長野駅で下車。新幹線を迎え入れるにふさわしい大きな駅である。
観光案内所に入り、戸隠神社への行き方を尋ねる。目的地は戸隠。出発前夜に眠い目を擦りながらパソコンを眺め、四、五分で決定した旅行計画である。戸隠と言えば、最近巷で騒がれている。パワースポットがどうとか、こうとか。あまり詳しくは知らない。ああも騒がれると逆に敬遠したくなるのが私生来のひねた根性であるが、今回はとにもかくにも、実に久方ぶりの休暇である。長い刑期を終えて娑婆に出てきた囚人のような解放感と期待値である。大きな失敗はしたくない。ある程度見どころのあるところに行きたい、という安全志向とひねた根性が葛藤。安全志向が勝ちを収めたのである。まあ、あれだけ騒がれるには何かしらあるのであろう。火のない所に煙は立たない。
ところが案内嬢の話を聞くと、神社と言っても、大きく分けて宝来社、中社、奥社の三社からなる集合体であり、その規模は私の想像をはるかに超えて大きいことを知った。おまけにメインである奥社は冬期ゆえ、バスがそこまで行かないという。車なしで行きたければ、中社から三十分くらいかけて歩いて入口まで辿りつき、そこからさらに三十分以上、参道を歩かなければならない。ただし積もった雪をかいてないので、歩行はかなり困難を極める。靴は何ですか? え? 革靴? だったら、滑るかもしれませんねえ。
思い起こせば弥生三月、我が街松本は春の兆しを感じ始める陽気であるが、戸隠は冬の真っ只中である。少し頭を働かせれば、当然思い至ることである。その地を目指す本日の私の旅装は、デニムに通勤用の合皮の革靴。こういう場当たり的でいい加減なところが、私の人生を今一つぱっとしないものにしているのであろう。
私は少しだけ青くなりながら戸隠行きのバスに乗り込んだ。
バスは行く。ぐんぐん行く。二十人近くいた乗客も、善光寺を過ぎると三分の一。道路は高架となって山を登り、そのまま宇宙まで飛び出しそうな気配で上昇していく。熱く感じるほどだった座席下の暖房もいつの間にかひやりとした風に変わり、車窓の風景は残雪とは言えないほどの積雪量を見せてくる。トンネルを一つ抜けたら、川端先生の名言通り、完全な雪国となった。スキー場らしきものを一つか二つ通過する。スキー場?
薄曇りの戸隠は、未来永劫、ここには観光に来て楽しむものなぞ何一つないぞ、と言わんばかりの峻厳な表情で、能天気な旅人を迎え入れた。
中社宮前にて下車。中社ですでに雪が積もっている。正面の石段はとても上がれない。わき道を、雪で靴が滑らないように用心しながら上がる。私の他には、大学のゼミ仲間のような集団がわいわいと参詣していた。なるほど古い神社である。しかし学生が七、八人も連れ添って訪れる観光地にはとても思えない。早々に参拝を済ませて降りる。
その足ですぐ近くの『うずら家』というそば屋の暖簾をくぐる。狭い階段を上がって二階席に通される。なかなかの賑わいである。この冬場でも、参拝客は多いのだ。隅の席に陣取り、ようやく人心地つく。ざるそば一枚と、表の張り紙で自慢していたので、天婦羅を注文する。
しばらく思案した末、日本酒を冷やで追加注文する。午後は奥社も探訪する予定である。飲酒は後回しにすべきだという良心の声が聞こえなくもなかったが、気分に従うのも旅の掟、と妙な理屈を捏ねて、良心とやらを片隅に追いやってしまった。
『豊香』という諏訪地方の地酒を試す。名の通り風味豊かであり、なかなかに旨い。天婦羅も店が自慢する通り上等に揚げてある。すっかりいい気分になって、仲居さんを捉まえ、奥社までの生き方を尋ねる。
前の道をただまあっすぐ進めばよろしいですよ。ええ。奥社の入口に着きます。え? はあ、そうです、そこからは長靴でないと歩けません。「長靴?」と私は驚いて聞き返す。長靴なんて、長野駅前の案内嬢もそこまでは言わなかった。酔いが一気に醒める思いをしていたら、彼女は、奥社入口に一件あるそば屋で長靴を貸してくれるはずだと言う。なるほどそれはありがたい。「ふうん。しかし、みんな長靴を履いてまで参詣するんですね」ええ、何だかいろいろ話題になってからね。奥社のご神体は冬の間は中社に移してあるから、あそこには今行っても、何もないんですけどね、と、つけ加えられた。それこそ仰天の事実である。では人々は何のために冬場に参詣するのだろうか? それとも、みんなこの中社で終わって、奥社までは行かないのだろうか? ほろ酔い加減の頭ではよくわからない。深く考えたくもない。まあそれなら、飲酒参拝も大っぴらに許されるわけだと都合のいい結論をつけて、私は席を立った。
宿坊を幾つか訪ねて、一泊できるところを探す。日帰り客が多いのか、それに冬場という事情が重なってか、本日休業の札を掲げた所が多い。四件目の『大西』にして、ようやく一泊の許可を得ることができた。フロントで声を張り上げて何度も案内を乞うと、婆さんが出てきて、しばらく思案顔に私を眺めていたが、まあ、いいでしょう、と請け合ってくれたのだ。この婆さんがまあ、よくないですと言ったら、私はこの晩、路頭に迷っていたかも知れない。
リュックを部屋に置き、日が沈まないうちにとすぐに出発する。向かうは奥社。
道路をひたすら北上する。左右の路肩には、除雪された雪が胸の高さくらいまで固まり、その奥に広がる森の景色もまったくの雪景色である。行き交う車は極めて稀。歩くものに至ってはまったく私一人である。この季節はバスが無いので、皆マイカーなのであろう。見上げれば曇天、見渡せば枯葉一つない寂寥とした白樺林。木立の向こうには、冷凍保存されたような戸隠連峰を仰ぎ見る。天涯孤独とはこういう状況だろうかと思いながらひたすら歩を進める。
何を求めて自分は旅に来たのか、と考える。自由、か。自由とは、こうして薄暗い空の下を一人とぼとぼ歩くことなのか。それは心地よくもあり、寂しくもある。誰にも監視されない自由。しかし誰にも見守られない孤独。それにしても、と私は前と後ろを交互に見渡す。人も車も通らない。不気味なほどに静かである。出会い。やはり出会いがなければ。旅とは出会いであり、出会いとはつまるところ自由ではないか。
私は歩きながら路肩の雪を撫でる。
出会いとはしかし、そんなに大そうなものなのか。どんな出会いが期待できるのか。人はそもそも、人を満たすことができるのか。
一台の車が背後から現れ、私を大きく避けて追い越し、排気ガスの臭いを残して去っていった。
人は人を満たすことができるのか。否。否。できるはずがない。人を求め、人を愛し、人に癒され、ときに人から至福感を与えられはしても、それらはみな、頂点に達した噴水の飛沫、すぐに落下していく。不信と不安にさいなまれ、人を疑い、人に傷つけられ、人を傷つけ、終局人に悩むようになる。人に期待すれば、必ず期待外れの部分を見出して裏切られたと憤る。たとえ期待通りだったとしても、新しい玩具を手にしたよりもすぐに飽きを覚え、もっと違う何かを、もっと違う刺激を、もっと違う出会いを、と呪われたように独り言をつぶやきながら彷徨し始めるはずだ。
背後からエンジン音が聞こえ、車がまた一台、私を追い越して過ぎ去っていく。
いや違うぞ、という声が、心の反対側から聞こえてくる。人は人によってしか満たされない。ところで、私が歩いているのも反対側だった。本来右側通行すべきところを左側通行していた。道理で、さっきから追い越す車がどれも迷惑そうに弧を描いていたのだ。普段車ばかり運転しているからこういう勘違いをしでかすのだ。
自省しながら白線をまたぐ。まあ、この大自然の只中では、回虫みたいに細く伸びるこの道のどちらを歩こうが、自然はまるで気にしないであろう。
そうそう、人は人によってしか満たされない。まさにその通り。今回の旅だって、いろいろ鹿爪らしいことを言ってみても、結局、新たな出会いを求めているのではないか。心のどこかが堪えがたく寂しいから旅に出たのではないか。とすると、家族ある身としては結構ひどいことを自分はしていないか。私は彼らを、私を待つ人たちを、裏切ろうとしているのか。
次第に背中が汗ばんできた。コートのジッパーを下ろす。
私はなぜ、一人旅を選んだのか。
リセットだ。リセットをするためにここに来たのだ。一年中仕事に忙殺され、何のために何をなすべきかを見失いそうな気がしたから、自分のやってきたことと、今後自分がやり続けるべきことをじっくり見つめ直すために旅に出たのだ。それに、おそらく肉体的によりも精神的に蓄積した慢性疲労を、五体からしっかりこそげ落とすために、電車に飛び乗ったのだ。
決して裏切りや逃避ではない。もちろん。そうだ。私は家族を愛している。
コートを脱ごうと袖を外しかかったが、冷えた汗を撫でる風が冷たいので、思い直した。
リセットだ。これは私が、帰還後再び元気良く仕事を始められるための、一年に一回のリセットの旅だ。
それでこんなうそ寒い光景の道を、一人とぼとぼ歩いているのか?
(なんとか続く予定)
観光案内所に入り、戸隠神社への行き方を尋ねる。目的地は戸隠。出発前夜に眠い目を擦りながらパソコンを眺め、四、五分で決定した旅行計画である。戸隠と言えば、最近巷で騒がれている。パワースポットがどうとか、こうとか。あまり詳しくは知らない。ああも騒がれると逆に敬遠したくなるのが私生来のひねた根性であるが、今回はとにもかくにも、実に久方ぶりの休暇である。長い刑期を終えて娑婆に出てきた囚人のような解放感と期待値である。大きな失敗はしたくない。ある程度見どころのあるところに行きたい、という安全志向とひねた根性が葛藤。安全志向が勝ちを収めたのである。まあ、あれだけ騒がれるには何かしらあるのであろう。火のない所に煙は立たない。
ところが案内嬢の話を聞くと、神社と言っても、大きく分けて宝来社、中社、奥社の三社からなる集合体であり、その規模は私の想像をはるかに超えて大きいことを知った。おまけにメインである奥社は冬期ゆえ、バスがそこまで行かないという。車なしで行きたければ、中社から三十分くらいかけて歩いて入口まで辿りつき、そこからさらに三十分以上、参道を歩かなければならない。ただし積もった雪をかいてないので、歩行はかなり困難を極める。靴は何ですか? え? 革靴? だったら、滑るかもしれませんねえ。
思い起こせば弥生三月、我が街松本は春の兆しを感じ始める陽気であるが、戸隠は冬の真っ只中である。少し頭を働かせれば、当然思い至ることである。その地を目指す本日の私の旅装は、デニムに通勤用の合皮の革靴。こういう場当たり的でいい加減なところが、私の人生を今一つぱっとしないものにしているのであろう。
私は少しだけ青くなりながら戸隠行きのバスに乗り込んだ。
バスは行く。ぐんぐん行く。二十人近くいた乗客も、善光寺を過ぎると三分の一。道路は高架となって山を登り、そのまま宇宙まで飛び出しそうな気配で上昇していく。熱く感じるほどだった座席下の暖房もいつの間にかひやりとした風に変わり、車窓の風景は残雪とは言えないほどの積雪量を見せてくる。トンネルを一つ抜けたら、川端先生の名言通り、完全な雪国となった。スキー場らしきものを一つか二つ通過する。スキー場?
薄曇りの戸隠は、未来永劫、ここには観光に来て楽しむものなぞ何一つないぞ、と言わんばかりの峻厳な表情で、能天気な旅人を迎え入れた。
中社宮前にて下車。中社ですでに雪が積もっている。正面の石段はとても上がれない。わき道を、雪で靴が滑らないように用心しながら上がる。私の他には、大学のゼミ仲間のような集団がわいわいと参詣していた。なるほど古い神社である。しかし学生が七、八人も連れ添って訪れる観光地にはとても思えない。早々に参拝を済ませて降りる。
その足ですぐ近くの『うずら家』というそば屋の暖簾をくぐる。狭い階段を上がって二階席に通される。なかなかの賑わいである。この冬場でも、参拝客は多いのだ。隅の席に陣取り、ようやく人心地つく。ざるそば一枚と、表の張り紙で自慢していたので、天婦羅を注文する。
しばらく思案した末、日本酒を冷やで追加注文する。午後は奥社も探訪する予定である。飲酒は後回しにすべきだという良心の声が聞こえなくもなかったが、気分に従うのも旅の掟、と妙な理屈を捏ねて、良心とやらを片隅に追いやってしまった。
『豊香』という諏訪地方の地酒を試す。名の通り風味豊かであり、なかなかに旨い。天婦羅も店が自慢する通り上等に揚げてある。すっかりいい気分になって、仲居さんを捉まえ、奥社までの生き方を尋ねる。
前の道をただまあっすぐ進めばよろしいですよ。ええ。奥社の入口に着きます。え? はあ、そうです、そこからは長靴でないと歩けません。「長靴?」と私は驚いて聞き返す。長靴なんて、長野駅前の案内嬢もそこまでは言わなかった。酔いが一気に醒める思いをしていたら、彼女は、奥社入口に一件あるそば屋で長靴を貸してくれるはずだと言う。なるほどそれはありがたい。「ふうん。しかし、みんな長靴を履いてまで参詣するんですね」ええ、何だかいろいろ話題になってからね。奥社のご神体は冬の間は中社に移してあるから、あそこには今行っても、何もないんですけどね、と、つけ加えられた。それこそ仰天の事実である。では人々は何のために冬場に参詣するのだろうか? それとも、みんなこの中社で終わって、奥社までは行かないのだろうか? ほろ酔い加減の頭ではよくわからない。深く考えたくもない。まあそれなら、飲酒参拝も大っぴらに許されるわけだと都合のいい結論をつけて、私は席を立った。
宿坊を幾つか訪ねて、一泊できるところを探す。日帰り客が多いのか、それに冬場という事情が重なってか、本日休業の札を掲げた所が多い。四件目の『大西』にして、ようやく一泊の許可を得ることができた。フロントで声を張り上げて何度も案内を乞うと、婆さんが出てきて、しばらく思案顔に私を眺めていたが、まあ、いいでしょう、と請け合ってくれたのだ。この婆さんがまあ、よくないですと言ったら、私はこの晩、路頭に迷っていたかも知れない。
リュックを部屋に置き、日が沈まないうちにとすぐに出発する。向かうは奥社。
道路をひたすら北上する。左右の路肩には、除雪された雪が胸の高さくらいまで固まり、その奥に広がる森の景色もまったくの雪景色である。行き交う車は極めて稀。歩くものに至ってはまったく私一人である。この季節はバスが無いので、皆マイカーなのであろう。見上げれば曇天、見渡せば枯葉一つない寂寥とした白樺林。木立の向こうには、冷凍保存されたような戸隠連峰を仰ぎ見る。天涯孤独とはこういう状況だろうかと思いながらひたすら歩を進める。
何を求めて自分は旅に来たのか、と考える。自由、か。自由とは、こうして薄暗い空の下を一人とぼとぼ歩くことなのか。それは心地よくもあり、寂しくもある。誰にも監視されない自由。しかし誰にも見守られない孤独。それにしても、と私は前と後ろを交互に見渡す。人も車も通らない。不気味なほどに静かである。出会い。やはり出会いがなければ。旅とは出会いであり、出会いとはつまるところ自由ではないか。
私は歩きながら路肩の雪を撫でる。
出会いとはしかし、そんなに大そうなものなのか。どんな出会いが期待できるのか。人はそもそも、人を満たすことができるのか。
一台の車が背後から現れ、私を大きく避けて追い越し、排気ガスの臭いを残して去っていった。
人は人を満たすことができるのか。否。否。できるはずがない。人を求め、人を愛し、人に癒され、ときに人から至福感を与えられはしても、それらはみな、頂点に達した噴水の飛沫、すぐに落下していく。不信と不安にさいなまれ、人を疑い、人に傷つけられ、人を傷つけ、終局人に悩むようになる。人に期待すれば、必ず期待外れの部分を見出して裏切られたと憤る。たとえ期待通りだったとしても、新しい玩具を手にしたよりもすぐに飽きを覚え、もっと違う何かを、もっと違う刺激を、もっと違う出会いを、と呪われたように独り言をつぶやきながら彷徨し始めるはずだ。
背後からエンジン音が聞こえ、車がまた一台、私を追い越して過ぎ去っていく。
いや違うぞ、という声が、心の反対側から聞こえてくる。人は人によってしか満たされない。ところで、私が歩いているのも反対側だった。本来右側通行すべきところを左側通行していた。道理で、さっきから追い越す車がどれも迷惑そうに弧を描いていたのだ。普段車ばかり運転しているからこういう勘違いをしでかすのだ。
自省しながら白線をまたぐ。まあ、この大自然の只中では、回虫みたいに細く伸びるこの道のどちらを歩こうが、自然はまるで気にしないであろう。
そうそう、人は人によってしか満たされない。まさにその通り。今回の旅だって、いろいろ鹿爪らしいことを言ってみても、結局、新たな出会いを求めているのではないか。心のどこかが堪えがたく寂しいから旅に出たのではないか。とすると、家族ある身としては結構ひどいことを自分はしていないか。私は彼らを、私を待つ人たちを、裏切ろうとしているのか。
次第に背中が汗ばんできた。コートのジッパーを下ろす。
私はなぜ、一人旅を選んだのか。
リセットだ。リセットをするためにここに来たのだ。一年中仕事に忙殺され、何のために何をなすべきかを見失いそうな気がしたから、自分のやってきたことと、今後自分がやり続けるべきことをじっくり見つめ直すために旅に出たのだ。それに、おそらく肉体的によりも精神的に蓄積した慢性疲労を、五体からしっかりこそげ落とすために、電車に飛び乗ったのだ。
決して裏切りや逃避ではない。もちろん。そうだ。私は家族を愛している。
コートを脱ごうと袖を外しかかったが、冷えた汗を撫でる風が冷たいので、思い直した。
リセットだ。これは私が、帰還後再び元気良く仕事を始められるための、一年に一回のリセットの旅だ。
それでこんなうそ寒い光景の道を、一人とぼとぼ歩いているのか?
(なんとか続く予定)