釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

紀元前9世紀の閉伊の津波

2012-04-09 19:19:37 | 文化
午前中は風があるが冷たくなく、清々しさすら感じられる天気であった。昼休みに外へ出てみたが相変わらず交通量が多く、他府県ナンバーやレンタカーをよく見かける。一種の復興景気とも言えるのかも知れない。午後には、風が次第に強くなり、建物を振わせるほどの突風が吹くこともあった。今月から職場に来られた同職の方と震災時の話を少しだけした。この方は震災時は大船渡市におられた。話をしていて自分でも震災当時のことはもう思い出したくないことが分かった。もう二度とあんな目には遭いたくない。津波そのものも無論だが、津波の後も長く尾を引いた毎日がとても大変だった。普段当たり前のように出来ていた生活のすべてが不可能になる。しかし、可能性としてはまだまだ東北にも同じ規模の地震と津波が起きることもある。日本列島の太平洋岸は特に過去にもたくさんの津波が襲っている。歴史的に記録されているものもあるが、大半はむしろ、堆積物の調査で津波の規模が類推される。独立行政法人である産業技術総合研究所は2001年から列島の北部から津波堆積物の調査を開始している。北海道太平洋沿岸部にも津波の爪痕が多く残されている。2010年には東北を中心に襲った869年の貞観地震による津波の調査結果も出ている。M8 以上の地震であったことや、海岸線から 3~4 km も内陸まて津波が襲っていたことなど。昔の海岸線は砂浜が広がっており、津波に襲われるとその砂が陸に大量に打ち上げられ、堆積物として陸地に残る。地層を調べれば、海岸の砂の地層を明確に区別出来る。八幡書店から出された『東日流外三郡誌』古代篇を読んでいると「東周孝王の丁未七年、津波、辺伊東海に起りて民多く葬ず。」とある。中国の周の時代の孝王(紀元前892年ー886年)の在位期間に東北の閉伊に津波があったと書かれている。また顕王(紀元前368年ー321年)の頃、「近江国の地裂けて湖となり、富士山爆噴す。」とあり、琵琶湖が出来たことと富士山の噴火が書かれている。長元(1028年から1036年)の年号の時代には「富士山爆噴し、坂東の住民多く奥州に遁世す。」とある。興国(1340年から1346年)の時代には「東日流西浜津波起り、死者十万、安東水軍皆滅、十三湊廃湊となりける。また疫病流行し、南朝落人大いに東日流居住す。東日流安東一族、分家上洛続出す。」とあり、日本海側でも津波が襲っている。同書によれば、東北の過去の歴史は語り部による語印と呼ばれる記号により歴史が伝承されて来ていた。東北各地には義経伝説が多く残っているが、これについても、「文治己酉五年、源頼朝、兵馬大挙して衣川を攻め落とし、藤原泰衡を討つ。ときに義経十三湊より渡島のオカムイ崎より大唐に渡る。」と書かれており、義経は中国へ渡っている。この時代すでに唐は滅亡していたが、中国では北宋、遼、西夏が併存した分裂状態であった。記述の少ない上代、まして東北の史書は極めて少ない。その中で、『東日流外三郡誌』は過去の津波や噴火を知る上でも貴重な資料だと思う。資料として本格的な研究が進めば、東北の歴史に光明が刺して来るだろう。
咲き始めたばかりの梅の花びらが風で飛んでしまった