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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

是々日々 (6) ~鍵~

2017年02月20日 | essay

   また鍵を失くした。また、というのはつまり、以前も何回か失くしたことがあるからである。何回か、では済まないかもしれない。正確に数えたくもない。一番大きな鍵の失くし物は、数年前の車の鍵だった。これはキャンプ場でいざ帰ろうとするときに見つからなかったものであり、結局最後まで出てこなくて大変な思いをした。今回は朝出勤しようとしたら、職場の鍵やら家の鍵やらじゃらじゃらと四五個ぶら下がった革製のホルダーごと見当たらない。二、三十分くらいあちこち探して途方に暮れたところで、車のドアポケットから出てきた。

   どうしてこうも鍵を失くすのだろうかと、考え込まざるを得ない。友人に話すと、鍵をしまう場所を決めておけと言う。鍵をしまう場所を忘れたらどうするのだと聞くと、だから忘れない場所にしまうんだと言う。鍵をしまう場所を決めたことすら忘れたらどうするんだと再度聞き返したかったが、さすがに馬鹿にされそうなので止めておいた。

   鍵をしまう場所つくりはひとまず保留して、そもそもなぜ忘れるような場所に鍵を置くかという問題を突き詰めてみると、はたと気が付いた。日常的な行動範囲の中で、ほとんど無意識に鍵を手放す場面があまりに多いのだ。そもそも私は、考え事をしていたり、妄想にふけっていたりと、呆然としている時間が私生活の中に挿入されすぎる。まるでコマーシャルばかり挿入する民放放送である。はっと気が付けば以前見た映画の場面を思い出していたりする。夢見る少年で済んでいたうちはいいが、車を運転する社会人としては大変危険である。

   しかし自己弁護をするなら、野生の獣たちはおそらく空想にふけらない。五感を常に鋭くして現在の状況に意識を集中させておかなければ、命が危うくなるからである。 とするなら、空想世界に遊べるのは、大脳新皮質が発達し、記憶と自由と安全を得た人間独自の贅沢なのではないか。ぼーっとする時間がある生活のほうが、その余裕のない生活よりも精神的に豊かなのではないか。

   そんなことばかり考えていたら、人生の大事な鍵まで失いそうなので、この辺でロックアウト。 


掛け軸

2017年02月11日 | essay

   南天に雪。雪は湿り気を帯びて光を透かせ、融けだす寸前である。本来冬の使者でありながら、春の到来を告げる羽目になっている。もう少し寒気が緩めば、南天の蓄え持つ強靭な弾性力が働いて、皆振り落とされるかもしれない。だが今しばらくは、細い枝をたわませて赤い実を空の来訪者から隠し続けるだろう。

   その空には、一羽の雲雀(ひばり)。べた雪の努力むなしく、真紅の実を目ざとく見つけ、翼を広げて宙に留まっている。ついばもうと狙っているのか、ただその実の鮮やかさに目を奪われたのか。それとも、気まぐれに春を告げたくて舞っているのか。

  題をつけるなら『春来ノ図』といったところか。

   雪を被る南天と雲雀との間には、1間(けん)ほどの空白がある。その空白に来るべき季節を巡る楽しい予感が溢れんばかりに詰め込まれている。

   そのような掛け軸に、気まぐれに覗いた骨董商でばったり出逢った。表装に傷みがあるので、財布に無理を言えば買えない値段ではない。店を出て、ポケットに両手を突っ込み、心中迷いながら街を歩く。頬を切る風はいまだ冷たい。しかし日差しはほんわかと温かい。

   買うべきか、買わざるべきか。まあ普通は買わないだろう。が、ひょっと買っても面白かろうと思う。

  その迷いそのものが、あるいは、季節の変わり目を暗示しているのか。

  ニュースによれば、全国的には雪。春まだ遠し。

 

 

 

 


是々日々(5)

2017年02月06日 | essay

  曇天から思い出したように雨。いっとき雪に変わったが、昼過ぎにまた小雨に戻った。

  古いアパートの階段をやっとの思いで降りてきた老人が、杖をつきながら、よたよたと道を行く。杖とがに股の足が二本、計三本でなんとか体を支えているが、三本がバラバラに動くので、一見どこに向かっているんだかわからない。だが一応、体は近所の惣菜屋を目指している。いつもの時間に、いつもの場所でわずかな買い物を済ませ、またよたよたと戻り、やっとの思いで階段を上って消えていく。これが彼の一日の仕事である。身内はいない。話し相手もない。ときどき市の職員が声を掛けに来る。デイサービスがやってくることもある。デイサービスにはやたら声のでかい、なんだかとても親しげに話しかける女性がいる。老人はぼそぼそと彼女に受け答えする。往診医みたいな人がやってくることもある。

  雨はいつの間にか止んだ。夕焼けが通りに淡い影をつけた。

  ストーブの前で、こつ、こつ、という老人の杖の音に耳を澄ます。

  生きることは、老いることか。老いることのみが、生きることか。どう生きるかという問題と、どう老いるかという問題は、同じなのか、否か。違うとすれば、どちらがより難しいのか。

  人は、何を繰り返して生き、そして老いていくのか。

  そんなことを考えた。

  ストーブが灯油を呑み込む音。

 

 


是々日々(4)

2017年02月03日 | essay

  人生の選択肢があまりに多くて迷う人がいる。

 人生の選択肢があまりに少なくて迷う人もいる。

 あとで悔やむのはどちらも同じである。

 前者は自分を呪い、

 後者は運命を呪う。

 だが自分も運命もつきつめたらこれまた同じ。

 つまり迷わない人は、その都度その都度、

 自分も運命も受け入れる人ということになろう。

 腰の張りをほぐしながら

 窓に映る夕焼けを眺め

 そんなことを考えた。

 

 


是々日々(3)

2017年01月31日 | essay

 前回の休日から数日たって、また休日。今度は国民的休日ではないが、私個人の休日である。こう書くといかにも休んでばかりの感があるが、月に一度あるかないかのことである。普段馬車馬のように働いているのだから、たまにはそういう贅沢もあっていいと思う。ただし私一人休日だと、付き合ってくれる人は居ない。今回は明日が早いので、無茶な遠出もできない。そこで、前々からとある知人にしつこく勧められていた、近郊の大衆スパーに独り行ってみることにする。知人いわく、楽しくて一日つぶせるとか。個人的にはどちらかというと、くねくね道をようやく上り詰めたところにあるひなびた隠れ湯的存在が好きなのだが、たまにはいいかな、と思う。

 電車に数分揺られたら、到着。大きな施設である。湯船の種類は両手に余るほどあり、サウナも数種類。岩盤浴、樽風呂、ワイン風呂、マッサージやアカスリの部屋まであり、食事も数店が施設内に軒を並べて盛大である。漫画も読めるしテレビも見れる、おまけにこのようにインターネットまで出来る。確かに一日つぶせそうである。

 しかし、何か落ち着かない。全ての湯船につかり、普段利用もしないサウナまで覗いて回り、電気マサージでゴリゴリしてもらったあとは中華料理屋に入ってビール。それでも落ち着かない。原因はおよそ分かっている。

 偉そうなことを言わせて貰えば、情緒と言うものの欠如である。どの湯に浸かりどの角度から眺めても、情緒が無い。ただし、当然ながら感じ方には個人差があってしかるべきである。現に来館している圧倒的多数の人達は、嬉しそうな顔で十分満喫している。

 少し孤独を感じて、無料利用できるパソコンに向かう。体をほぐしにきてパソコンに向かうとは、私こそ情緒を解さない人間である。

 私は本当に、落ち着き方を忘れてしまったのか。私はもしかして病気なのか。

 病気?

 そうそう、睡魔である。

 睡魔についての論考にそろそろけじめをつけなくてはならない。睡魔はもはや、社会的問題として論じるべきだと言うのが、私見である。国際社会がいまこそ一致団結して────いやあ、こんな堅苦しい話、たとえインターネットサービスの部屋で書いているとしても、斜め後ろでは老人たちが将棋を指して盛り上がっているし、背後では心地よくうたた寝している人もいる。私の横に物珍しそうな顔をしてお爺ちゃんが座り込んできた。なんだかキーボードをカタカタ言わせているだけでも周りの雰囲気を壊しかねないので、また次稿にしようっと。

 


是々日々(2) ~睡魔~

2017年01月29日 | essay

  一夜明けて、休日。快晴である。いつもより余分に寝て、犬の散歩もいつもより少しだけ延長し、コーヒーを飲み、前稿の続きに取り掛かる。睡魔について書かなければいけない。別に誰にせかされているわけでも、誰が読みたがっているわけでもないにしても、自分で決めた以上、書かなければいけない。しかしなかなか気分が乗らない。

   窓から差す陽光は、春の到来を思わせるように明るい。庭の木に少し大きめの小鳥がやってきた。妻曰く春になるとやってくる小鳥らしい。目を凝らすと、枝先の蕾もずいぶん膨らんできている。

  いかんいかん、睡魔である。

  さて、この生理現象について、いよいよ人類は真剣に向き合わなければいけない時代になった。私はそこまで言い切りたい。声を大にして警告を発したい。人類の脅威は、今や、核兵器、環境問題、そして睡魔である。

  なぜに睡魔をそう重大視するのか? 睡魔に悩まされる人が急増しているからである。いいや、統計的根拠はない。あなたは日中眠くなって困ることがありますか? なんて世論調査はなされていない。どこかでなされているかも知れないが、私はあずかり知らない。ただ、私の知人で多いだけである。それも、いやあちょっと日差しが気持ちいいからつい眠くなってきたなあ、と伸びをして笑顔であくびをかみ殺す、というような平和な睡魔ではない。もっと危険な、生命の維持さえ危ぶまれる睡魔である。蟻地獄の淵に足を取られ、あっ、と叫んだ時には奈落の底にみるみる引きずり込まれていくような、圧倒的な吸引力で引き込まれる睡魔である。

  私の学生時代の先輩は、確か病名までもらっていた。「信じないだろうけどね」とその先輩は力なくつぶやいた。「ほんとに、急になるんだ。どうしようもないんだ。普通の睡魔とは違うんだよ」

  また、長い付き合いのある東京在住の友人は、一緒に食事をしたとき、しみじみと語った。「すげえんだ。何してても、眠くなるんだ。で寝ちゃうんだよ、一瞬。あ、お前、信じてないだろ」と言いながら、ふと言葉が途切れたかと思うと言った。「ほら、ほら、今眠ってたろ」

  彼の場合は少し誇張が過ぎる傾向があるが、しかしまんざら嘘でもないらしい。

  そして私。ここ数年、昼食をとってしばらくすると、まるでナルニア国の魔女のひと吹きで石に変えられたように(と言いながら、その逸話を人から聞き知っただけで、ナルニアの物語なんて全く読んでないのだが)、不可抗力的に、暴力的に、絶対服従的に、睡魔によって体を硬直させられるのである。

  サンプルはそれだけである。あ、もう一人、妻も最近「あなたのがうつった」と言っている。午後職場で必ずと言っていいほど眠くなるらしい。

  症状の深刻さの度合いには個人差があるだろうが、私の周りに私を含めて四人も患者がいたら、もう世界人類的にはWHO(世界保健機関)も黙っていられないほどの爆発的広がりを見せているに違いない。 

  と、ここまで書いたところで、家人に家の用事を言いつけられた。日曜日もおちおちパソコンに向かうことすらできない。読み返してみると、さすがに大言壮語の嫌いも伺える。続きを書くのが少し嫌になった。

  ということで、続きは次稿で。

 


是々日々(1)

2017年01月29日 | essay

 自分の影を石畳に見つめながら歩く。背中は大寒の日差しを浴びて暖かい。

 近所の古道具屋は閉めている。張り紙を読むと、店主体調不良につき、とある。巷ではインフルエンザが流行っているから、それかも知れない。だとしたら気の毒なことである。歩を転じて路地裏に入れば、日陰の片隅には干からびた様な雪がまだ残っている。太った猫が体を揺すりながら軒から軒へ移動する。猫にインフルエンザはないのかしらん。そんなので苦しんでいる猫をあまり知らない。食べて寝て、軒から軒へ移動して、また食べて寝て、軒から軒へ移動して、を繰り返すような暮らしぶりだったら、流行りのウィルスなどで体調を崩すこともないのかもしれない。その辺のことはよくわからない。

 橋を渡って、川沿いを数分上り、一軒の喫茶店に入る。

 店内は灯油ストーブで暖かい。メニューを見ながら相談し合っている若いカップルがいる。四方山談義に花を咲かせる中年の二人連れがいる。一際大きいテーブルを陣取り、洒落たマフラーを全員がきっちり巻いた老人の集まりがいる。一人客は私くらいである。

 壁際に席を取って珈琲を注文する。所在ないので、全国紙の新聞を棚から取って広げてみたが、すべてのページを捲っただけでまた閉じてしまった。最近はインターネットでも情報を見ているので、知らないニュースがない。新聞を読むのもつまらなくなった。新聞屋のせいではないから、これもまた気の毒な話である。

 運ばれた珈琲を口に含む。カップを受け皿に戻し、それから腕組みをして目を閉じる。

 最近多忙である。何かよくわからないことで忙しいだけ忙しい。朝起きてから夜寝るまでほとんど丸一日あたふたしている感じなので、たまには喫茶店でも入ってゆっくりしたいと思い喫茶店に入った。ところがいざ入ってみると、これが落ち着かない。珈琲を飲んでも、腕組みをして目を閉じても落ち着かない。落ち着き方を忘れてしまったのかも知れない。そうだとすると、随分粗雑に生きてしまっていることになる。路地裏の猫が聞けばせせら笑うであろう。

 それでも目を閉じ続けていたら、錆びついたネジを回しこむような睡魔に襲われた。

 

 

 この睡魔がまた曲者なのだが、それについては次稿に譲る。


初スキー

2017年01月13日 | essay

 

 今年初めてのスキーに行く。アクセルを踏み込み、一路、白馬へ。

 冬の雪山に向かうのは、夏の海に向かうのとはまた一味違った、独特の高揚感がある。夏の海はほとんど無条件に開放的であり、「海だ!」「海だ!」という声が絶えず脳裏にこだましており、エサを前にした犬よろしく深いことは何も考えず涎を垂らして尻尾を振る状態であり、まあもし天候が荒れたり落雷や高潮が懸念されるのならそもそも海に向かわないだろうから、海に向かっている以上はこれはもうできるだけご機嫌な格好(アロハシャツにサンダル、サングラスを前頭部に掛けたりして)で、ディズニーのキャラクター並みのはちきれんばかりの笑顔を浮かべて車を走らせるのがふさわしい。

 一方でスキーは、そこまで開放的ではない。雪煙を上げて「ひゃっほうほう!」と、猿山を駆け下りる猿よろしくご機嫌に滑走するのだから、開放的なスポーツには違いないが、しかし何しろ冬山の天候はうつろいやすく、吹雪や降雨の可能性もあり、しかも基本的にはスキーをやらない人から見れば物好きだとしか思われない極寒の状況下で鼻水を手袋で拭いながらするスポーツなので、車を走らせていても、雪山に近づくにつれてどこか求道者的な顔の引き締まり方をしてくる。興奮に伴う凛とした覚悟がそこにはある。

 ところがここに、朝から缶ビールを空ける無法者の同乗者たちが加わると、大きく調子が変わる。覚悟も緊張もあったものではない。行きの車内から宴会状態。そのくせスキー場に着くとこちらが追い付けないほど本気で滑って、帰りはまた宴会。ハンドルを握る私はさすがに飲まないが、彼らを傍で眺めているだけで酔っぱらいそうである。そういうスキーツアーをもう十年近く続けてきた。いいのかなあ、これで。

 

 ※掲載の写真は数年前のもの。実際には、今回の初スキーはまさに吹雪に見舞われた。同乗者たちの行いのせいか知らん。


やぎひげ

2017年01月10日 | essay

 私にはやぎひげがある。首筋の中ほどからひょろりと伸びる。顔全体としては決してひげの濃い方ではない。たとえ伸びたとしても一日零点数ミリ程度である。なのに、そのたった一本のやぎひげだけは、ある日鏡を見て気づいたら五センチくらいあるのではと思えるくらい伸びている。五センチは少々サバを読んだかもしれない。しかし器用な人なら針を使って玉結びができるくらいには伸びている。毎朝のひげ剃りの時に剃り落としてもよさそうなものだが、通常のひげ剃りの範囲をかなり逸脱した場所にポツンと生えているし、朝のひげ剃りは何しろ眠いので、気づかないまま放っておくのだろう。見つけたらもちろんそり落とす。しかし数か月後か、半年後か、あるいは一年後くらい、つまりとにかくやぎひげという概念すら忘れたころ、再びひょろりと生えたやぎひげを鏡に確認して、唖然とするのである。だいたい同じ場所から生えている。なぜやぎひげと言うかと言えば、その根拠ははなはだ心もとない。やぎのひげは首筋から長いのが生えているし、昔やぎを飼っていて、やぎの乳をかなり飲まされた記憶があるから、そのせいでひげが伸びたのだと信じて疑わないのである。やぎのミルクで体の一部がやぎ的になるのなら、牛のミルクを飲んでも体のどこかが牛的になるだろう。食べ物はすえ恐ろしい。

 今日に至るまで、やぎは好きである。これもやぎの乳の影響かも知れない。ただし、味の方は驚くほど不味かったことを、今でも鮮明に覚えている。


1月1日を数日過ぎて

2017年01月06日 | essay

   年明けに何か書こうと思っていたが、例年のごとく年末年始はまるで雑巾のように働いており、濡らして丸めて絞るような何が何だかわからない忙しさのなかで、今日にいたった。

   まったく、一年の節目もじっくり味わえないほどの忙しさは罪である。そうわかっていながら、自分で忙しくしてしまっている。性分であろう。しめ飾りも時間がない中、量販店で小さいものを購入。クリスマスリースは立派な手作りのものを発注しただけに、その見栄えの違いに、やはり縁起物は渋ってはいけないと正月早々反省した次第。

   家族での初詣は何を勘違いしたか、神社ではなく寺に行ってしまった。しかし神社のような寺なので、まあよしとする。参拝客も多く、それなりに正月風情を味わうことができた。賽銭を投げて手を合わせ、そば茶を飲み、お寺なので鐘を突き、私は引かないが家人はおみくじまで引いた。なぜお寺におみくじがあるのだろう。その辺が神社のような寺であるゆえんである。それにしても、私はおみくじを引く人の気が知れない。もし仮に、賽銭を投げて手を合わせているところに、頭上から「小吉!」とか「凶!」とか声が掛かるのなら、それも天命だとあきらめるが、一口百円の印刷紙でなんで一喜一憂しなければならないのか。しかし人のおみくじを見るのは楽しいので、脇から盗み見ていろいろ批評した。家人は大吉を引き当てていた。人生で初めての大吉らしい。いたく感動して急に気が大きくなったのか、尊大な態度をとっていた。あれなら一口百円で高くない。

   多忙にようやく一息ついた本日、一人で昼間の温泉に行き、一人で正月気分を味わい直した。露天風呂の湯けむりの中でうめき声を漏らしながら、じっと目を閉じる。束の間なれど、極楽、極楽。何だかよくわからないがおめでたい。