、明治のころにはピサの斜塔よろしく傾いてしまった。言い伝えによれば、年貢軽減を訴え、捕まって磔の刑に処された加助という農夫が、呪いの言葉を吐いたために傾いたとか。しかし加助の生存したのは江戸時代前期であり、城が傾き出したのは明治もだいぶと経ってからである。言い伝えがまことだとしたら、呪いの潜伏期間は随分長いことになる。斜めになった烏城は、仕舞には競売にかけられ民間人の手に渡る。それはさすがにあまりにも、と良識ある市民の手により買い戻され、十余年に及ぶ大改修を経て現在に至る。もちろん、背筋もピンと伸ばされた。
老いゆく人間の場合には、とてもこのようにはいかない。変装の場合は別として。
☆ ☆ ☆
登城者たちはぞろぞろと蟻の行列を作って城を巡っていた。その中に、背筋のひどく曲がった老婆の姿があった。彼女は人ごみに揉まれながら、ひいひい言いつつ階段を上った。「お婆さん大丈夫かい?」と声を掛けられることもあったが、「なんのなんの。まだ若いだもん」と腕を振って答えた。
城の三階は、「暗闇重」と呼ばれる、明り取りの極端に少ない板の間である。昼間でも夜のように薄暗い。老婆はそこまで来ると、「ちょいと一休み」と周りに聞こえるように呟いて、階段の裏手に回った。通行人からは死角になる。しばらくそこでじっとしていたが、行列がある程度動いたのを見計らって、素早く老婆の変装を脱ぎ捨て、中年男に生まれ変わった。折りたたみバッグを取り出し、年寄りの衣装を押しこんで背負い、縁の太い眼鏡を掛けてカメラを首からぶら下げる。それから、いかにも今カメラを撮り終えて出てきたかの様子で、観光客の列の前に再び姿を現した。
最上階まで登る。狭い明り取りから眺望を一渡り確認すると、彼は深く、長いため息をついた。それからおもむろに階段を下り始めた。
下りのコースは月見櫓の間を通る。他の部屋と違い、歓楽用に建て増しされた一角であり、随分開放的な造りである。
長谷川松茂は明るい採光に引き寄せられるかのように手摺りまで近づき、そこに腰を下ろした。
光の加減か、内堀の水面は、藤棚から見たときよりも、いっそう燦然ときらめいて見える。
彼は眼鏡を外した。
彼の肩を背後から叩く者がある。
「ああ」と彼。振り向きもしない。
「ハセ松さん。警察の者です」
「わかってらあ。お前さん方がさっきから、ぎこちない変装で金魚のフンみたいに俺にくっ付いてたのは」
彼はちらりと背後の男達を一瞥すると、また堀の水面に視線を戻した。
「もうちっと。もうちっとだけ、眺めてからでもよかろう?」
☆ ☆ ☆
お城というものはもともと、非道の産物である。加助の怨念は二百年後に現実化したわけだが、いまだ本懐を遂げない恨みつらみは、松本城の至る所に、目に見えない血糊となってべったりと滲みついている。
築城の折、三メートルを超す巨石を運び込むのに大変苦労した。人足の一人が苦情を訴えると、即座に首が斬られ、首は槍の先に刺して掲げられた。そしてそのまま、巨石運びの号令を掛ける者が持つ旗印として使われた。人足たちは、死んだ仲間の首に追い立てられながら、動かぬ石を必死で曳いたわけである。
城に流された無念の涙は数知れない。どんな不条理も、三百年保存されれば、文化財になる。
松本城は国宝である。
☆ ☆ ☆
「国宝 松本城」と彫られた石柱の脇を抜け出て、街中を南東の方角に向かうと、歩き疲れる前にジャズ喫茶『エオンタ』に辿りつく。落書きだらけの狭い階段を上り、黒塗りの扉を押して入ると、劇場用のスピーカーから迸り出る重厚なジャズの音色に圧倒される。席に着く前に、すでに酔っ払ったような非現実的な感覚に襲われる。
カウンター席で、JKは泥酔していた。
「珍しいねえ。こんなに飲むの」
マスターがLPレコードを拭きながら声を掛ける。
「飲んでも、飲んでも、酔えないんだ」
「酔ってるよ」
「酔ってない」彼は長い前髪を掻き上げた。老紳士に変装していたときから四十歳は若返りしているが、眉間の皺はむしろそのときより深い。
ジャック・ダニエルをストレートで呷る。
「仕事?」
「いや。ボラティアだ」
「ほう」
「監獄送りのね」
「後悔してるの?」
「後悔はしない主義なんだ」
「なるほど」
空のグラスが鈍い音を立てる。
「だって、やっぱり、人を殺めちゃいけないよね」
「うん」
「どんな理由があれだよ」
「うん」
「なのに───こんなに後味が悪いのはなぜなんだ」
「水を飲みなよ」
「うん。そうする」
(終)
再び目を開けると、彼はポケットに手を入れ、携帯電話を取り出した。三回ボタンを押す。それから、彼は天守閣の向こうの空を見上げた。
「もしもし。警察ですか。───情報を流します。先日、岩代組組長舟橋竜雄が狙撃された事件に関して、容疑者の長谷川松茂なる人物が、現在、松本城本丸内に観光客に粉して入っていきました。───ええ、そのハセ松です。───ええ。すみませんが、それは申し上げられません。では」
携帯を切ると、老紳士はさらにいっそう沈痛な面持ちになり、萎びた両手に顔を埋めた。
松本城は古い城である。あまり古いので、明治のころにはピサの斜塔よろしく傾いてしまった。言い伝えによれば、年貢軽減を訴え、捕まって磔の刑に処された加助という農夫が、呪いの言葉を吐いたために傾いたとか。しかし加助の生存したのは江戸時代前期であり、城が傾き出したのは明治もだいぶと経ってからである。言い伝えがまことだとしたら、呪いの潜伏期間は随分長いことになる。斜めになった烏城は、仕舞には競売にかけられ民間人の手に渡る。それはさすがにあまりにも、と良識ある市民の手により買い戻され、十余年に及ぶ大改修を経て現在に至る。もちろん、背筋もピンと伸ばされた。
老いゆく人間の場合には、とてもこのようにはいかない。変装の場合は別として。
登城者たちはぞろぞろと蟻の行列を作って城を巡っていた。その中に、背筋のひどく曲がった老婆の姿があった。彼女は人ごみに揉まれながら、ひいひい言いつつ階段を上った。「お婆さん大丈夫かい?」と声を掛けられることもあったが、「なんのなんの。まだ若いだもん」と腕を振って答えた。
城の三階は、「暗闇重」と呼ばれる、明り取りの極端に少ない板の間である。昼間でも夜のように薄暗い。老婆はそこまで来ると、「ちょいと一休み」と周りに聞こえるように呟いて、階段の裏手に回った。通行人からは死角になる。しばらくそこでじっとしていたが、行列がある程度動いたのを見計らって、素早く老婆の変装を脱ぎ捨て、中年男に生まれ変わった。折りたたみバッグを取り出し、年寄りの衣装を押しこんで背負い、縁の太い眼鏡を掛けてカメラを首からぶら下げる。それから、いかにも今カメラを撮り終えて出てきたかの様子で、観光客の列の前に再び姿を現した。
最上階まで登る。狭い明り取りから眺望を一渡り確認すると、彼は深く、長いため息をついた。それからおもむろに階段を下り始めた。
下りのコースは月見櫓の間を通る。他の部屋と違い、歓楽用に建て増しされた一角であり、随分開放的な造りである。
長谷川松茂は明るい採光に引き寄せられるかのように手摺りまで近づき、そこに腰を下ろした。
光の加減か、内堀の水面は、藤棚から見たときよりも、いっそう燦然ときらめいて見える。
彼は眼鏡を外した。
彼の肩を背後から叩く者がある。
「ああ」と彼。振り向きもしない。
「ハセ松さん。警察の者です」
「わかってらあ。お前さん方がさっきから、ぎこちない変装で金魚のフンみたいに俺にくっ付いてたのは」
彼はちらりと背後の男達を一瞥すると、また堀の水面に視線を戻した。
「もうちっと。もうちっとだけ、眺めてからでもよかろう?」
お城というものはもともと、非道の産物である。加助の怨念は二百年後に現実化したわけだが、いまだ本懐を遂げない恨みつらみは、松本城の至る所に、目に見えない血糊となってべったりと滲みついている。
築城の折、三メートルを超す巨石を運び込むのに大変苦労した。人足の一人が苦情を訴えると、即座に首が斬られ、首は槍の先に刺して掲げられた。そしてそのまま、巨石運びの号令を掛ける者が持つ旗印として使われた。人足たちは、死んだ仲間の首に追い立てられながら、動かぬ石を必死で曳いたわけである。
城に流された無念の涙は数知れない。どんな不条理も、三百年保存されれば、文化財になる。
松本城は国宝である。
「国宝 松本城」と彫られた石柱の脇を抜け出て、街中を南東の方角に向かうと、歩き疲れる前にジャズ喫茶『エオンタ』に辿りつく。落書きだらけの狭い階段を上り、黒塗りの扉を押して入ると、劇場用のスピーカーから迸り出る重厚なジャズの音色に圧倒される。席に着く前に、すでに酔っ払ったような非現実的な感覚に襲われる。
カウンター席で、JKは泥酔していた。
「珍しいねえ。こんなに飲むの」
マスターがLPレコードを拭きながら声を掛ける。
「飲んでも、飲んでも、酔えないんだ」
「酔ってるよ」
「酔ってない」彼は長い前髪を掻き上げた。老紳士に変装していたときから四十歳は若返りしているが、眉間の皺はむしろそのときより深い。
ジャック・ダニエルをストレートで呷る。
「仕事?」
「いや。ボラティアだ」
「ほう」
「監獄送りのね」
「後悔してるの?」
「後悔はしない主義なんだ」
「なるほど」
空のグラスが鈍い音を立てる。
「だって、やっぱり、人を殺めちゃいけないよね」
「うん」
「どんな理由があれだよ」
「うん」
「なのに───こんなに後味が悪いのはなぜなんだ」
「水を飲みなよ」
「うん。そうする」
(終)