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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

北陸旅情(3)

2017年10月16日 | 紀行文

 山中温泉。石川県加賀温泉郷の山間部に湯煙を上げ、千三百年の歴史と伝統を誇る。古くはあの松尾芭蕉が九日間も逗留したと伝えられる。古九谷焼発祥の地であり、山中漆器で全国に名を馳せる。今なお文化の薫り高い温泉街である。

 そんなことを図書館から借りた『まっぷる』から学び取った我々が目指したのは、しかしながら、温泉にゆっくり浸かって体を休めることでもなければ、陶器や漆器の鑑賞でもなかった。悟りを断念した私と、もともと悟りに興味のなかった同伴者は、すみやかに旅情のシフトを飲食へと切り替え、夜の街を「はしご」することを決意したのである。そのためわざわざ夕食を出さないホテルを選んで宿をとった。

 ちなみにそこは一風も二風も変わったホテルであった。まず各部屋に呼び鈴がある。

 呼び鈴?

 ドアを開けると意外と広い。不必要だと思われる部屋まである。洗濯物が干せそうなベランダ、浴室にダイニングキッチンまで備え付けられている。

 ダイニングキッチン?                                                                

 さすがに気になったので、フロントに問い合わせてみると、もともとリゾートマンションで売り出したものを、ホテル用に改築したとのこと。どおりで、誰かが住んでいそうな気配までしたのだ。不景気になって部屋が全部埋まらなかったのだろう。バブルの遺産、というところか。

 広々とした部屋で、掃除は行き届いており、通路はあちこちで間接照明が雰囲気を作り出している。価格はリーゾナブルだが、ちゃんと温泉もあり、露天風呂まである。売り方と説明次第ではもっと需要が増えそうな気がしてならない。

 ひと風呂浴びて、温泉地らしく浴衣に着替えたら、いざ、夜の繁華街に向け出発。

                                                                                                     

 興奮する我々を待ち構えていたのは、意外に閑散とした通りと、浴衣にはちょっと涼し過ぎる夜風であった。

 その上、あろうことか我々はフライングをした。夕方五時過ぎには、まだどの飲食店も開いていないのである。

 夕闇の迫るひと気のない街並みを、浴衣姿の我々二人は場違いな観光客の面持ちでしばしさまよい、どこかの店が開くのを待った。

 最終的に暖簾をくぐったのは、『魚心』という海鮮料理店であった。

 若い夫婦が切り盛りする小さな居酒屋である。小ざっぱりとした狭い店内の壁一面にメニューが貼られ、聞いたことのない名前の魚も多い。注文したどの魚料理も旨かった。なかでも、キジハタだったか、酔っていたので名前が定かでないが、亭主の機転でメニューにない酒蒸しにしてもらったのが、逸品であった。舌に乗せるとあっさりとした白身だが、噛み締めると深い味わいがある。喉の奥にしまい込み、ぬるめの燗酒をあおる。

 浴衣の袖を振らせながら異郷の地で飲む酒はまた格別である。

 旅情ここに極めり。

 

 店を出ると、二軒目をどこにするかという切実な問題が待っていた。期待していたほど選択肢は多くない。あまり迷っていると、夜風がせっかくの酔いを醒ましかねない。腹具合は先ほどの魚料理で充分である。

 そこで、滅多に採らない選択肢であるが、たまたま目に飛び込んだスナックのドアを押した。

 そこはピカピカに磨かれた重厚な造りの酒棚と、蝶ネクタイを締め背筋の伸びたマスターが迎える、老舗のスナックであった。

 『星』という名前の店であった。カウンターのスツールに腰掛けると、いきなりマスターから、この店は自分が十九の時に始め、五十二年続けてきたが、来月閉店すると聞かされた。五十年以上の歴史があることもすごいが、来月閉店というのもいきなりである。お客さんはたまたま縁あってこういう店を選んでこられたのだから、ゆっくりしていってください、と言われた。

 そう言われても複雑な気持ちである。とは言え、居心地が良いので、数杯飲んだ。マスターの話によると、この店を開いた昭和の時代は、通りは人波で溢れ返っていたらしい。店もバーテンダーを四人雇って満員の客に対応していた。山中温泉内にホテルが二十軒くらいあったが、現在は七、八軒である。高度経済成長、バブル、不景気と、時代の荒波に翻弄されてきたのだ。そんな中でも五十年、看板を降ろさずに夫婦二人三脚で店を続けてきた。さすがにこの歳になって体が言うことを聞かなくなり、閉店を決意したとのこと。

 しばらくするとママさんも現れ、昔話で盛り上がった。やがて常連も一組現れた。背の低い老女が筆頭である。しかし彼女がいったんマイクを握ると、若々しく張りのある声が出るので驚いた。しかも何曲歌っても喉が枯れない。『山中雨情』という地元が舞台の演歌まで歌ってくれた。旅の男と契りを結んだ宿の女の、切ない別れの歌である。我々旅行客にサービスで聴かせてくれたのかもしれない。

 気分が乗ったのでブランデーを一杯注文したら、グラスに火を点け、温めてから酒を注ぎ、供してくれた。昔はこのような技術を多くのバーテンが持ち、夜の賑わいを演出していたのだろう。それははかない夢のような時代であり、夢から醒めたのち、もう二度と夢には戻れない時代になってしまった。それでもこの夫婦は、背筋を伸ばし、毅然として、半世紀も店を切り盛りしてきた。そこにはひょっとして、一つの悟りに近いものがあったのかも知れない。

 「そりゃいろいろあったわよ」

 とママさんがつぶやく。

 「でも、自分がこの店を支えてるんだって自負があったからね」

 そうだ。続けることだ───と私はグラスを手にしながら心に思った───続けることこそが、一つの修行であり、悟りなのだ。どんなに俗世の塵芥にまみれようとも。

 『星』は、自分たちなりに立派に時代を生き抜き、今ようやく休息しようとしている。

 

 店の人と常連と、皆に温かい声をかけられながら店を後にした。自身相当酔っているのにもう一軒、と主張する調子ばかり良い同伴者に乗せられ、三軒目のお好み焼き屋に転がりこんだ頃には、私も同伴者も何が何だかわからなくなっていた。

 

 翌朝、山中温泉はすがすがしい一面を見せてくれた。渓流に沿った美しい遊歩道を歩くと、街の年寄り連中が無料サービスでお茶を振舞ってくれた。仲間内でおしゃべりが絶えず、とても楽しそうである。橋を渡って大通りに戻ってみると、陶器や漆器の店は観光客で賑わっていた。古い店と店の合間に、新しい店がいくつもオープンしているのが認められた。

 この街全体が休息するのはまだまだ先だろう。確かに昔のような好況は望むべくも無いかも知れない。だが年寄りが元気で、若い力も参入してきている。美しい自然と温泉と、伝統工芸もある。どんな時代が来ても、この街は何とか乗り越えていくであろう。

 昼前になってようやく、我々は山中温泉を後にした。計画外に買ったいっぱいの手土産と、いっぱいの思い出を車のトランクに詰め込んで。

 

 北陸二日間の旅は、こうして幕を閉じた。

 

(おわり)

※写真はどちらも山中温泉遊歩道にて。

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北陸旅情(2)

2017年10月09日 | 紀行文

 一路海岸へ。次に目指すは東尋坊。

 高さ二十メートルを超える断崖絶壁。打ち寄せる日本海の荒波。東洋随一の奇観。国定公園に指定されながら、同時に自殺の名所としてもその名をはせる。その壮絶壮大な景色を前にすれば、永平寺で得られなかった悟りの境地に、ひょっとすると近づけるやも知れない。

 あるいは死というものが見えるかも。

 越前平野は予想以上にだだっ広かった。果てしなく田畑と電信柱が続く。私はひたすら車を走らせた。

 四十を過ぎて旅をして、自分は果たして何を得ようとしているのか───ハンドルを握っていても、思考は自然とそこに行きつく。私は何を悟りたいのか。どう自分を変えたいのか。若いときも、よく旅をした。あの頃なら電車や徒歩で半日かけた距離を、今は車で数時間である。若い頃なら寝袋を担いでとぼとぼ歩きながら日暮れを迎えていたのに、今はしっかりと宿を予約し、車を走らせ、『まっぷる』まで携帯している。しかも『まっぷる』は図書館で借りたものだ。旅が終われば返却するという魂胆だ。こんなちゃっかりした旅で、いったいどんな神秘的体験が望めるというのだ。

 私の呻吟(しんぎん)を他所に、助手席に座る、やたら調子のいいこの旅の同伴者は、『まっぷる』を広げ、海の幸としてエビ天を食べるべきか、カニはまだ早いか、などとどうでもよい話題をふっかけてくる。どこに店があるんだと訊くと、東尋坊タワーにあるから大丈夫だと言う。

 東尋坊タワー?

 東尋坊にはタワーがあるのか。私はハンドルを握る手に汗を感じた。断崖絶壁に打ち寄せる日本海の荒波、その荘厳な景勝地には、タワーが建っているのか。

 急速に押し寄せる不安を振り払いながら、私はさらに車を走らせた。

 

 不安は的中した。東尋坊も、立派な一大観光地だった。

 考えてみれば当然のことである。風光明媚で名の知れた場所である。観光産業が目をつけないはずがないではないか。噂の東尋坊タワーに隣接したやたら高い有料駐車場に始まり、ここは京都か浅草か、と思わせる土産物屋が通りの左右に列を成す。店先では、長年の人ごみと砂ぼこりのせいか目の座った店員が、誰に向かってともなく呼び込みをしている。店頭に並ぶのはなぜか南国の貝殻や、『がけっぷち』などと書かれたTシャツ。ソフトクリームを手にし、買ったばかりの編み笠を被った観光客などが、群れとなって行き交う。ひと時代前はもっと賑わっていたのだろう。シャッターを降ろしたままの店もちらほら見かけた。

 高度経済成長の落とし子のようなその通りを抜けると、ようやく柱状節理でできた岸壁が現れる。

 評判に違わず壮観である。何者かの怨念のようにそそり立つ岩石のはるか下方で、海が白波を立てている。

 しっかりと抹茶ソフトを右手に握りしめた私は、崖の先端からこわごわ下を覗き込んだが、足がすくんで十秒と立っていられない。ともに高所恐怖症であることを思い出した私と同伴者は、速やかに数十メートル手前の安全な地点まで引き返し、そこに腰を下ろした。 

 しばし呆然と日本海を眺める。

 悟りを開くのはまたにしようと思った。

 

 日没を待たずして、東尋坊を脱出。その日の最終予定地は山中温泉。

 いよいよ夜の部が幕を開ける。

 

(つづく)

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北陸旅情(1)

2017年10月03日 | 紀行文

 永平寺を目指そうと思い立った。

 禅宗曹洞宗の総本山。福井の雪深い林間にひっそりと佇み、開山以来七百六十年間、厳しい修行と戒律で俗世の塵芥を被らずに独自の世界観を守り続けてきた最後の聖域。その空気に接すれば、ひょっとして自分の中の何かが大きく変わるかも知れない。四十代も半ばに差し掛かり、人生後半がおぼろげながら見えてきた。だいたいこんなものかという思いもあり、こんなもので果たしていいのだろうかというためらいもある。生き方を見つめ直すのに、永平寺ほど適した場所はあるまい。

 体験で座禅を組むことも可能だと言う。心を無にし、何かを悟るきっかけになるかも知れない。幸い、万事につけてノリのいい連れ合いが、座禅にもやる気を示した。実は以前、地元松本でも座禅の一日体験を二人で申し込んだことがある。そのときは、連れ合いはどちらかというと精進料理やお茶菓子に興味があってついてきた。しかし今度は本場である。本家本元の座禅である。相当の覚悟が必要だが、それでもやってみたいと言う。精進料理も茶菓子もないよと念を押したが、それでもやってみると言う。

 となれば、もはやこれ以上迷うことはない。連休の確保できた九月末日、我々は一路、車を走らせて福井に向かった。

 

 旅情を重んじ、なるべく下道を採った。松本から安房峠を越えて岐阜へ。飛騨高山から高速に乗り、白鳥まで南下、再び下道を通って北上。渓谷を走り、福井県は永平寺町へ。所要時間、五時間。

 

 永平寺は、一大観光地だった。

 門前町には土産物屋が並び、ごま豆腐や「禅」と描かれたTシャツなどが所狭しと並べて売られていた。観光バスが何台も並び、ソフトクリームを舐める若者やみたらし団子を頬張る年寄り、自分たちの写真を撮るカップル、祖国の言葉で喋り合う外国人観光客などで溢れていた。私は愕然として、思わず参道に膝を突いた。求めていた静謐な空気はそこにはなかった。何事につけノリのいい同伴者は、意気消沈する私を写真に撮って笑っていた。

 いやしかしいったん門を潜りさえすれば。一歩境内に足を踏みさえすれば。と一縷の望みをかけて寺院の敷地内へ。さすがに伽藍はどれも大きい。建物の中はしっかりと観光ルートが確保されていて、修行中の僧侶たちの邪魔にならないように、修行のエリアと観光のエリアが区分されている。観光客は庭に出ることさえ許されない。参拝経路の案内表示に従って、ぞろぞろと人波が動く。ときどき用事で行き交う僧侶に遭うと、サファリパークでキリンやライオンに遭遇したように喜んでいる。

 私は中庭への出口となっている渡り廊下に腰掛け、日の降り注ぐ庭の樹木を眺めた。

 これでいいんだ、と私は心に呟いた。もちろん、こうなることはわかっていた。観光産業の発達した現代日本で、歴史と知名度を誇りながら、同時に静謐さを維持できている場所なんてそうあるもんじゃない。永平寺は悪くない。彼らは、観光客を適当にあしらいながら、自分たちの修行を邪魔されない場所で黙々と続けているのだろう。一泊二日の旅で、その一端に触れ、あわよくば悟りの一つもひらきたいなどと願う私みたいな観光客の方が、よっぽどおこがましいのだ。

 永平寺の山門には、扉がない。来る者拒まずの精神らしい。しかし、その神髄を覗き見ることは、容易ではない。

 座禅もなんとなく諦め、ごま豆腐と人生啓発の言葉の書かれた写真集を、家で留守番をする義母のために買い求めると、我々は日の傾きかけた永平寺を後にした。

 

 (つづく)

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開田高原散策の試み

2017年09月25日 | 紀行文

 

 開田高原には秋の陽だまりがあった。

 

 所要時間二時間ほどのトレッキングを試みる。観光案内所で散策ルートを丁寧に説明してもらい、指定された場所から歩き始めたものの、すぐに脇道に惹かれてコースアウト。どうしても大道よりは狭い道を選んでしまう悪い癖である。田舎の風景が広がる。ずんずん脇道に逸れる。観光案内嬢には大変申し訳ないことをした。

 民家の敷地を横切り、あぜ道のようなところを下ったら、蕎麦屋に出た。『大目旅館 とうじ蕎麦』とある。普段は旅館をしながら、日曜日だけ昼間に蕎麦屋を開いているらしい。暖簾をくぐってみた。

 

 二十畳ほどの座敷に、低い長机が並び、結構な数の客がすでにとうじ蕎麦をつついている。奥に席を取り、カセットコンロや漬物やらが順番に用意されるのを待つ。開いた窓からは乾いた秋の風が入る。赤い実のなる木が見えるが、名前を知らない。

 とうじ蕎麦は、キノコでだしを取った熱い汁にすんきという漬物を投入し、そこに竹で編んだ杓子に入った蕎麦を浸して、だし汁で味わう。すんきから染み出る酸味が熱でまろやかな旨みに変わり、香り高い開田蕎麦と相まって実に味わい深い。

 ときどき箸を休めて、窓の外の木の実や、日を浴びて揺れる薄や、遠くの田に立つ天日干しの稲を眺めやる。

 

 大目旅館を出たら、細い川に出た。すでにいい気分である。せっかく教えてもらった散策ルートの十分の一もまだ進んでいない。さすがにこのままでは観光案内嬢に申し訳ない。おそらくあの橋は、手元の地図にある橋のどれかなのだろうくらいの適当な了見で橋を渡り、山へ向かったら、地図にも載っていない喫茶店に出くわした。『ぽっぽや』とある。開田高原とはよほど意外な場所に店が建つところらしい。休んでばかりいないで少しは歩かねばと、いったんは店を素通りして地蔵峠を目指したが、満腹の上に上り坂である。峠はそう簡単に見えてこない。歩いてばかりいないで少しは休もうと、自分勝手に考えをひっくり返して下山し、『ぽっぽや』に立ち寄ることにする。

 

 テラス席で、珈琲とスープとパンを注文する。店名の通り、庭には鉄道の模型が敷かれていた。開田の村落を見下ろし、そのさらに遠くには御嶽山が威風堂々とそびえる。あいにく雲がかかって山頂は見えなかったが、なかなかに眺めのよいテラスであった。模型はドイツ製とかで、細部にわたるまで精巧である。線路も起伏をつけ、建物や駅やプラットフォームに佇む人、沿線の牧草地で草を食む牛まで再現されている。好きなんだなあ。好きなあまりこの風景で模型を走らせたくて、それで店を始めたんだろうなあ、などと思いながら眺めていたら、店番をしていた奥さんが、地域の作業に駆り出されていた店主を携帯で呼び戻した。作業着のまま駅長の帽子を被った店長に、三台の列車を順番に動かしてもらう。奥さんのハモニカ演奏つきである。すごいサービスがあったものである。

  

 

 短い人生、好きなことをとことんやって死ねればそれに越したことはない。それができないから人は「便利」という言葉を編み出した。「便利」は好きなこととは違う。人は別に「便利」をしたいわけではない。それでも自分の身辺が「便利」に満ち溢れていれば、それなりに豊かで幸せな人生であるような錯覚を覚える。それで人は都会に暮らすようになった。

 開田高原のような片田舎は、生活を営むのにさほど便利ではあるまい。しかし、自分の好きなことを追い求めて、その地をあえて選ぶ人もいる。

 選ばない人もいる。ときどき都会から観光に訪れ、もし自分がそういう生き方を選んだら、ということを夢想してみる人もいる。

 

 そんなことを考えながら温泉につかり、開田高原を後にした。

 

 

 (観光案内嬢お薦めの散策ルートは、結局最初の数百メートルしか従わなかったことになる。返す返すも、彼女には申し訳ないことをしたと思う。)

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『戸隠冬紀行』 完結

2012年05月30日 | 紀行文
まあせっかくですので、①~⑤までを時系列に並び変えました。

梅雨時の気晴らしにでもご一読ください。

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戸隠冬紀行①

2012年05月30日 | 紀行文
 私は早朝の街が好きである。
 かすかに靄の立つ女鳥羽川沿いを自転車で行くのが好きである。手がかじかむ三月、春の近づきを感じさせる日差しを浴びて、まだ寝ぼけ眼のような街並みをじろじろ眺めながら快走するのが好きである。
 街はせわしない。
 行き交う自動車はどれも、モーニングコーヒーの足らないような顔をした男女を乗せて、遅刻しまいと焦っている。私がふらふら自転車を漕いでいると轢き殺しかねない勢いである。私は彼らを見ながらゆったりと自転車を進める。
 川沿いの『魚平』では若い店主が露台に砕いた氷を敷きつめている。素手では冷たかろうと思う。
 喫茶店『おきな堂』のマスターは客寄せのメニューボードを出して開店の準備をしている。今日は天気がいいから、そこそこの来客を見込めるであろう。
 増田家具店は閉店して二、三カ月が経つ。埃の着いたショーウィンドーの奥はがらんどうで薄暗い。
 本町通りの交差点の横断歩道は赤信号である。
 信号待ちをする人は私の他にも数名いる。うち、携帯電話を掛けている人が二人。両方とも示し合わせたように腰に手を当て、大胆なポーズで電話している。地球防衛軍が敵撃退の快挙を本部に報告しているかのようである。一人は快活に笑っている。一人はしきりに相槌を打っている。こういう姿を人前に晒して恥ずかしくない世相を創ったのだから、携帯電話は偉大である。
 私はさらに自転車を走らす。

 松本駅に到着。
駅前の整備が終わったばかりである。清潔で無駄が無く、その分面白みがない。駅としての味わいを出すには、これから数年がかかろう。
 自転車を駐車場に入れる。およそ自転車に乗りそうにない老人が出てきて、一日百円だと言う。「二日」と私は答える。一泊の旅をするのだから二日分だ。しかも今回はひとり旅なのだ。年中生活費を稼ぐために忙殺される日々の中で、ようやく得た特別休暇である。通勤でごった返す早朝の街が心地よく目に映るのも、多分にそうした事情があるからなのだ。そういった万感の思いを込めて「二日」と言ったのだが、自転車置き場の老人は、罰金でも課すかのように、「二百円」とぶっきらぼうに言い返した。
 日常は非日常に対し常に無愛想である。

 特急電車は長野市に向かう。
 特急の割には駅のない所で一時停車したりして、歩みは決して速くはない。車窓にはざんばらに髪を振り乱したような枯れすすきが映り、そこここには残雪も見え、およそ春が近付いている様子はない。
 乗客たちはみな静かである。
 私は結婚して家族がある。今までも、知人に会うなり、恩師を訪ねるなりの理由で一人家を出たことはある。しかし今回は誰に会うのが目的でもない。宿も取っていない。到着地の下調べすら碌にしていない。どうにでも計画変更が可能な旅である。こういうことをするのは何年ぶりであろうか。なぜ、今、一人旅なのか。何を求めて旅するのか。そもそも、一人旅など許されるのか。それらの自問に自答するには、もう少し歩き疲れた後でなければならないであろう。
 車窓の景色はなかなか晴れない。

(つづく予定)
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戸隠冬紀行②

2012年05月30日 | 紀行文
 長野駅で下車。新幹線を迎え入れるにふさわしい大きな駅である。
 観光案内所に入り、戸隠神社への行き方を尋ねる。目的地は戸隠。出発前夜に眠い目を擦りながらパソコンを眺め、四、五分で決定した旅行計画である。戸隠と言えば、最近巷で騒がれている。パワースポットがどうとか、こうとか。あまり詳しくは知らない。ああも騒がれると逆に敬遠したくなるのが私生来のひねた根性であるが、今回はとにもかくにも、実に久方ぶりの休暇である。長い刑期を終えて娑婆に出てきた囚人のような解放感と期待値である。大きな失敗はしたくない。ある程度見どころのあるところに行きたい、という安全志向とひねた根性が葛藤。安全志向が勝ちを収めたのである。まあ、あれだけ騒がれるには何かしらあるのであろう。火のない所に煙は立たない。
 ところが案内嬢の話を聞くと、神社と言っても、大きく分けて宝来社、中社、奥社の三社からなる集合体であり、その規模は私の想像をはるかに超えて大きいことを知った。おまけにメインである奥社は冬期ゆえ、バスがそこまで行かないという。車なしで行きたければ、中社から三十分くらいかけて歩いて入口まで辿りつき、そこからさらに三十分以上、参道を歩かなければならない。ただし積もった雪をかいてないので、歩行はかなり困難を極める。靴は何ですか? え? 革靴? だったら、滑るかもしれませんねえ。
 思い起こせば弥生三月、我が街松本は春の兆しを感じ始める陽気であるが、戸隠は冬の真っ只中である。少し頭を働かせれば、当然思い至ることである。その地を目指す本日の私の旅装は、デニムに通勤用の合皮の革靴。こういう場当たり的でいい加減なところが、私の人生を今一つぱっとしないものにしているのであろう。
 私は少しだけ青くなりながら戸隠行きのバスに乗り込んだ。

 バスは行く。ぐんぐん行く。二十人近くいた乗客も、善光寺を過ぎると三分の一。道路は高架となって山を登り、そのまま宇宙まで飛び出しそうな気配で上昇していく。熱く感じるほどだった座席下の暖房もいつの間にかひやりとした風に変わり、車窓の風景は残雪とは言えないほどの積雪量を見せてくる。トンネルを一つ抜けたら、川端先生の名言通り、完全な雪国となった。スキー場らしきものを一つか二つ通過する。スキー場?

 薄曇りの戸隠は、未来永劫、ここには観光に来て楽しむものなぞ何一つないぞ、と言わんばかりの峻厳な表情で、能天気な旅人を迎え入れた。
 中社宮前にて下車。中社ですでに雪が積もっている。正面の石段はとても上がれない。わき道を、雪で靴が滑らないように用心しながら上がる。私の他には、大学のゼミ仲間のような集団がわいわいと参詣していた。なるほど古い神社である。しかし学生が七、八人も連れ添って訪れる観光地にはとても思えない。早々に参拝を済ませて降りる。
 その足ですぐ近くの『うずら家』というそば屋の暖簾をくぐる。狭い階段を上がって二階席に通される。なかなかの賑わいである。この冬場でも、参拝客は多いのだ。隅の席に陣取り、ようやく人心地つく。ざるそば一枚と、表の張り紙で自慢していたので、天婦羅を注文する。
 しばらく思案した末、日本酒を冷やで追加注文する。午後は奥社も探訪する予定である。飲酒は後回しにすべきだという良心の声が聞こえなくもなかったが、気分に従うのも旅の掟、と妙な理屈を捏ねて、良心とやらを片隅に追いやってしまった。
 『豊香』という諏訪地方の地酒を試す。名の通り風味豊かであり、なかなかに旨い。天婦羅も店が自慢する通り上等に揚げてある。すっかりいい気分になって、仲居さんを捉まえ、奥社までの生き方を尋ねる。
 前の道をただまあっすぐ進めばよろしいですよ。ええ。奥社の入口に着きます。え? はあ、そうです、そこからは長靴でないと歩けません。「長靴?」と私は驚いて聞き返す。長靴なんて、長野駅前の案内嬢もそこまでは言わなかった。酔いが一気に醒める思いをしていたら、彼女は、奥社入口に一件あるそば屋で長靴を貸してくれるはずだと言う。なるほどそれはありがたい。「ふうん。しかし、みんな長靴を履いてまで参詣するんですね」ええ、何だかいろいろ話題になってからね。奥社のご神体は冬の間は中社に移してあるから、あそこには今行っても、何もないんですけどね、と、つけ加えられた。それこそ仰天の事実である。では人々は何のために冬場に参詣するのだろうか? それとも、みんなこの中社で終わって、奥社までは行かないのだろうか? ほろ酔い加減の頭ではよくわからない。深く考えたくもない。まあそれなら、飲酒参拝も大っぴらに許されるわけだと都合のいい結論をつけて、私は席を立った。
 宿坊を幾つか訪ねて、一泊できるところを探す。日帰り客が多いのか、それに冬場という事情が重なってか、本日休業の札を掲げた所が多い。四件目の『大西』にして、ようやく一泊の許可を得ることができた。フロントで声を張り上げて何度も案内を乞うと、婆さんが出てきて、しばらく思案顔に私を眺めていたが、まあ、いいでしょう、と請け合ってくれたのだ。この婆さんがまあ、よくないですと言ったら、私はこの晩、路頭に迷っていたかも知れない。
 リュックを部屋に置き、日が沈まないうちにとすぐに出発する。向かうは奥社。

 道路をひたすら北上する。左右の路肩には、除雪された雪が胸の高さくらいまで固まり、その奥に広がる森の景色もまったくの雪景色である。行き交う車は極めて稀。歩くものに至ってはまったく私一人である。この季節はバスが無いので、皆マイカーなのであろう。見上げれば曇天、見渡せば枯葉一つない寂寥とした白樺林。木立の向こうには、冷凍保存されたような戸隠連峰を仰ぎ見る。天涯孤独とはこういう状況だろうかと思いながらひたすら歩を進める。
 
 何を求めて自分は旅に来たのか、と考える。自由、か。自由とは、こうして薄暗い空の下を一人とぼとぼ歩くことなのか。それは心地よくもあり、寂しくもある。誰にも監視されない自由。しかし誰にも見守られない孤独。それにしても、と私は前と後ろを交互に見渡す。人も車も通らない。不気味なほどに静かである。出会い。やはり出会いがなければ。旅とは出会いであり、出会いとはつまるところ自由ではないか。
 私は歩きながら路肩の雪を撫でる。
 出会いとはしかし、そんなに大そうなものなのか。どんな出会いが期待できるのか。人はそもそも、人を満たすことができるのか。
 一台の車が背後から現れ、私を大きく避けて追い越し、排気ガスの臭いを残して去っていった。
 人は人を満たすことができるのか。否。否。できるはずがない。人を求め、人を愛し、人に癒され、ときに人から至福感を与えられはしても、それらはみな、頂点に達した噴水の飛沫、すぐに落下していく。不信と不安にさいなまれ、人を疑い、人に傷つけられ、人を傷つけ、終局人に悩むようになる。人に期待すれば、必ず期待外れの部分を見出して裏切られたと憤る。たとえ期待通りだったとしても、新しい玩具を手にしたよりもすぐに飽きを覚え、もっと違う何かを、もっと違う刺激を、もっと違う出会いを、と呪われたように独り言をつぶやきながら彷徨し始めるはずだ。
 背後からエンジン音が聞こえ、車がまた一台、私を追い越して過ぎ去っていく。
 いや違うぞ、という声が、心の反対側から聞こえてくる。人は人によってしか満たされない。ところで、私が歩いているのも反対側だった。本来右側通行すべきところを左側通行していた。道理で、さっきから追い越す車がどれも迷惑そうに弧を描いていたのだ。普段車ばかり運転しているからこういう勘違いをしでかすのだ。
 自省しながら白線をまたぐ。まあ、この大自然の只中では、回虫みたいに細く伸びるこの道のどちらを歩こうが、自然はまるで気にしないであろう。
 そうそう、人は人によってしか満たされない。まさにその通り。今回の旅だって、いろいろ鹿爪らしいことを言ってみても、結局、新たな出会いを求めているのではないか。心のどこかが堪えがたく寂しいから旅に出たのではないか。とすると、家族ある身としては結構ひどいことを自分はしていないか。私は彼らを、私を待つ人たちを、裏切ろうとしているのか。
 次第に背中が汗ばんできた。コートのジッパーを下ろす。
 私はなぜ、一人旅を選んだのか。
 リセットだ。リセットをするためにここに来たのだ。一年中仕事に忙殺され、何のために何をなすべきかを見失いそうな気がしたから、自分のやってきたことと、今後自分がやり続けるべきことをじっくり見つめ直すために旅に出たのだ。それに、おそらく肉体的によりも精神的に蓄積した慢性疲労を、五体からしっかりこそげ落とすために、電車に飛び乗ったのだ。
 決して裏切りや逃避ではない。もちろん。そうだ。私は家族を愛している。
 コートを脱ごうと袖を外しかかったが、冷えた汗を撫でる風が冷たいので、思い直した。
 リセットだ。これは私が、帰還後再び元気良く仕事を始められるための、一年に一回のリセットの旅だ。
 それでこんなうそ寒い光景の道を、一人とぼとぼ歩いているのか?

(なんとか続く予定)
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戸隠冬紀行③

2012年05月30日 | 紀行文
 道を間違えたかと不安に襲われ始めたころ、奥社入口に着いた。
 なるほど、一面雪景色である。山門から真っすぐに伸びる参道も例外ではなく、聞いてきた通り、除雪作業を一切受け入れていない。山門の前にそば屋が一軒見える。これも『うずら家』の情報通り。見れば、札が貼ってある。長靴の貸し出し、半日二百円、一日三百円。長靴のみならず、スノーシューやノルディックスキーの貸し出しまである。ノルディックスキー?
 長靴を半日借り、雪の上へ歩を進める。 
 雪の表面は、何人もの足で踏み固められている。深さは推し量りがたい。ときどきくるぶしまですっぽりはまることがあり、長靴の有難さを思う。参道はどこまで見渡しても真っすぐである。両脇は冬木立が視界を覆っている。道筋は明瞭である。私は一歩一歩、雪を踏みしめて歩く。
 遥か前方に人影が現れる。若者四人組である。観光客というのは、マスコミが取り上げさえすれば、こんな雪深いところまで足を伸ばすのである。つくづくもの好きな人たちである。自分のことを差し置いて言えば。
 四人組は近づき、私とすれ違い、通り過ぎていった。するとまた、前方に人影が点となって現れる。まるで順番を待っていたかのようだ。今度は男女二人組。近づき、すれ違う。日本酒がようやく回り始めたのか、旅の高揚感からか、気がつけば、私は彼らに声を掛けていた。
 「こんにちは」
 「こんにちは」
 向こうも元気よく挨拶を返す。
 また人影。今度は外国人男性二人連れである。二人とも白人で、一方は太っていて、一方はそれほど太っていない。どちらもサングラスをしている。白人の二人連れというのはだいたいこのパターンである。私は敢然と歩を進めながら、彼らとすれ違う際には、ハローではなく、絶対にこんにちはにしてやろうと、心に決めた。彼らはこの国に興味を持ち、この国を旅しているのだ。英語で挨拶されるよりは、日本語の挨拶を見せられた方が絶対に喜ぶであろう。いや喜ぶ如何にかかわらない。ここは日本である限り、日本語で挨拶すべきなのだ。
 たかが挨拶にかくまでの意気込みを抱き、私は彼らとのすれ違いざまに「こんにちは」と声を掛けた。
 二人組は照れたような笑顔を見せ、頷き、去っていった。挨拶を返さなかったところを見ると、どうも日本語をあまり勉強してこなかったらしい。旅先の国の挨拶言葉くらいは練習して来るべきだ。それにしても、奥社はまだかしら。
 ようやく着いたかと思った通用門は、奥社と奥社の入口の中間に位置する随神門であった。
 いまだ道半ば。仰げばまだまだ先がある。道の左右には、樹齢を数世紀数えなければならないような立派な杉が連なっている。視界はさらに狭められる。両脇にずらりと並ぶ大樹たちはまるで、捧げ銃をした巨大な護衛兵たちである────彼らが護るのは、もちろん我々旅人ではない。我々無遠慮な侵入者から、神殿を護るのである。
 さらに歩を進める。何だか様子がおかしい。道は緩やかにうねり始め、勾配がつき、いよいよ雪山登りの観を呈してきた。息が切れる。体が汗ばむ。どうも一合のひや酒が本格的に効き始めたらしい。
 ぜいぜい言いながらがむしゃらに歩いていたら、親子三人連れに追いついた。赤いダウンジャケットを着た、やんちゃな少年時代の面影が抜け切れていない父親と、おしとやかさの見本のような母親と、おさげ髪の女の子。
 「マユも杖を持つ。杖を持つからマユに貸して」
 杖とは父親が持っている長い木の枝のことである。
 「手にとげが刺さるから用心するんだよ。転んだらすぐ手を離すんだよ。とげが刺さるから。ほら、転んで目を突いちゃだめだよ」
 父親はとんでもない用心を強いる。娘が可愛くてしょうがないのである。
 雪道はいよいよ急勾配に、階段状になってきた。しかしこんな幸せ家族が登っているのだから、もちろん私に登れないはずはない。私は息切れを悟られないように挨拶をして彼らを追い越し、ヒマラヤの羊飼いさながらにぐんぐん登っていった。
 最後は冗談かと思われるほどの坂道を、どこかの栄養飲料のコマーシャルさながらに一息に駆け上がり、ついに奥社にたどり着いた。
 二千年の歴史を持つと言われる戸隠神社、その中でも最も山中に位置する、岩戸伝説の天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀る奥社。
 私はついにたどり着いたのだ。とは言っても、一向に達成感のある光景ではない。鳥居は四つん這いにならないとくぐり抜けない状態、奥社の神殿に至っては屋根まで雪の中である。これではご神体を冬の間移転させるわけである。私は百メートル走を立て続けに四本走らされた中学生のように全身で息を切らし、雪の上に大の字に寝転がった。
 空も山も、全てが白い世界である。死のことを、何となく思う。
 生きるとは、死に場所を探し求めることではないか。すると旅とは、潜在的に臨終の地を選ぶ行為か。旅に生き、旅に死すとはそういうことか。ひょっとして、旅そのものが、日常の自分を葬り去る儀式なのではないか。死の仮想体験。馬鹿馬鹿しい。しかし、この冷たい無の静けさは、妙に心を落ち着かせる。

 親子三人連れが遅れて登ってきた。おさげ髪の女の子は相変わらずべちゃべちゃとしゃべり続けているが、息の切れている様子はない。こしゃくな娘である。
 雪に埋もれた神社を見下ろす位置から、三人手を合わせる。
 「お友達がたくさんできますようにってお願いしなさい」と父親。
 「お友達がたくさんできますように」と娘。
 四月から小学校に上がる娘なのであろう。至極平和な家族である。死闘を終えたボクサーのように肩で息をしている私を残して、彼らは来た道をまた下っていった。
 私は一人、虚無の世界に残される。
 四半時はじっと景色を見つめていたろうか。  
 膝に手を当てて立ち上がる。私も下山の途につかねばならない。
 
 (つづく)
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戸隠冬紀行④

2012年05月30日 | 紀行文
 帰路は往路よりもずっと楽である。雪上に散る杉葉を踏みしめる音だけが、時折かすかに耳元を賑わす。陽は差さないが、野原はぼんやりと明るい。
 何組かの参拝客とすれ違う。ノルディック中の集団も林間に見かけた。ノルディック。なるほど、いろんな楽しみ方があるらしい。
 私は歩きながら考えに耽る。
 現代人は非現代を求めている。ご神体すらない、雪に埋もれた神社に自分はなぜ行ってみたのか、また少なからぬ人々がなぜ同じような行動をとるのか、そこを突き詰めると、結論はそういうところに行きつく気がする。現代人は非現代に惹かれている。では、非現代とは何か。古さ。素朴さ。懐かしさ。自然。悠久な時の流れ。原始的な活動───例えば、道なき道を歩くような。神秘。現代が失ってしまった何か。
 なるほど。それならば、現代とは何か。これがなかなか難しい。
 
 ふと気紛れを起こし、数百年の樹齢を持つ大木の肌に手で触ってみる。温かい。いや、温かい気がする。不思議に思い、別な樹に次々に触ってみるが、やはり同じである。温もりを感じる。それも、樹齢が経ったものほど温かく感じる。試しに神門の柱にも触ってみたが、これは冷たかった。木材として切り倒され加工された時点で、温もりは消えるのである。私は少しく感動した。

 現代とは、よくわからない。その渦中に生きているが故に。水に泳ぐ魚に水が見えないのと同じく、現代に生きて現代に対する見通しはさっぱり利かないが、しかし、現代とはあえて言うなら、生きている樹が温かい、といったごく身近な現象に気づかなくなっていくことではないか。我々が靴を履き、道路を造り、都会で暮らし、テレビやパソコンの画面にくぎ付けになってさまざまな情報を得ようとあくせくした結果が、そういうことなのではないか。

 奥社入口まで戻ってきた。長靴を借りたそば屋の看板を改めて読むと、『なおすけ』とある。なかなか小奇麗な店である。長靴を返すついでに店に入り、鴨南蛮とビールを注文する。他に客は、七十に近いのではなかろうかと思われる男性が一人。鎖付きサングラスにショッキングピンクをあしらったウィンドブレーカーを着こんで、コーヒーを飲んでいる。聞くと、毎年ノルディックに来ているらしい。元気溌剌の老人である。
 現代に生きながら非現代を享受する、豊かさかな。
 夕刻に店を出て、来た道をまた三十分かけて引き返す。少し肌寒さが増している。長い帰り道も、もちろん、歩いているのは私一人であった。
 中社帰着。一件だけある温泉場に歩いて行き、旅の垢を落とす。

 宵闇が降りる頃、『大西荘』に戻る。浴衣に着替え、二間をつなげたがらんどうの空間に大の字になる。 
何もすることがなくなった。

 食事に呼ばれ、一階に下りる。長机が無愛想に並び、研修所にありそうな食堂である。畳敷きの広間もあるのだが、今夜は地元の消防団の会合があって使えないのだ。そのことはすでに『なおすけ』のマスターから聞いていた。彼自身が消防団員で、私が宿泊する宿名を告げたら、今夜そちらでまたお会いするかも知れませんよと教えてくれたからだ。狭い集落である。
 宿泊客は私一人かと思っていたら、もう一人いた。女の人である。
 別々の長机に同じ方向を向いて座るよう膳が用意されているので、女の人の斜め後ろに座らされた私からは、彼女の背中しか見えない。向こうも一人旅なのだろうか。食堂に入ってきた私を見ると小さく会釈して、あとはそのまま背中を見せたきりである。
 静かに食事は進む。
 女性は決して振り向かない。私はちらちらと女性の背中を眺める。私と同じくらいの年齢と推察される。慎ましさを形に表したような後ろ姿である。首筋には凛とした艶がある。旅の出会いとドラマというものの可能性についてひとしきり考えさせられる。
 これがせめて斜向かいででも向き合っていれば。声を掛けて旅先の会話の一つくらいできるのだが。新入社員のセミナーじゃあるまいし、どうして同じ方向を向いているのだ。おまけに宿坊の子どもたちが現れた。似たような顔が三体。長男は壁際に設置されたパソコンを使い、次女は脇からそれに横槍を入れ、三女は女の人と顔見知りらしく、しきりに話しかけては彼女の食事の邪魔をし始めた。おかげで旅のドラマの可能性は永遠に失われた。
 旅のドラマ? いやいや、私には家族がある。何を妄想しているのか。妄想と言えば、旅それ自体がそもそも妄想の産物ではないか。旅人という妄想上の立場に自らを置き、道行く先の何でもない風景や出会いに妄想を膨らませ、思い出とすることで旅という妄想のアルバムを完結させる。
 考えてみれば、安価なアミューズメントである。
 入口の扉が開いたと思ったら、『なおすけ』のマスターが顔を出し、私に挨拶してきた。私はできるだけにこやかに挨拶を返した。十分楽しんでいるよ、という意思表示である。
 半時もかけずに食事を平らげると、箸を置き、席を立った。女性とはまた軽く会釈を交わした。改めて横顔を見れば、目鼻立ちの整った、美しい人であった。
 私は一人、すごすごと部屋に帰る。

 部屋にはすでに布団が敷いてある。だだっ広い部屋に一人分の布団は、むしろ哀愁を誘う光景である。布団の上に寝転がる。時刻は午後七時。
 依然として、することがない。
 それにしても広い部屋である。今回の私の旅の持ち物を全部広げても、大人三、四人が横になるスペースが十分残るであろう。
 まだ眠くない。何しろ午後七時である。
 寝返りを打ち、頬杖を突く。床の間のテレビが、今か今かと出番を待つかのように黒々とした顔を見せて鎮座している。私はテレビのリモコンに手を伸ばさない。手を伸ばしは、しない。今夜はテレビを一切観ないつもりである。何しろせっかく旅に出たのだ。しみじみとした旅情を、東京のタレントたちの黄色い声で汚されるわけにはいかない。新聞は駅のキヨスクで買い、行きの電車の中で読んだ。がしかし、テレビは駄目だ。だいたいテレビなんて観ても後悔するだけである。平生もほとんど観ない。教育上、子どもに見せたくないから、自分たち大人も観ない。そうやって普段、大人づらして禁欲している分、一人きりになる機会があれば、くだらない番組を思う存分観たいという誘惑が、遠巻きに飛び回る蚊のように私の心を騒がせる。蚊は耳元まで近づいてきて囁く。ボタン一つ押せば、少なくとも二時間くらいはあっという間に潰せるぜ、と。
 現代人はすべからくこの誘惑と闘わなければならない───私は再び、現代と現代人についてひとしきり考え始めた。この誘惑とは何か。片時も一人きりにならなくて済む、という誘惑である。じっと一人で考え事でもしようと喫茶店のドアを押しても、コーヒーが運ばれていざ空白の時間が出来ると、手はポケットの携帯電話に伸びていつの間にか親指でボタンをいじっている。家に帰れば真っ先にテレビのスイッチをつける。テレビが面白くなかったらパソコンを立ち上げる。テレビもパソコンもない場所ではイヤホンを耳に当てて音楽をかける。何かがある、という状況を我々はほぼ目覚めている間中作っている。そうすることで、何もすることがない、という寂寥感を免れているのだ。
 我々は人生という手持ちの時間を、くまなく何かで埋めようとしている。それも、多くは、さほど楽しくもなく、苦しみもなければ、感動もないことで。
 カーテンの外は車の通る音もしない。
 罠。これはひょっとしたら、何かの罠ではないか───私は顎に両の拳を当てて考える。罠とすれば───例えば、我々民衆を飼いならすための罠。我々は画面に視野を拘束され、洪水のように注ぎこまれる情報に思考を奪われ、時間を「健全に」、「大人しく」、「消費社会的に」潰すことで、いつしか、大きな行動、大胆な行動、冒険的な行動が採れない状況に陥っている。社会に対するその鬱屈した気持ちは、馬鹿げたテレビ番組を観て晴らそう! 欲求不満はパソコンをいじっていたらだいたい解消するよ。だから独りであまりそう真剣に考え込まないで。ほらほら、あなたの携帯電話が鳴っている!・・・言葉に表出しないこれら無数のメッセージを日々受け取ることで、われわれは見えない権力に操られているのではないか。確かええと、ミシェル・フーコーとかいうフランスの坊主頭もそのようなことを言ってなかったか知らん。
 私はテレビのリモコンを握り、ボタンの位置を確かめ、元に戻す。松本駅で買った新聞のテレビ欄を広げ、この時間帯にどうしても観たい番組がないことを確認して、なぜか安堵の溜め息をつく。
 階下から声が聞こえる。消防団の宴はたけなわである。
 私は寝返りを打ち、天井を見上げる。
 さっきから、現代がどうとか現代人かこうとか大風呂敷を広げたようなことを豪語しているが、どうやらこれは、現代の問題なんかではない。ひっきょう、私一個人の問題である。私が、問題である。私はなぜ落ち着かないのか。何をしていても何をしていなくても、何かしら物足らなさを感じるようになった。それはなぜか。
 なぜと問うのは、なぜか。
 畜生。私は寂しいのか? 
 私は拳を突いて布団の上に立ち上がる。大きな影が部屋に伸びる。私は窓辺に寄り、カーテンをめくって闇を睨み、布団の上に戻ってきて浴衣をはだけて座りこむ。
 意味だ。意味だ。意味だ。結局、意味が必要なのだ。この男は。自分のとる行動すべてにおいて、費やす時間すべてにおいて、見るもの聞くもの、遊ぶもの、金をかけるものすべてにおいて、私は意味を求めたくなるのだ。意味のないことはしたくない。無意味なことで時を費やしたくはない。沈黙とは、まさに無意味である。日常は何かと忙しいが、それだってすべからく無意味に思えてくる瞬間があり、その瞬間の到来に怯えている。意味のある旅に出ようと電車に飛び乗ったはよいが、ただこうやって宿に寝ることに意味があるのかと自問すれば、それだけでもう心落ち着かなくなる。意味だ。しっかりと充足できる意味を見いだせないと、そこに安住できない性格になったのだ。
 これは病気ではなかろうか?
 ひるがえって見れば、もう二十年近くも前になろうか。大学時代に一年間休学して、私は日本国内を放浪した。辿り着いた先の北海道は札幌の公園の一角で、私は一人ベンチに座り、長旅の疲労と孤独にうつむいていた。そのとき、陽の当たる赤レンガ敷きの地面に一匹の蟻がうごめくのを見つけた。餌を運んでいたのだろうか、頼りない足取りで歩く蟻を眺めているうちに、私は言いようのない高揚感を覚えた。ああ、美しさとはこのことだと思った。美しさに高尚な意味なんてない、そもそも存在するもの全てに大した意味なんてない、まさにここにこうしてあること、それが美しさだと私は悟った。あのときの認識より、今の私の認識は後退したということか? それとも、あのときでさえ、蟻一匹のうごめきにすら意味を見出そうとした、あれは私の無意味恐怖症ゆえの一発症事例に過ぎなかったのか?
 どこまで、意味の行列に追われ、またそれを追いかけ、この男は生きてきのだ?

 やがて私は眠りに落ちた。


(あとちょっとつづく)
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戸隠冬紀行⑤

2012年05月28日 | 紀行文
 翌朝は曇天であった。短い一人旅に終止符を打ち、帰宅する日である。
 宿を出て、早朝のバスに乗る。戸隠は全体が霧に覆われている。宝来社で途中下車して、神殿を見る。これで三社全部を一応拝観したことになる。
 再びバスに乗り込もうと停留所に行ったら、三十前半とおぼしき青年がベンチに腰掛け、缶コーヒーを口に含んでいた。寝不足のようでもあるし、じっと考え込んでいるようでもある。縁の太い眼鏡に、無精ひげの若干浮き出た細い顎。見るからに大学関係者である。
 私は少しく興味を覚え、ベンチの隣に腰かけ、旅人同士の挨拶を交わした。訊けば、彼は名古屋の大学の講師で、ゼミの研修で戸隠を訪れたとか。今日は名古屋に戻るらしい。専門は土木。「土木と言ってもですね」と彼は微笑みながら弁明を入れた。「一般の人が想像するような、道路を造ったり橋を掛けたりとかいったものではないんです」
 では何を研究するのかと重ねて私が訊くと、都市計画に関することだという答えが返ってきた。
 バス停の前の道路はほとんど車が通らない。向かいの木立は霧のため、うっすらと白い。
 都市計画ならば、例えばどんな街づくりを理想とするのか? 私はさらに尋ねた。
 「神社です。中心となるのは」
 神社?
 私は身を乗り出した。詳しい説明を求める私に対して、彼は大学の講師らしく、実にわかり易く説明してくれた。もっぱら私が質問し、彼がそれに答える、という形式で、我々の会話はバスに乗り込んだ後も、通路を挿んで続いた。
 バスは霧の戸隠を蛇行しながら下山していく。標高が低くなるにつれ、霧は徐々に晴れてくる。さまざまな谷間がさまざまな春先の表情を見せる。
 彼の話を要約すると以下のようになる。
 街づくりに関する彼の考え方に大きな影響を与えたのは、昨年の3・11の東北大震災による津波の被害であった。あの巨大な津波は、いくつもの町を丸ごと消滅させた。その一方で、津波が到達しなかった高台がいくつか存在した。興味深いことに、古くからある神社はだいたいそういう高台に位置していたという。つまり、今回の津波で近現代の家屋の多くが流されても、古い神社は流されずに残っているのである。
 昔の人は、経験で、どこまで津波が来るかを知っていた。そして津波の来ない場所に神社を建立することで、そこをいざというときの避難場所として確保したのだ。神社には信仰面だけではなく、共同体の危機管理上でも大きな意義があったことになる。神社は大概、伐採を禁じた森を周囲に持っていたので、生態学的にも多様な生物の保存場所となる。神社はまさに、ノアの箱舟的存在なのだ。現代の街づくりに、古来の神社の存在を活かせないだろうか───そういったところが、彼の論旨であった。
 神社のような「非科学的な」存在を持ちだすので、学界では異端と見なされ、ほとんど受け入れてもらえない。どうしても神がかり的に見られるのが悔しい、と彼はこぼした。しかし彼らを説得するには、とにかく実証が足りない、と。神社がどれだけ実際面で役に立つかという科学的実証例が足りない。
 そう語る彼の顔は、しかし活き活きしていた。淡々と語りながらも見つめる一点は明らかに未来に向けられていた。
 そうか。私は目が覚める思いがした。旅に出るのは感傷に浸るためだけではない。見聞を広め、学ぶためなのだ。普段学べないことを学べるチャンスなのだ。当たり前のことだが、私はそこに盲目であった。人は旅に出て賢くならなければいけない。どんな知識を得るかは各自の選択と偶然に委ねられるにせよ。そして旅から帰宅してのちも、旅先と同じ行動力でもって、学んだことを活かし、何かを変えていかなければならない。小さなことであれ、根本的なことであれ。行動の結果がどうなるかはわからない。それこそ、人生においてどんな決断をするにせよ、それが正しいと確信するには実証が足りない。しかし、我々の眼前にはすでにしてつねに、幾つもの現実問題が横たわっている。旅はそこからの逃避ではなく、そこへ立ち向かうための助走でなければならない。少なくとも、帰宅を前提とした旅はそうだ。期限のある旅はそうだ。
 学ぼう。学び、考えよう。久しぶりに大学人の空気に触れ、私はうきうきして来る自分を感じた。彼の話は実に面白く、前の席に座っていた地元の初老の男性が話に割り込んでくるほどであった。

 長野市の善光寺前で私はバスを降り、彼らに別れを告げた。善光寺はそろそろ降り出した雨に打たれ、淡い色に沈んでいた。私の旅は終わりに近づいている。善光寺を観て、ついでに美術館を一つ覗けば、私の乗る松本行きの電車が出る夕刻になろう。松本に帰りつけば、また家庭と仕事場を往復する日々が、私の一人旅なぞ無関心に淡々と始まろう。未解決の問題は依然として未解決のまま、悶々とした事柄は依然として悶々としたまま、そこに存在し続けているだろう。
 それでも私は、この旅に出る前より少しは力強く、歩き続けることができるのではなかろうか。
 私は傘を握り直した。
 旅は期待に始まり、希望に終わる。まあ、それでよしとしようではないか。

 (おわり)
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