釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

人と動物の住環境

2012-04-30 19:12:44 | 文化
今日は青空が見えない薄日の射す一日になった。どこへ出かけても、庭先に立っても、どこかから必ずウグイスの声が聞こえて来る毎日になった。これから夏まで釜石ではこの声が聞かれる。他の小鳥たちもこうして気温が上がって来ると、賑やかなさえずりを聞かせてくれる。近所を歩くだけで様々の色合いの花が目に入って来る。昨年の今頃はさすがにこうした春を味わう気分にはなれなかった。と言うより、余裕がなかった。むしろ、気が付けば春はいつの間にか過ぎていた、と言った感じだった。釜石の仮設住宅では、この連休中もいろいろとイベントが行われるようだ。都会へ出ている人たちも、今はたくさん釜石へ戻って来ているようで、食事のために入った店では、帰省した人たちを伴った家族連れでどこも一杯だ。他府県ナンバーの車もいつも以上に多いし、ちょっとした事故までいつもより多い。交通量が多くなったせいか、車の犠牲となったタヌキも多く見かける。北海道だと北キツネが車の犠牲になるが、釜石近辺ではタヌキが犠牲になる。タヌキはキツネに比べても動きが敏捷ではない。先日赤羽根峠下の山野草店へ行った時、峠を下って間もなく、車の中で娘と息子が「あ、猪だ」と叫んだ。通り過ぎた車を戻らせて、見てみると、日本カモシカだった。道路そばの崖にコンクリートを吹きかけた、その中間に作られた足場用のスペースにまだ若い日本カモシカがこちらを向いて立っていた。少しの間様子を見ていたが、すぐに姿を消した。日本カモシカを見たのはこれで二度目だ。以前は岩泉に片栗の花を見に行った時に、その片栗の群生する林の中に立っている日本カモシカを見た。その時は、家人が急に「こんなところに馬がいる」と言った声で振り向いてみると日本カモシカだった。春になって新芽を求めて道路際まで出て来ていたのだろう。ウィキペディアを見ると日本カモシカの分布域は京都府以東の本州、四国、九州となっている。しかし、東北にも日本カモシカは結構棲息している。少なくとも岩手県の人たちにとっては日本カモシカは珍しいものではない。比較的よく見かける動物だ。鹿も五葉山が北限だと言われるが、実際にはそれよりさらに北にも棲息している。むしろ鹿の場合は、数が増えているためさらに広く分布しているようだ。猪の方は北限が太平洋側が宮城県まで、日本海側が新潟県と言われていたが、近年はこちらも北上しているようで、山形県や岩手県南部でも捕獲された個体がいるようだ。温暖化のためもあるのかも知れないが、最も影響を与えているのは開発ではないかと思う。青森県の縄文時代前期中頃からはじまる三内丸山遺跡でも猪の骨が発掘されており、縄文時代の猪形土製品は北海道から近畿地方に分布していることからも、当時は北海道まで猪がいたものと思われる。その後の気候変動により、生態系が変わり、現在の分布になったのだろうが、昆虫類の北上のように気温の温暖化も一因ではあると思うが、動物の場合はそれ以上に開発による環境変化が大きく影響しているのではないかと思う。東北は開発が関東以南に比べてずっと少なく、植物や小動物もたくさん分布している。動物たちの環境はある意味で整っている。昨日も福島県沖や岩手県沖でM4以上の地震があった。こうした天変地異の現れる時期こそ人間の生き方をもう一度考える必要があるのだと思う。
庭の白花白根葵(しろばなしらねあおい)

夏日の春

2012-04-29 19:19:19 | 文化
春霞のかかったような晴れた日になった。大阪へ帰る息子を送って花巻空港へ向かった。連休のため283号線はいつもより車が多く、追い越しもままならない。結局、ぎりぎりの15分前に着いた。駐車場へは入らず、直接ターミナル前で息子を降ろして、娘だけが後を追って行った。ターミナル前でしばらく娘を待っていた。息子も急いでいたせいで、後を追った姉に気付かなかったようだ。娘を乗せると、空港前の通りをそのまま北へ向かい、岩手山が見えて来た頃、ちょうど息子が乗った飛行機が飛び立って来た。紫波町の産直に行って見ることにした。そこのレストランのラーメンが美味しいと聞いたからだ。田園地帯をのんびりと走らせていると、とても気持ちがよく、娘はひどく満足していた。釜石の内陸側隣にある遠野はまだ桜が開いていなかったが、その遠野よりさらに内陸側の花巻では釜石と同じくもう桜が咲いている。遠野は盆地になっているため、夏は暑く、冬は寒い。そのため桜も遅いのだ。空港から紫波町の間はほとんど田園地帯になっており、里に咲く桜や遠く山に咲く桜を見ながら春を満喫した。産直のレストランは確かに味がよかった。比較的値段も良心的で、ここはまた来てみてもいい、という気持ちになった。隣接の産直も山野草が置いてあったので、また何種類か買ってしまった。娘も置かれている品物に好感を持ったようだ。自分で独りでまた来てみたいと、言っていた。遠野へ引き返して、給油した後、水芭蕉を見るために貞任高原(さだとうこうげん)に向かった。カッパ淵のある土淵から北東方向へ進み、山口の水車近くを抜けて、山道を入って行くと、突然、通行止めになっていた。冬期閉鎖となっている。まだ雪が残っているようだ。閉鎖されていると言うことは、まだ水芭蕉が咲いていないと言うことでもあるのだろう。仕方がないので引き返すことにした。釜石へ向かい、遠野の本郷地区に新しく出来た産直に行くことにした。産直の駐車場は一杯で、運良く、ちょうど本郷細越鹿踊が行われるところだった。最近はフランスでも披露された鹿踊だ。今日は特別に普段は舞わない踊りを見せてくれると言う。保存会会長の説明によると、鹿踊は400年前に静岡県掛川から伝わったと言うのが有力らしいが、その掛川には鹿踊はないと言う。鹿踊というが、鹿ではなく、大きな目は4里先を見ることが出来、大きな耳も3里先の音を聞くことが出来ると言う獣で、衣装に付けた山鳥の羽根は、まさにその獣の羽根を表し、空を飛ぶことが出来るのだと言う。今日の踊りは、稲の実る頃、空からこの獣が舞い降りて来て、稲を食べ、それに怒る人間との間を取り持つ、赤い衣装を着けた仲介者により、調和が図られる、と言う内容の踊りだそうだ。人と自然の調和が表現されているのだ。囃子の太鼓や笛も田舎の伝統の味があり、鹿踊にまた感銘を受けた。ここにも山野草が置かれていたが、家に既にあるものだった。しかし、ともかく、値段は安い。遠野の山野草はいつ見ても安いようだ。釜石に着いてみると、温度は27度にもなっていた。完全に夏日になっていた。道理で暑いと感じていたわけである。家に着いてみると、毛皮を着た犬たちは口を大きく開けて、喘いでいた。
辛夷(こぶし)の咲く花巻空港 遠く雪の残る岩手山が見える

花巻郊外の田園地帯に咲く桜

早池峰山に発する北上川支流の稗貫川(ひえぬきかわ)ののどかな春

産直とレストランが並ぶ「峠の駅」紫波ふる里センター

転居して新しく開店した遠野本郷地区の産直で披露される本郷細越鹿踊

釜石の春を堪能した一日

2012-04-28 19:16:47 | 文化
昨夜は雨が降っていたので、今日の天気が心配であったが、釜石らしいすばらしくいい天気になった。雲一つない青空が広がり、桜もみんな一気に開いてくれた。我が家の庭にもこの春はじめてウグイスがやって来て、しばらくはきれいな声を聞かせてくれた。昨日は米国から参加していた人たちが帰国するための歓送会があったために今朝気仙沼から釜石へ戻って来た息子と、桜の写真を撮りたいと言う娘とともに三人で昼前から出かけることにした。片栗の群生を見たことのない娘にそれを見せるために先ずは大天場公園へ行ってみた。ここも桜がみんな開いていて、二つの家族連れが楽しそうにお弁当を食べていた。片栗の花はもう終わりかけていて、娘はまだきれいに咲いている花を見つけては写真を撮っていた。周囲で桜が一杯に咲いた中で、ここでもウグイスが鳴き、シジュウカラの声も聞こえて来る。空は青空が広がり、とても気持ちがいい。途中で開き始めた枝垂れ桜を見ながら青葉通りへ移動して、そこの仮設店舗で売っている弁当を買おうとしたが、すでに売り切れていた。仕方がないので他で買ってから、甲子川の川縁に出て、そこで対岸の桜と川の流れを見ながら弁当を食べた。川面近くをツバメが飛び交い、目の前の川ではまだ残っているカルガモやヒドリガモたちが餌を探していた。昼食後は小川地区へ行き、小川沿いの桜並木を見て歩いた。ここには仮設住宅もたくさんあり、そのためか鯉のぼりもたくさん出されていた。さすがにここは天気がいいのでひっきりなしに人がやって来る。一通り見終わると、匠の方の家の前を通って、昨年東京から来た釣り人が熊に襲われた日向ダムへ向かった。NPOの仕事で先日娘がここへ来た時の感じではもう桜が咲いているのではないか、と言うことだった。すでに確かに桜が咲いていた。駐車場でには偶然桜舞太鼓の方々来られていた。新しく入った音響設備のテストのために来られたのだそうだ。この太鼓をずっと支援して来られた方もご一緒されていた。この方と懇意の娘が話をしている間に周囲の桜を撮って歩いた。今日は唐丹地区本郷の桜並木で桜舞太鼓の演奏があったことを娘が忘れていたようで、忘れた原因はどうも息子の大阪へ帰る日程を勘違いしていたことに関係があったようだ。明日息子は大阪へ帰るのだが、娘はどうやら今日大阪へ帰ると思い込んでいたため、桜舞太鼓の演奏のことは諦めていたのだ。桜並木での演奏なので是非聴いておきたいところだったが。みんなに別れを告げた後、甲子町の不動滝を娘に見せて、その少し上にあるあまり知られていない一本桜を見に行った。先日は独りで来たが、まだ三部咲きだった。今日はさすがに見事に咲いていた。恐らく釜石では最も古い桜ではないかと思う。これ以上の大きな桜はまだ釜石では見たことがない。まわりの風景もいいし、これだけの桜が知られていないと言うのももったいない話だ。ただ写真を写す側から見れば、人はあまり来ていて欲しくない。とは言え、見事に咲いたこれだけの桜はもっと多くの人にも見て欲しい気もする。二~三百年は経っていると思われる古木だ。今日は半日ほどだが、とても気持ちよく桜を見て回ることが出来た。最後は赤羽根峠下の住田側にある山野草の店に行って、また何種類か山野草を買ってしまった。ここは赤羽根産直より高いが、ともかく山野草が専門なので、種類が豊富にある。お店の方の応対も親切だ。本来植物の世話など興味はなかったが、釜石へ来て、これほど多種の山野草の可愛い姿を見ると欲しくなってしまった。気候が植物にいいせいか、手間をかけなくとも、みんな元気に芽を出してくれている。
石應寺山門前の桜

小川の仮設住宅そばの桜並木

日向ダムの駐車場で音響調整する桜舞太鼓のメンバー

日向ダムと桜

甲子町の不動滝近くの一本桜

虎舞と東北の製鉄

2012-04-27 19:18:29 | 文化
昨夜から小雨が続き、庭の杏の花びらがだいぶ落ちてしまった。朝、庭の最も高価な礼文敦盛草に小さな芽が出ているのを見つけた。これで家にあるすべての敦盛草が芽を出してくれたことになる。釜石市街の桜はどれもみんな開いたようだ。職場の裏山の中腹にある小学校の桜も明るく咲き誇っている。釜石周辺の山々の桜も一緒になって咲いているが、よく見るとそれらの桜も山桜ではなく、ほとんどが染井吉野のようだ。鳥たちによって山に運ばれて、そこに咲くようになったものだろうか。明日からはまた晴れてくれるようだ。以前にも記したが、『総輯東日流六郡誌全』には「北筑紫なる邪馬壱国の女王卑弥呼、日高見国久流澗(くるま 来朝なり)の高倉に使を遣し、鉄の造法を伝へけるなり。・・・・・邪馬壱国にては、鉄のタタラ製法さかんにて、わが宇曽利タタラも、これに習ふとなり。また、日高見国の金銀銅鉄の砿山、みな、邪馬壱人の授伝なりといふ。」と書かれている。この「久流澗」とはどこだろう。東北各県で「くるま」地名を探してみたが、あまりはっきりとしない。しかし、探しているうちに「群馬」の名前の由来に行き当たった。かっての群馬は藤原宮木簡では「車評(くるまおこほり)」となっており、『和名類聚抄』では「久留末(くるま)」と書かれているようだ。またかって群馬郡には久留馬村があり、車郷村(くるまさとむら)があったそうだ。『常陸国風土記』で「此の地は本、日高見国なり」と述べられており、群馬も日高見国であった可能性もあるのではないだろうか。日高見国の王都は何度か遷移しているのだろう。荒覇吐王国と日高見国がほぼ同じ国を示すものだとすれば、糸魚川と安倍川を境にして北方に日高見国がり、その王都が群馬に一時あったとしてもおかしくはない。東北への製鉄の伝来をさらに調べていると、面白い記事に出会った。現在も釜石に残る新日鉄は毎月『NIPPON STEEL MONTHLY』という月刊誌を出しているようで、その2006年11月号と12月号に「鉄と虎・・・・・日本の「宝島」岩手・釜石を行く」と題する東京出身の韓国人作家李寧煕(イ・ヨンヒ)氏の文が連載されていた。紀元前2世紀頃中国の朝鮮半島北方の位置に北西~南東に帯状に濊人(わいじん)が住んでいて、次第に朝鮮半島へ移動し、そこで製鉄技術に優れた存在となった。2世紀頃に朝鮮半島で滅びた濊国の人々が対馬海流に乗り、津軽海峡から太平洋側に出て、東北沿岸部を南下して、製鉄に携わったのだとされる。釜石で伝承されて来た「虎舞い」はまさに濊人たちが象徴とした「虎」であり、「虎舞い」で登場する笹はまさに砂鉄を意味するのだと言う。さらに氏は「えみし」は古代韓国語の濊水人(えみじ/ち)から来ており、同様に、「えぞ」は濊人(えじ)、「えびす」は濊刀鉄(えびす)から来ていると言う。釜石の虎舞神事では神輿が曳船数十艘で釜石湾を渡り、三 日三晩の祭礼の後、白浜の本宮へ帰還する。そしてこの「三日三晩」は、まさに一回のたたら製鉄作業にかかる時間を表すと言う。「三日三晩」と言えば、鉄作りの 代名詞ともされてきたのだと言う。また釜石湾の古名を矢ノ浦と言うようだが、これも日本にやって来た濊人は「や」と呼ばれ「八・夜・矢」 などの漢字で表記されたことから、「濊の浦」の意で名付けられたのではないかと考えられておられる。福島県郡山市にある鍛冶遺構の永作遺跡は五世紀後半であり、教科書的な歴史よりも実際にはずっと早くから東北では製鉄が行われていた可能性が強い。
今朝出勤時に45号線の小川の橋の上から 左手に曲がりながら川に沿って桜が並ぶ

国よりもよほど地方自治体の方が真剣だ

2012-04-26 19:23:43 | 文化
昨日に引き続き、今日も最高気温が18度となっており、今日は昨日より雲が多いが、釜石市街の桜がみんな開いて来た。職場の隣接地の薬師公園の桜も開き、枝垂れ桜まで開き始めた。今頃から1ヶ月余りをかけて山野草も次々に咲き始めるだろう。遠野には遠野三山と呼ばれる山があるが、それぞれに特徴のある山野草が咲く。岩手県では岩手山に次いで高い、早池峰山(はやちねさん)にはハヤチネウスユキソウが、石上山にはシラネアオイが、そして六角牛山(ろっこうしさん)には野生ランの女王と言われるアツモリソウが自生する。ホームセンターなどでもこれからはたくさんの花たちが販売される。遠野や山田、住田の産直でも山野草や山菜がたくさん並べられるようになってくる。休日は天候さえよければ、出かけることも多くなるだろう。千葉県は昨日津波浸水予測図を発表した。同県で過去最大の津波が襲ったと考えられる1703年の元禄地震の津波の痕跡などを調べた結果、太平洋沿岸を襲うのは「最大でも10m規模」とし、東京湾内については一律3mとした。これにより、浸水面積は白子町の約56%を最高に九十九里沿岸で既存の防潮堤が地震の被害を受けず、水門を閉じたと仮定しても、海岸から内陸約3Kmまでがほぼ水没し、九十九里地域の2市2町で計61Km2が浸水し、東京湾内でも木更津市で9Km2の浸水が予想され、防潮堤が壊れ水門が開いたままの場合は、東京湾の奥にある船橋市の中心街の2Km2や浦安市北部の1Km2まで浸水することになる。千葉県はこれらの予測図を元にして今後避難計画を策定することになるが、首都圏の人口密集地で、昼間の時間帯だとかなりの混乱が予想される。それでも首都圏にある都県は千葉県のように最大規模を予想した避難対策を早急に策定する必要がある。特に、東京は政府機能や経済の中枢が集中しており、単なる避難だけではなく、各機能のバックアップ体制も含めた検討が是非必要だ。福井県の日本原電敦賀原発では直下に少なくとも約160本もの破砕帯と呼ばれる古くてもろい断層が走っていることが明らかとなった。その他にも敷地内には活断層の「浦底断層」がある。「浦底断層」と破砕帯が連動する恐れがあることは、以前から指摘されていたが、日本原電は設計上考慮に入れていない。東日本大震災で動かないと言われて来た断層が動いた。2007年の新潟県中越沖地震では、余震を分析した結果、海底断層が東京電力柏崎刈羽原発の直下まで延びていることも明らかとなった。東海、東南海、南海の連動による南海トラフ巨大地震が起きた場合、関東から九州まで大きな影響が出る。国は今こそ真剣に全原発の周辺断層を詳細に調査する必要がある。何より問題なのはこれまでの断層を含めた地質調査をすべて電力会社まかせでやって来たことだ。電力会社から提出された調査結果を見て評価するというやり方がとられて来た。こうした調査では電力会社に不利になるデータは隠されてしまう。国なり第三者なり、電力会社に関係しない研究者たちによって調査が進められる必要がある。こうした現況を知れば知るほど日本の原発の置かれている状況に空恐ろしさを感じる。
我が家の梅の花に似た杏の花も満開になった
杏は梅とともに中国から奈良時代に入ったと言われているが・・・

桜が見られ始めた釜石

2012-04-25 19:16:19 | 文化
朝から日射しは出ていたが、午前中はやや雲が多かった。午後になり、青空が広がり、春らしいいい天気になった。風もほとんどなく、最高気温は18度まで上がった。家の近くではメジロやウグイスの声がよく聞かれるようになった。釜石では桜が一気に開いて来た。東北の桜は結構古木が多く、形もいいものが多い。JR小佐野駅近くの老人施設の駐車場そばにも1本大きな古木があり、ほぼ7分咲きになっていた。ここから少し離れた病院の駐車場には梅の古木がある。これもやはり花が開いて、明るい日射しを受けていた。釜石をはじめ東北では梅と桜が同時に開く。椿もこの時期にはたくさん見られる。白木蓮や五月までいっしょに咲いている。北海道でも冬が終わると、花が一斉に咲き始めるが、北海道では純粋の春の花は少なく、やや遅れてではあるが夏の花まで咲き始めたりする。釜石ではこの時期に咲く花の種類が多い。甲子川やその支流である小川には桜並木がある。いずれもやはり古木が多い。とは言っても染井吉野なのでせいぜい数十年のものだろうと思う。県立病院近くの甲子川沿いには釜石の桜の名所の並木がある。桜の種類も3種類くらいは植えられている。形のいい、古い木が見られる。暖かい日射しを受けながらそこへ出かけて行くと、初老の方が三脚を立てて、カメラを桜に向けていた。川沿いの桜並木を気持ちのいい川風に吹かれながらゆっくりと歩いた。一通り見終わって、車を止めていたところに戻って来ると、三脚を立てていた初老の方もちょうど引き上げるところのようで、目が合ったので、軽くご挨拶をしたところ、話しかけて来られた。釜石の何か所かの桜の名所を上げられ、もうそれらの場所へ行ってみましたか、と尋ねられた。その中にはこちらの知らない場所もあった。ついでに八幡平あたりの名所まで教えていただいた。せっかく教えていただいたので、その足で、甲子町へ向かった。以前にも行ったことのある不動滝のそばに車を止めて、先ずは、不動滝へ下りてみた。以前は曇天で薄暗く感じた不動滝も今日は晴れているせいか、少し明るく感じた。水量も多く、今日は勢いがある。岸辺には不動明王の碑とは別に小さな祠が置かれてあった。鳥居があるが神社名は見当たらない。同じ釜石市内とは思えないほどまるで別世界のように感じる。水の流れも気持ちがいい。そこからまた歩いて上の道路に出ると、その道路をさらに上に上って行くと、3~4人の女性が下って来たので、この辺りに1本桜がないか、尋ねてみた。しかし、はじめて来られた方たちで、ご存知なかった。ちょっと目をさらに上に向けると、それらしき木が目に入った。使われなくなったような水田跡が前に広がる中で、1本の桜の巨木が立っていた。まだ3分咲きくらいだった。水田跡には土筆も出ている。青空が広がっているので満開だとずいぶんと見応えが合っただろう。近いうちにもう一度来てみたい。釜石は1年のうちでも今頃の時期が一番花の多い時期なのかも知れない。日もだいぶ延びて来て、今日のように天気がいいとほんとうに気持ちがいい。のんびりと釜石のよさを味わうことができる。
小佐野駅近くの一本桜

甲子川沿いの桜並木

不動滝

不動滝の上にある一本桜

電力不足は再稼働の理由にはならない

2012-04-24 19:22:09 | 文化
昨夜の雨は朝方まで降ったようだが、朝には日も射していて、青空も見えていた。しかし、その後は雲が空を覆うようになった。朝、犬たちが餌を食べている間、庭の山野草を一つ一つ見て歩くと、次々に小さな目を出して来ているのが確認出来た。喜びがこみ上げて来る。冬の状態を見ている限りはとても生きているようには見えなかった。今回の冬は例年になく寒さが厳しかったので芽を出すのも遅かったのだろう。特に、敦盛草(あつもりそう)が気がかりだった。今のところ希少種の北海道礼文島に咲く礼文敦盛草だけが芽を出していない。最も高価な花なので何とか芽を出して欲しいのだが、今朝もじっくりと芽出しが見えないか見てみたが、残念ながら確認出来なかった。敦盛草に似た熊谷草は芽を既に出して日ごとに大きくなって来ている。何種類かの山芍薬もみんな赤紫の芽を出して来てくれている。出勤時には玄関先の大きな杏(あんず)の木でも花が7分方開いていた。梅の花に似ているが、基部が梅よりさらに赤味が強い。写真などだと梅と間違いやすい。昆虫たちがこの花の蜜をたくさん吸ってくれると、やがて実がたくさんなってくれる。現在、国内で唯一稼働している北海道電力泊原発3号機は5月5日から定期検査に入るため、止められてしまう。関西電力大飯原発3、4号機の再稼働が現在のところ決定されていないため、5月6日以降国内の原発稼働はゼロになる。政府や関西電力は何としても大飯原発の再稼働を急ぎたい。しかし、昨年の東京電力福島第一原発事故で明らかになったように、一旦事故が起これば、被害の及ぶ自治体は広範囲になる。以前と状況は大きく変わった。単に原発が立地する自治体の同意だけでは容易に稼働させられなくなった。法律上は立地自治体以外の周辺自治体の意向は無視出来るが、現実的には全く無視するわけには行かなくなった。大飯原発が事故を起こせば、福井県だけに留まらず、滋賀県や京都府も被害を受ける。それらの府県知事は早急な稼働に反対している。大阪府も同様だ。再稼働に向けて必死の関西電力は電力不足を強調した資料を経済産業省に提出した。しかし、16.3%の電力不足を示すその資料では、節電効果を低く見ており、揚水発電や他の自家発電容量などを過小評価しており、大いに問題がある。自民党の河野太郎氏なども自分のブログでこの点を数字を上げて指摘されている。昨年9月の政府見通しでは今年は日本全体で9.2%の電力不足となっていたが、昨日の政府見通しでは日本全体での不足は0.4%に修正された。原子力安全・保安院はこのほど北海道電力の泊原発、福井県にある日本原子力発電の敦賀原発、日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」、中国電力の島根原発に対して、活断層が連動した場合、想定される最大の揺れがこれまでより大きくなる可能性があるとして、原発の耐震性への影響の見直しを求めた。同じ福井県にある大飯原発にはそれを求めていない。しかし、「もんじゅ」や大飯原発を含めた若狭湾沿岸部には断層が多数存在する。毎日新聞が調査したところ、原発事故に際し、原発から30Km圏の住民への避難対策がほとんど手つかずの状態であるのが21道府県であることが分かった。一般的な避難手段である自家用車が一斉に動くための大渋滞が予想され、医療施設の患者などの避難もほとんど目処が立っていない。避難を含んだ安全対策が立てられないまま、作為的な資料に基づく電力不足を武器に大飯原発の再稼働を急ぐことはもはや福島第一原発事故を経験した日本では許されないだろう。列島は今、どこで大地震が起きてもおかしくないほどの地殻変動のまっただ中にいる。
雪割草

想定外の断層型誘発地震

2012-04-23 19:19:19 | 文化
今日は曇天が続くだけではなく、時々小雨も降って来た。ちょうど昼休み時には雨もさほどではなかったので、職場の建物から外へ出てみた。薬師公園入口の梅がほぼ満開で、そばの桜も咲いていた。染井吉野とは異なり、花がやや小さく、色は染井吉野より赤味が強い。花自体は河津桜に似た感じだが、河津桜のように葉は出ていない。白木蓮も咲いている。職場の反対隣にある醤油工場の裏山にも花がびっしりと開いた椿と染井吉野がともに咲いていた。ここにも白木蓮の大きな木があり、花を咲かせ始めた。今朝出勤時に甲子川の支流になる小川の川沿いの桜並木を見ると、一部の枝で花を開かせ始めた木があるのを目にした。今週末にはかなりの場所で桜の花が見られるようになるだろう。今年の連休は花見の連休になるようだ。昨年の3月11日の大地震のちょうど1ヶ月後にあたる4月11日17時16分に福島県浜通りの深さ6Kmを震源とするM7.1の地震が起きた。福島県中島村、古殿町、いわき市と茨城県鉾田市で最大震度6弱を観測し、東京都23区と東京都多摩東部は震度4だった。釜石はこの時震度は3だ。この4月11日の地震について気象庁は「この地震の発震機構は東北東-西南西方向に張力軸を持つ正断層型で、地殻内で発生しました。この地震により死者3人、負傷者10 人などの被害が発生しています。」と述べている。この地震について東京大学地震研究所のHPでは「この地震に伴って,塩ノ平断層に沿って地表地震断層(正断層)が長さ11 kmにわたり連続的に出現した(例えば石山ほか,2011; 杉戸ほか,2011など).この地震は東北地方太平洋沖地震の直後に活断層に沿って発生した最大の内陸地震であり,海溝で発生する巨大地震との関連が示唆される.」と書かれている。これまで、地震学者たちの間では海溝型のプレート境界で起きる地震とは別の周期で断層型の地震が起きると考えられて来た。これまで日本で起きた断層型の内陸地震はそれぞれ1万年とか1万5,000年というような超長期の周期で起きると考えられた。その地震学者たちの常識とされた考えをあっさりと覆したのが、昨年4月11日の断層型地震だった。要するにプレート境界における海溝型地震に誘発されて、断層型地震が起きることがあるという新事実が地震学者たちに「想定外」の事態を突きつけた。日本は世界でも極めて珍しい4つものプレートが接しており、列島には数多くの断層が走っている。昨年4月11日までは、地震学者たちは3月11日の大地震後もその後に予想したのはやはりプレート境界付近での余震であった。しかし、4月11日の断層型地震が誘発されたことによって、これまでの考えを覆されてしまった。そして、このことは地震学者たちに大変な問題を突きつけた。今後の南海トラフに沿ったプレート境界型大地震が内陸の断層型地震を誘発する可能性が出て来たからだ。昨年の巨大地震の震源最南端となる房総半島沖では今後の地震が予想されているが、それと同時に、関東平野に分布する断層も誘発地震を起こす可能性が出て来た。むしろ、素人の方がそうした誘発を想像しやすかった。しかし、4月11日に断層型の誘発地震に見舞われると、専門家たちもその危険性にあらためて直面させられた。南海トラフでの境界型地震が生じた場合、関西や北陸の断層が誘発地震を生じる危険性が出て来た。関西電力大飯原発のある若狭湾周辺には多数の断層が走っている。先月末、経済産業省原子力安全・保安院はこうした断層が3つ連動しても大飯原発は安全であるとした関西電力の評価を妥当だと判断した。「再稼働ありき」で進めている政府が果たしてほんとうに冷静な判断をしていると言えるのだろうか。
薬師公園入口の梅とその背景の桜

醤油工場の裏山の花の宴

山の片栗の花

2012-04-22 19:17:18 | 文化
今朝起きるともう子供たち二人は出かけていた。息子の参加しているボランティア団体の方が気仙沼キャンプから同じ宮城県の登米キャンプへ移動するのを手伝うためにかなり朝早く出かけて行ったようだ。昨晩も遅くまで起きていたので、ほとんど二人とも寝ていないのではないかと思う。運転が心配だ。朝から今日も曇天で、日中は気温が10度ほどだった。娘と息子の二人がいないので、気になっていた片栗の花を見に行くことにした。釜石の八雲神社がある大天場山の斜面に群生地がある。行ってみるとちょうどいい時期で、一面に片栗の花が咲いている。他に人は誰もいない。愛知県に住んでいた頃は岡崎市から豊田市の足助町にある香嵐渓にまで出かけて片栗の群生を見に行った。足助川と巴川の合流点に近いところに群生している。しかし、ここでは大勢の人が群落を見にやって来る。釜石だとわざわざ片栗の花を見に来る人もいないようだ。独りでたっぷりと片栗の花を見て回った。よく見ると2~3カ所で延齢草も自生していた。白い花が咲き始めている。片栗の薄紫の花弁もきれいだが、中心部の独特の濃紫色の文様もきれいだ。斜面を這うようにして片栗の花を見ているうちに、いつのまにかどこかでポケットに入れていた車のキーを落としてしまった。自分が移動した場所を最初から歩き直してやっと見つけることが出来た。見つからなければ大変な距離を歩くことになっていた。タンポポや早咲きの桜も近くに咲いていた。これほどすばらしいところでも人が来ないというのが釜石らしいのかも知れない。ついでだからと、橋野の産直に行くことにした。両石地区も鵜住居地区も変わらず、誰も住んでいない。ただ家の土台だけが見える範囲にたくさん残っているだけだ。笛吹峠に向かって走っていると熊の剥製が二つ道路そばに置かれているのに気が付いた。釜石近辺には猟銃会の人たちがたくさんいて、中には自分でしとめた動物を剥製にする腕まで持っている人たちがいる。残念ながら橋野の産直にはあまり物が置かれていなかった。来た道を引き返して、鵜住居へ戻り、常楽寺へよってみた。以前ここでも片栗の花をみたことがあったので、どうなっているかみたくなった。常楽寺は津波で跡形もなく消えていた。ただ仮の鐘楼だけが再建されて、鐘がつり下げられていた。山の斜面をみるとまばらに片栗の花が咲いているのが目に入って来た。よくよくやや上の方まで眺めてみると、それなりの群落がある。やはり津波のとどかなったところは以前と同じくたくさん咲いている。少し道にそって残っている墓の方へ歩いて行こうとするとすぐそばから、突然、雌のキジか山鳥が翔るように飛び立って行った。また車で山田町方向へ走り始めると、45号線沿いで津波の記念碑が目に入った。車を止めて、近くで見ると、昭和8年の津波の記念碑だった。隣には小さな山神の石碑があり、反対隣には江戸時代と思われる国土安穏を祈願した石碑が並んでいた。少し離れたところには急傾斜の階段と赤い鳥居があり、津波避難場所と書かれてある。神社名が見渡しても見当たらない。このあたり一帯は今回も津波で大きな被害が出たのだ。結局山田町の産直でも山野草などはまだ出ていなかった。今日は片栗の花をたっぷりと味わえた一日だった。
大天場山の片栗の群生の一部

毎年この片栗の花には惹かれてしまう

「歳かな」

2012-04-20 19:17:40 | 文化
今日もまた曇天が続く。日が射さないと多少気温も低めだ。今、釜石では梅が7分咲きから満開になって来ている。今朝出勤時に近所の早咲きの桜を見ると、こちらも7分咲きになっていた。ほとんどの桜はしかしまだ蕾の状態だ。遠野に住む職場の同僚は今ログハウスを建てておられるが、6月後半には完成する。敷地には古い曲り家があり、倉庫にするのだそうだ。ログハウスが完成すると娘とともに招待していただけることになっている。この方は、全国各地の列車に乗ることが趣味で、SLなども何度もご家族で乗っておられる。最近はそれらの写真も撮るようになった。6月には3週続けて、週末に花巻ー釜石間をSLが走るという情報を教えていただいた。やはり、ご家族で乗車される。もう乗車券は売り切れていると思われるので、こちらはせっかくのチャンスなので、何回かに分けて場所を選んで写真を撮ろうと考えている。娘も是非一緒に写真を撮りたいと言う。宮沢賢治で知られる宮守の眼鏡橋や遠野の田園地帯を走るSLなどはいい絵になるだろう。子供の頃、単線しかない四国では同じ県内にある父の生家に行くのによくSLに乗った。窓を開けていると黒い煤が入って来る。トンネルに入れば必ず窓を閉めておかねばならない。警告や合図の汽笛も今では懐かしい。母の生家の大阪へ行く時は3000トンクラスの客船を使った。夜、乗船すると翌朝に着いた。学生時代にはまだ高松と岡山県の宇野港を結ぶ大きな連絡船があった。船に車両を積み込む大型の客船だった。この船上で食べるうどんが最高だった。のんびりと小さな島が点在する瀬戸内海を見ながら旅が出来た。移動時間は人の心の余裕にまで影響する。現代は移動時間が早くなった分、心の余裕も無くなって来た。大都会の交差点でよく見る人の足並みにそれがよく現れているように思う。かっては自分もその足並みに合わせて歩いていた。今はたまに大都会へ行くことがあってもそうした足並みが奇異に感じられる。昨夜は職場で新しく来られた方の歓迎会があり、そこで同席した同職の先輩から釜石に来ることにした理由をお聞きした。何十年か前の釜石の全盛時代に釜石へ来られた。その頃の釜石は岩手県下では県庁所在地の盛岡市以上に都会的だったそうだ。この先輩はそこに惹かれて釜石へ来ることにしたのだそうだ。当時と比べると今は雲泥の差だ。都会的な釜石に惹かれて住むことになった先輩はさすがにこの釜石の自然の豊かさをご存知なかった。自然の豊かさそのもに興味がないと言う方が正確かも知れない。釜石へ来てから東北の民謡を聴いて民謡というものを見直したというお話をすると、民謡はやはり以前は興味がなかったそうだ。ジャズがお好きだったようだが、最近ようやく少し民謡を聴くようになって来たそうだ。「歳かな」と言われていた。若く先にまだ将来を夢みることの出来る年齢をはるかに超えて、これまで生きて来た人生を振り返る年齢になると、自分が経験した一番人間らしい生活はいつの時代の生活か、考えるようになるのかも知れない。また、同じ釜石に住んでいても匠の方のような人を知っていなければ、確かにこの釜石のこれほどまでの自然の豊かさに気付けないのかも知れない。
咲き始めた白木蓮