釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

科学と自然の調和

2011-09-30 19:20:29 | 文化
数日ぶりに小雨が降った。庭の花や木にはちょうどいいだろう。今日一日は曇天のようだ。家の庭には杉の木が何本か植えられているがその杉の木や塀には蔦が伸びて全体を覆い隠すようにまでなって来た。山の木々を覆う葛と同じく、蔓性の植物の繁殖力には驚かされる。大阪から釜石へ戻って来たとき、娘が大阪の名家の葛餅を土産に持って来てくれた。この葛餅が周辺の山を覆う葛から出来ていることを話すとびっくりしていた。葛は昔から様々な用途に使われている。葛の蔓も丈夫でこの蔓を使って籠などが編まれていた。各地の郷土資料館などに行くと、こうした山野の植物を利用した民芸、工芸品などもよく見られる。特に東北は冬の藁で作られた日用品が多い。周囲の自然の材料が用具に使われた時代は考えてみればさほど遠い時代のことではない。むしろ、今のような石油製品に変わってから時代的にはさほど経ってはいない。生活様式の変化はこの50年が急激だったのだ。四国でさえ「あかぎれ」や「しもやけ」の子供たちを見かけたが、アトピーや喘息の子供などは見かけたことがなかった。食べ物が乏しかったために子供たちは人目から離れた畑からトマトやキュウリ、芋などをこっそりと失敬していた。遊び道具も既成のものは限られていたため、身の回りの空き缶や板や竹などを使って自分たちで遊び道具そのものを作るしかなかった。車などほとんど通ることのない未舗装の道路に次々に年齢の異なる子供たちが集まって来ては一緒になって遊んでいた。年長の子供が年下の子供を暗黙のうちに気遣い、体力や智慧のある年少の子供は年長の子供と対等に遊ぶ場面も見られた。子供たちはある意味で現在の子供たちより早く自立せざるを得ない環境に於かれていたのかも知れない。自然もごく身近なものだった。ナイフを自由に操って木や竹を切って遊び道具を作っていた。池では筏を組んで危なっかしく大人に隠れて遊んでいた。少しだけ住宅街から離れた山裾を流れる川では真っ裸になった子供たちが岩の上から次々に飛び込んでいた。海も近く、夏は毎日のように連れ添って出かけていた。以前友人から太平洋の島々では心を病む人はほとんどいない、という話を聞いた。今は地方でも心を病む子供たちがいる。アトピーや心の病みは心身の悲鳴なのだろう。急速に変化した環境に動物である人間がついて行けないのだ。ついていけないと同時にどう対処していいか分からないのだ。歴史をみれば人類は着実に変化して来たことは確かだが、この50年から100年はこれまでの人類の歴史の中で経験したことがない急速な変化の時代だった。科学が、自然科学があまりにも急速に「進歩」した。それはいい悪いの問題でもなく、科学そのものに内在する性質のものでもあるだろう。科学にも人文科学や社会科学もあるがそれらはむしろ人類の歩みのスピードに近く「発展」しているのだろうが、自然科学だけが突出したスピードで「進んでいる」のではないだろうか。その突出した自然科学をそのまま受け入れていることが不調和をもたらしている部分があることに気付かなければならないのではないか。遺伝子組み換えの技術などもそれ自体有益なものをもたらしてくれる可能性が大いにあるだろうが、それによって生態系が調和を乱さないか、十分に検討する必要があるだろう。たかだかお湯を沸かすだけに核分裂、しかも熱効率の極めて悪いものを利用するなどということも安易過ぎないだろうか。制御する技術すら未完成のものだ。人類はすばらしいと同時にあまりにも愚かな、矛盾した存在だ。この発展スピードの早い自然科学をどこかで調和させる仕組みを社会の中に築かなければいずれ人類は自ら破滅の道に向かう可能性すらあるだろう。東北のこの豊かな自然を見ていると人類のある意味でひ弱さを感じる。
ススキ かっては茅葺き屋根の材料として茅場が確保されていた

東北の真の復興のために

2011-09-29 19:34:00 | 文化
今週は晴天が続いてくれて、ここのところ毎日のどかな秋日和を味合わせてくれている。朝はやや気温が低いためか今日も近くで百舌の声を聞いた。ここのところ黄昏時の空はほんとうに惚れ惚れするほど美しい。次第に光を失って行く空を背景にした愛染山の黒々としたシルエットに惹き付けられる。釜石の被災地域の瓦礫はほとんど片付けられたが、残された壊れた建物は少しずつ壊されていて、まだまだ被災地域が更地になるには時間がかかる。比較的破壊の少なかったところでは改修して住着いたり、商売を初めているところもわずかだが何軒かある。被災者の方々は50カ所以上の仮設住宅にとりあえず入居し、何とか生活を続けておられる。被災した旧商店街の店も2カ所で仮の店を立ち上げた。しかし、本格的な雇用を含む復興策はまったく打ち出されていない。政府もマスコミも復興財源としての増税に力を入れている。「歴史に学ばぬものは歴史(過ち)を繰り返す」という言葉がある。日本は過去20年間経済は低迷し、物価が下がり続けるいわゆるデフレの状態から抜け出せないでいる。こんな時に増税を真っ先に掲げれば経済はますます落ち込み、税収も急激に減って行くのは目に見えている。何故20年間経済成長がなされなかったのか、まったく反省がないまま場当たり的に増税が叫ばれている。1993年-2001年までの米国クリントン政権はそれまでの財政赤字を見事に黒字に転換させた。日本も1990年代初めまでは経済成長を維持して来ていた。経済が成長するというのは国内総生産、GDPが増えるということを意味する。残念ながら日本はこのGDPが名目で減り続けている。(デフレのため実質GDPは見かけ上増えているように見えるのだが)GDPは式で表すと要するに GDP=民間消費+民間投資+政府支出+純輸出 となる。経済が低迷している限りは民間消費や民間投資、純輸出などは決して増えることはない。いくら待っても民間からは何も出て来ない。この状況で増税すれば民間の消費や投資は間違いなくさらに縮小する。この20年間の大きな誤りは政府支出という現在のような経済低迷期に唯一GDPを上げうる手段を使って来なかったことだ。財政赤字を強調し、緊縮財政一本でやって来た結果がこの20年だ。経済成長により財政赤字を解消したクリントンの政策も1990年代初めまでの日本も財政支出があって初めてなし得ていた。財政支出を惜しめばGDPは確実に減少し、税収も当然落ち込む。経済低迷時は逆に財政支出を惜しまず、積極的に投じれば民間投資や消費を促し、GDPは増え、税収も増えて行く。このことは歴史を見れば明らかだ。これほど単純なことを何故政府はやらないのか。政治家たちは今だに新自由主義、市場原理主義の経済学に縛られ、官僚である財務省は目先の財政赤字や税収の増大にのみ縛られている。それがまさにこの20年間であった。財政支出は無論財政支出であれば何でもいいというものではない。経済効率のいいものに投じられなければならないが、生活に密着したものがその意味では以外にも経済効率がいい。医療や福祉、教育などはこれまで軽視されて来たが単年度ではなく5年単位で考えれば極めて効率は高い。地方の生活に密着したインフラへの投入も現状を考えると必要だと思う。次第に明らかになって来た原発の虚像を考えれば新しい自然エネルギーへの基盤整備も日本の技術を取り戻すいい機会になると思われる。いずれにしろ、歴史を見れば今政府がやろうとしていることが大きな誤りであることは自明だ。政権が変わっても経済政策は変わらず、変わらないばかりか一層悪化を招こうとしている。かっては確かにワンパターンの無駄の多い公共投資も含まれていたが、それはまた財政出動の問題とは別の問題としてチェックされねばならい。世の多くを上げて『改革なくして成長なし』に賛意を示した結果はこの長引く経済の低迷であった。「小ブッシュ政策」や「小泉改革」と言った大企業や裕福層に偏重し、有効な財政支出を抑えた新自由主義がいかに経済効率が悪いか、すでに示されている。経済政策などと言っても結局は結果が出なければまったく意味がない。結果の出せなかった政策にいつまでもしがみ付く官僚や政治家を見限る必要がある。
日射しを浴びたサフラン

遠野の田園が教えてくれるもの

2011-09-28 19:19:14 | 文化
昨日は娘を花巻空港に迎えに行くのに少し家を早く出て、遠野の田園地帯をのんびり見ながら行った。気温も24度まで上がってとても気持ちがいい天気になった。遠野では稲刈りが終わったところも出始めており、昔ながらの稲架(はぜ)が並んでいるところが見られた。東北はおいしい米を作るためにしっかりと天日干しをするところが多い。ただ米を作るのではなく、おいしい米を作ることにこだわっている。かっては日本全国どこでも見られた稲架掛けも機械化で簡略化されて、刈られた稲がその場で機械で脱穀されて行く。労働としては確かに楽になるだろうが、米の本来の味が生かされなくなる。さすがに東北はその味にこだわりを見せてくれる。娘を迎えた帰りにこうした話を娘にすると、娘は東北は水もいいからなお米がおいしいのでは、と言った。豊かな山から流れ落ちた川の水は作物にも豊かな養分を恐らく与えているのだろう。秋の空が広がる下で稲穂を揺らす風にのって赤トンボがたくさん飛んでいた。すでに稲刈りを終えた田ではたき火の煙をたなびかせていた。車の開いた窓から入って来るその煙はどこか懐かしささえ感じさせてくれる。道路沿いには大きく育った鶏頭の花が並んでいた。生まれ育った四国では田畑が埋められ、新しい道路が交錯し、長く伸びた砂浜も埋められ、すっかり様変わりしてしまった。確かにそれで経済は「成長」したのかもしれないが、その成長はほんとうに幸せな生活をもたらしているのだろうか。現在の人々の生活を得るために必要な代償だったのだろうか。あらゆる分野の専門分化はそれぞれの発展のためには必要な条件ではあるだろうが、それだけでは全体としてのバランスのとれた発展は望めないのではないだろうか。個々ばらばらに「発展」して来た結果が現在の姿のように思える。道路は道路のために、家は家のために造られ、総体としての町はつぎはぎだらけのいびつな町の景観を呈しているのが日本の現在の町の状態だと思う。別にこのことは町の景観だけのことでもない。様々の分野でこのいびつさを感じる。戦後の焼け野原の中から経済を立て直し、しゃにむに欧米を追いかけ、先進国の仲間入りができるまでに確かになったが、そこで果たして人々の生活が楽で豊かな状態になったのだろうか。気が付いてみると教育は低下し、医療は崩壊しかけており、高齢者の生活は先行きが不安な状態におかれている。共働きでなければ生活を維持出来ない人々が増え、若年者は就労に当たり、選択などという贅沢は許されない。何かが間違っていたのだろう。国民一人一人が豊かな気持ちを持って生活出来る国というものを創ることは不可能なのだろうか。今の日本を見ているとむしろその対極にあるように見える。あまりにも国民の生活がないがしろにされ過ぎている。衣食住と言う生活の基盤にお金がかかり過ぎるため余裕のある生活ができない。今回の福島第一原発事故を見ていてもあれほど住民の被曝が放置される国だとは思ってもいなかった。その後の政府や東京電力の対応も全く被害者の救済には消極的な姿勢を続けている。日本の国は政治家があまりにも見識がなく、結局は官僚がお膳立てをして成り立って来た国だと思われる。その官僚が先日経済産業省を辞任した古賀茂明氏が言うように「国民のために、ではなく、省益のために」働くために大きく国がゆがんでしまっているのではないか。官僚として踏み出した当初はみんな理想を持って国のためにやろうとするのだが、何年間かの間に先輩たちから省益を優先する人が評価されるのを見て、少しずつ若い官僚も変質して行くのだと言う。古賀茂明氏はこの官僚の評価システムを変えない限り、日本はいずれ崩壊の道を辿ると明言されておられる。新しい政策が出るたびに、そこにその担当省庁の利益になるものが必ず付随することになるという。その付随したものは決して国民のためのもではない。官僚たちの天下り組織であったり、その省庁の裁量で自由に使える財源であったりする。要するに国民の側から言えば無駄な財政の支出に当たる。国土交通省は独自に道路や橋を造り、農林水産省は独自に田畑を加減し、山林を破壊し、漁港を「整備」して行く。各省庁ばらばらに「勤め」を果たして行く。本来は政治家がビジョンを提示して全体を見通す役割を持つが、そうした見識を持った政治家は日本ではとっくにいなくなっている。遠野の田園地帯をのんびり走っているとゆがんだ日本の姿が見えて来る。だから時々はこうしてのんびり田園地帯を走ってみたくなる。
実り

捏造されて来た原発像

2011-09-27 19:42:23 | 文化
釜石では年に何回かきれいな夕焼けを見ることが出来る。昨夕がちょうどその機会の一つだった。わずかな時間で瞬く間に色が変化して行く。まわりより少し飛び出した愛染山がたそがれの澄んだ空気の中で静かに浮き出ていた。今朝は晴れた朝のため長袖でも肌寒く、家の二階の屋根より高く伸びたモミジの木にやって来た百舌が甲高く一声発してまた飛び去った。秋らしい筋雲が空を覆っていたがそのうち低い雲も増えて来た。1週間ほど前20歳くらいの若者4人が経済産業省前で行っていた10日間のハンガーストライキを終えた。4人のうちの一人は山口県熊毛郡上関町に移り住んだ青年だ。子供の頃夏になると毎年泳いだ瀬戸内海に今2カ所目の原発が建設されようとしている。愛媛県にはすでに伊方原発が四国電力によって造られており、中国電力はほぼ同じ経度の位置に上関原発を建設しようとしている。瀬戸内海はこれまで台風も比較的大きな災害をもたらすことはなく、一見問題がないように思われるが伊方原発とこの上関原発の間を中央構造線が走り、活断層のまっただ中にある。静岡県の浜岡原発もそうだが何故こうした断層を無視して建設が進められるのだろう。中央構造線に沿った活断層に起因して地震が起これば近距離になる伊方原発と上関原発の両者が同時に事故を起こす可能性が高い。そうなると松山や九州の別府温泉などはひとたまりもない。伊方原発の3号機はプルトニウムを含むMOX燃料が使われている。福島第一原発の事故の詳しい解明もなされないまま来夏までに再稼働を行うという方針だけが決定されてしまっている。日本航空のように一旦会社更生法を適用して東京電力も整理してすべての資産を出させた上で不足分を税で賄うと言うのならば納得もできるが、企業として温存したまま国民に税として東京電力が本来負わなければならない分まで負担させらることはとても納得出来ない。一度こうして東京電力と言う民間企業を温存すれば、今後さらに原発事故が起きた場合もまたその電力会社を温存し、常に当事者の責任を問わないまま負担だけを国民に負わせる構造が出来上がってしまう。以前原発がなくとも電力会社以外の民間の発電設備で十分補うことが出来る、と書いたが、その後調べてみると電力会社の既存の設備だけですでに十分補うことが出来る状態だったことが分かった。原発がなくとも電力会社自体でそれを補えるのだ。東京電力は自社のホームページに資料を載せているがそこには設備利用率(稼働率)が出されていないので、その部分は資源エネルギー庁の統計を利用する。東京電力HPの資料III. 電力供給設備を見ると、東京電力の認可発電出力は水力898、火力3,818、原子力1,730(単位はすべて万KW、少数以下切り捨て)となっている。また資源エネルギー庁の平成22年4月度の発電設備利用率を見ると東京電力は水力93.3%火力44.8%、原子力56.9%、風力9.5%となっている。東京電力は原子力で実際に発電している量は従って984万KWである。一方火力発電は稼働率が44.8%であるから55.2%も稼働されていない予備設備があり、これを使うと2107万KWの電力量を供給でき、原子力による発電量984万KWをはるかに超える。同じ東京電力のHPの表にある10電力会社の合計でもやはり全国の原発を止めても全国水準では火力発電所設備で十分補える。水力発電などは原子力発電のための揚水発電を含めても14%しか使われていない。原子力発電は不具合が多く、稼働率をなかなか上げられないため電力各社は予備に水力や火力をいざという時のために温存して来たのだ。さらに価格面でも実際には原子力発電の方が高く付くことを立命館大学大島堅一教授が明らかにしている。著書『再生可能エネルギーの政治経済学 』で詳しく論じておられる。2003年12月16日、電気事業連合会は「モデル試算による各電源の発電コスト比較」を発表し、40年運転では原発は1KW時あたり5.3円、法定耐用年数運転では7.3円とそれぞれ最も安いと強調している。しかし、こうした仮定をおいたモデル計算ではなく、過去40年間に実際にかかった費用をもとに大島堅一教授が計算してみると決して原発は安いものではないことを明らかにされ、昨年9月7日第48回の内閣府原子力委員会でもその事実を述べておられる。電力各社の『有価証券報告書総覧』を基礎に算定すると原発8.64円、火力9.80円、一般水力3.88円となり、まして事故が起これば他の発電に比較出来ないとてつもないコストがかかるものとなる。しかもこの原発の価格には財政支出としての開発費用、立地費用などは含まれていない。同教授は今後の使用済み燃料の再処理のかかえる多くの経済的問題も上げられている。半分の使用済み燃料だけでも再処理に11兆円が見込まれるにもかかわらず、その結果、再処理されて作り出された燃料価値はわずか9,000億円にしかならない。全く経済を無視した、とても採算の合わない処理を行おうとしている。「安全神話」も「安い原発」も「原発がなければ電力不足になる」ということもすべてが偽りであった。
今日の遠野の荒神神社 右手に早池峰山が眺められる。稲穂の上を赤トンボが舞っていた

自然の中の生活

2011-09-26 19:33:32 | 文化
今日は雲が少し多いようだがとりあえず晴れてくれている。昨夜は星空が広がっていたのだが。どちらにしてもやはり晴れている方が気持ちがいい。今週末に釜石へ帰って来る予定だった娘は来月の米国行きのためのパスポートの関係で急遽明日釜石へ戻らねばならなくなった。大阪でもう少し大阪の人たちと会っておきたかったようだが仕方がない。この2週間余りの旅行でもずいぶん多くの人と出会ってまた釜石とは違った多くのことを学んだようだ。ところで、釜石へ来てから釜石が製鉄所の残映に囚われていて、自力で釜石の再生に取り組む姿勢が見られないことを残念に思っていた。東北は基本的にどこも同じなのかも知れないが、自然の豊かさを生かした再生こそが東北らしさの強みだと思っている。釜石周辺には活用されていない高原がいくつかあり、その土地の利用によってこの豊かな自然は十分に生かせるのではないかと思っている。以前にも書いたが福島市には個人が長年かけて作り上げた花見山という名所がある。山一面が春には花で埋め尽くされる。全国から観光客が集まり、その時期は自家用車が制限されるほどの集まりになる。釜石にも遊休地を利用してこうした花の楽園を造ることで人に見てもらい、そこでは山海の物産の販売もやればいいと思う。花は春だけではなく花が長く咲くこともうまく取り入れて、できるだけ冬以外はいつでも花が咲いているような花の構成にする。花はできるだけ日本に古くからある花を中心にして、野草もそうした花の一つとして積極的に取り入れる。会場はすべて自然エネルギーで賄う。釜石は遠野とは異なり歴史が浅いため歴史では主張するものがない。あるものは唯一溢れんばかりの自然だ。しかし、そこに多くの地元の方たちが気付いていない。釜石へ来てからいつも聞かされて来たのは「釜石には何もない」という言葉だった。何もないどころかこれほどまでに豊かな自然が目の前にある。古老たちは自然の食材の良さを生かした料理法を身に付けている。いずれも地元の人にとってごく当たり前にしか見えないものだが、とても貴重な宝だ。それが見向きもされないために失われて行く可能性だってある。調理法を伝承して行くためにも古老たちが伝える山海の食材を使った料理を花を見に訪れた観光客たちに食べさせる。そうした場としても使えるだろう。子供たちには近辺に伝わる民俗遊具を作らせる。虎舞やわずかに残されていると言うナマハゲなども披露する。唐丹の和太鼓なども加わればなおいいだろう。3月11日以前はいつもこんなことを考えていた。しかし、3月11日以降単に津波のせいだけではなく、むしろ放射性物質のためにこの貴重な自然が台無しになってしまった。日本時間の24日首相が国連で話終わって建物から出て来たところへ「「野田首相、福島の子供達を守れないで原発の安全を世界中に言うなんて卑怯だ」と訴えた主婦がいた。福島県川俣町で農家をやっていた53歳の佐藤幸子さんだ。10代の子供二人をつれて米国に渡り、農家の立場から原発の廃止を訴えて歩いている。「去年と何も変わっていない美しい福島の風景の中に確実に放射能は存在しています。3月11日を境にして一変してしまいました。農民が農地を捨てなければいけないこのつらさが皆さんにお分かりになるでしょうか。安全な原発は一つもないのだということを学んで下さい。子供達の命のことを思えたら今やらなければならないことは自ずと分かるはずです」と米国人たちを前に訴えている。子供を守り、大地を守って来たしっかりとした声で話されている。首相の官僚が書いたものをただ読み上げるのとは比較にならない。この声こそが「民の声」だと言えるだろう。先日遠野へ行くのにわざわざ仙人峠を通る旧道を行ったが、そこを通りながら、この曲がりくねった山道を少し前までの人たちは歩いて遠野の間を行き来したのだとしみじみ考えさせられた。そこを歩いた人たちと米国で訴えた佐藤幸子さんとは何か共通の揺るがないものを感じる。そしてこうした人たちの声を無視する社会というものはいずれ国のほんとうの大黒柱を失って行くのだろうと思う。3月11日は福島の土地を奪っただけではない、福島の海も奪ってしまった。自然を相手にそこで育んで来た生活が根こそぎ奪われてしまったのだ。
木立朝鮮朝顔 中南米やインドが原産で夜芳香を放つ

盛者必衰の理

2011-09-25 19:25:31 | 文化
朝から日射しが刺すとやはりこの時期は気持ちがいい。午前中は雲が北北東へ流れていたが午後は東へ変わり、夕方再び北北東へ流れた。夏が突然終わっていきなり秋深くなってしまった。日陰にいると長袖でも寒く感じる。子供の頃住んでいた四国の家は今と違って木造の日本家屋で、日中は開放された三方から風が家の中を通り過ぎて行った。秋もこの東北よりはもう少し気温も高く、寒さを感じない風で、夜も開け放たれた縁側で明るく月に照らし出された夜空を寝転んで見ながら虫の声を聞いていた。近くの笹薮の風に擦れる音も混じる。その頃まだ健在だった祖母が時々口にしていたのが「驕れるものは久しからず」という言葉だった。子供の頃はよくは分からなかった。後に平家物語の「娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず」から来ていることを知った。洋の東西を問わず歴史を見れば栄枯盛衰は必ず繰り返される。ヨーロッパでは近世以後だけを見てもスペイン、オランダ、英国へと覇権が移り、やがて第二次大戦後は米国に移った。戦後米国の後を追った日本も今や米国とともに翳りを見せ始めた。特に日本は若年労働者が急激に減少しており、その若年労働者ですら今は十分な職に就けていない者が多くなっている。国の本来は指導的立場にいる人たちが国の未来を真剣に考えることより目先の利益にしがみつくようになってしまった。米国の後追いにのみ力を注ぎ、新しい産業の育成を怠り、教育の低下と医療の破壊を進め、若者たちを後ろ向きにさせてしまう社会を生み出してしまった。世界の大国ではある日本だから一挙に崩壊することはないだろうが確実に衰退の道を歩み始めたことは間違いないだろう。85歳になられる方が「どうして日本はこんなになってしまったんでしょう」と嘆かれておられた。それでも現代のすばらしいことの一つにインターネットがある。あらゆる情報が流れている。個人の取捨選択で様々の情報にはアクセスすることができる。ほとんどまずTVを見ることもないが、新聞各社はウェブサイトで主要な記事を載せてくれるし、話題になったTV番組も動画サイトで見ることも出来る。海外のサイトも自由にアクセスできる。3月11日直後に米国は無人飛行機を福島上空に飛ばしていち早く放射性物質の広範な飛散を掴み、直ちに日本近海の空母を退避させ、日本在住の米国民も福島第一原発から80Km以上へ退避させたり、帰国させた。日本のマスコミでは「おおげさだ」と笑っていた。実際にはむしろ笑っていたのは米国初め他国だったろう。チェルノブイリ原発事故当時の旧ソ連の避難規準よりはるかに甘い規準で自国民を被爆させ、子供たちを守ることをしない国など世界ではとうてい考えられなかったろう。人の命を大事にしないのは太平洋戦争の時だけではないことが世界に知れ渡った。ろくに食品検査や除染をしないまま来夏までの原発再稼働を口にし、国連で今だに「原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」などと世界最大の原発事故を起こした国の首相が発言しているのだ。世界にとって認められるはずもないだろう。すでに世界の各紙がいかに日本の原発管理が杜撰だったか知っているのだ。そこには「原子力村」という言葉すら引用されている。そこに集う学者たちのレベルの低さも衆知のことなのだ。世界はだれも首相の言葉など信じないだろう。18日教育テレビでNHKは「原発事故への道程 前編ー置き去りにされた慎重論」を報じた。米国CIAと手を結んで原発担当大臣となった正力松太郎は自ら会長となって原子力委員会を立ち上げた。これに参加した日本人最初のノーベル物理学賞受賞者である湯川秀樹は正力の科学者を無視した推進ありきに怒り、辞任したことから原子力推進は始まった。後に電力会社が参入することでさらに経済性が優先され、安全性はますます無視されて行く。国全体の未来を考えることなく目先の情勢だけを見据えて推進されたものがいかに国の滅びを招いて行くか、いい例だろう。原子力という今でも科学的に未知のものをこれだけ無防備に国内中に広げてしまった。地震や津波から比較的遠い米国や英国のものを導入して日本固有の対策すらしっかりととろうとはして来なかったのだ。この流れは今も続いている。
栗の実

自然のすばらしさ

2011-09-24 19:23:10 | 文化
今日も朝はよく晴れていた。ここ1週間は晴れの予想だ。ただ今日も昨日と同じく昼頃から雲が多くなって来た。気温も20度を切るため夜は長袖でも寒く感じる。庭の紫陽花が今朝見るとまた1輪だけ新しい花を咲かせ始めている。9月も終わろうとするこの時期でも紫陽花が咲く。通勤途中でも新しい紫陽花が咲いているのをまだ見かける。釜石の気候は植物にとても合っているのだと思う。暖流のせいで内陸ほど冬も寒くなく、夏は高温の期間が北海道ほど短くもない。日照時間も長い方なので尚植物には適当なのだろう。娘は息子とともに昨日御殿場から大阪に戻った。今日は久しぶりにゴスペルを歌いに行くだろう。また1週間ほどすれば釜石へ戻って来る予定だ。3月まで今の活動を釜石で続けることになる。ちょうど今日の復興釜石新聞に娘が一緒にNPO法人で活動させて頂いている人が県の委託業務で始めた釜石・大槌地区の復興情報誌「キックオフ」の創刊の記事が出ていた。早速娘にも知らせておいた。震災後釜石で活動するようになった娘は多くの人たちの支えに恵まれてこの半年間に見ていてもずいぶんと成長した。親としてはとても有り難い話だ。幸い娘も釜石という土地も気に入ってくれた。釜石は県下の他の場所ほど歴史は古くないが自然だけは豊かで、匠の方のところで味わった山菜に魅入られてしまった。すっかり山菜好きになった。これから採れるキノコもほんとうは味合わせてやりたいが、キノコは特に放射性物質の濃縮が強いので残念ながら容易には味合わせてやれそうもない。四国に限らず日本全国どこへ行っても山はたくさんあるが、東北の山は他所とかなり違う。落葉樹が圧倒的に多いのだ。従って冬には葉の落ちた木だけが残される。そこに雪が降った景色はまた独特の景色だ。地面に落ちた葉は豊かな腐葉土を自然に生み出し、種々の植物の生育を助ける。豊富な植物はさらにそこに住む動物たちにも豊かな食物を提供する。東北の山はこうして循環型の豊かな動植物の楽園を生み出して来た。清流には天然の淡水魚も豊富で全国から太公望が集まって来る。北海道の道東でも平地を流れる川に天然の淡水魚がたくさんいたが、東北の山奥の清流にいる淡水魚とはまた違っていた。東北の人があまり入らない山中の清流には魚体の大きいものがたくさんいた。野鳥も豊富で冬の渡り鳥はもちろんだが、1年を通して見ることの出来る野鳥も豊富だ。一時意気込んで野鳥の写真を撮ろうといろいろ考え、野鳥撮影用の天体望遠鏡まで準備したが、いざ、撮りに行こうとすると重く、面倒なことがネックとなって断念してしまった。カメラ用の野鳥撮りレンズは高額でしかも重い。野鳥撮影の世界では大砲レンズと言われている。それさえも焦点距離は600mmで、状況によってはさらに1.4~2.0倍のテレコンバータを付け足して、840~1200mmまで伸ばさないと拡大写真が撮れない。うまく撮れた野鳥写真を見るとほんとうに自分でも撮ってみたくなる。かえって野鳥撮影に関しては釜石のように山の中に野鳥がいる環境より、都会の都市公園のあるところの方が撮影にはいいのかも知れない。比較的に野鳥も人になれているせいでさほどの望遠レンズを使わなくても撮れることがある。公園を歩いていて偶然すぐそばに舞い降りて来たヤマガラや、ふと見上げた枝にコゲラを見つけたり、むしろ偶然に左右はされるが近くで撮るチャンスはある。日射しに透かされた紅葉を背景にした野鳥の姿などは見ていて飽きない。広くはないが家の庭も毎日よく見ていると虫も様々にいる。子供の頃からよく見かけた虫から名前も知らない虫や変わった虫までじっと見ているとこちらも飽きないことがある。夕方庭の大きなモミジの木にたくさんのスズメがやって来てうるさく鳴くのも恐らく木に付いた虫たちを啄んでいるのだろう。今の時期はジョロウグモが結構クモの巣を張っている。ちょうど台所を出たところに数日前から小さな雄が巨大な雌を狙っているのを発見した。今のところ雌に食べられてはいない。見つけてしまうと食べられてしまうのではないかと心配になりついつい毎日見てしまっている。クモの巣を張る様子も見つけるとその驚くほどの精緻さに感心させられる。ほんとうに自然界はすばらしいとあらためて感じる。
咲き始めている我が家の額紫陽花

巨大な雌を狙ってじっと耐えている雄のジョロウグモ

今やまぶし過ぎるほどの理念

2011-09-23 19:26:25 | 文化
午後から曇って来て夕方には小雨も降ったが今朝は久しぶりに晴れてくれた。白雲がゆっくりと東へ流れて行く。家の中に迷い込んだコオロギを何匹か外へ逃がしてやったが、その後もまた別のコオロギが迷い込んで来る。今日も家の中の2カ所からコオロギの鳴く音が聞こえて来た。庭のコオロギたちの鳴くのに呼応しているのだろう。日が刺す庭で秋風に揺れる葉影は一層すがすがしさを感じさせてくれた。作者不明の万葉歌「秋風の寒く吹くなへ我が屋戸の浅茅が本に蟋蟀鳴くも」が我が家の庭に自然に溶けあって来た。この数日間の雨で庭では逞しい雑草が生気を取り戻してあちこちで伸びている。そこには花を咲かせた雑草も多い。できるだけ邪魔にならないものは抜かないでそのまま花を咲かさせている。オダマキや朝顔までどこかから飛んで来たのか枝を伸ばしている。以前藤を植えたプランタンに月見草が咲いていたが、大阪からやって来ていた植物好きの息子が知らずに抜いてしまった。今年は我が家では月見草の花を見ることができない。新しく出た「アメイジング・グレイスAmazing Grace」のDVDを見た。娘や息子たちもゴスペルで歌っていた。この映画では日本人の本田美奈子が歌っている。18世紀末の英国の奴隷貿易の廃止が描かれている。帆船ものの小説が好きでたくさん読んでいるが、そうした中でも英国の帆船が米国やフランスの国旗を掲げた奴隷貿易船を拿捕する場面がよく出ていた。考えてみればリンカーンの奴隷制度の廃止より早く、英国の奴隷貿易の廃止が行われていたのだ。アメイジング・グレイスの歌もかって奴隷貿易船の船長であった英国人が教会牧師となった時に作詞した賛美歌だった。今は英国より米国でよく歌われている。スコットランドやアイルランドの民族楽器であるバグパイプで演奏されることも多い。「Amazing grace how sweet the sound That saved a wretch like me. I once was lost but now am found, Was blind but now I see.」という歌詞を考えているとまるで親鸞の「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」を思い出す。罪深い奴隷貿易に携わった私のような人間をも救って下さる神なのだ、という感謝から生まれた歌だ。今日の東京新聞によると経済産業省の官僚古賀茂明氏が昨日辞表を提出し26日付で正式に退職するという。少し前にも退職するという誤報が流れていたが、今回はひょっとすると本当かも知れない。古賀茂明氏は今月19日の北海道文化放送「U型テレビ」で「官僚って何なのか、・・・公僕、・・・自分より国民のため、人のため」でなければならないと言われている。しかし、現実の官僚は政策に付け込んで必ず自分たちの省益を追及している。18世紀の英国人も現代の一官僚も理念の原点に立って、まぶしいくらいに見えてくる。電力会社や政治家、財界、報道や一部の学者を見ているとその腐敗の構造があまりにも行き過ぎており、古賀茂明氏の著書名の如く、『日本中枢の崩壊』が現実的に思えて来る。番組の中でも具体的に安定した利益を元に電力会社が政・官・財・報道・学者を支配した構図が描かれている。資材調達で高額の取引により財界も頭が上がらない。報道は800億円の広告費で、学者は研究費名目で多額の金銭が投じられる。それら全てがコストに組み込まれる。電気料金の算定はその全てのコストの3%の利益が自動的に得られる仕組みになっている。コストがかかればかかるほど利益が大きくなる総括原価方式がとられている。1400億円かかる火力発電所より、3000億円の建設費がかかる原子力発電所の方が事業固定資産が大きくなるためコストが大きくなり、その分コストの3%利益も大きくなる仕組みのため、電気料金は絶対的に下がらない。効率の悪い原発が増えれば増えるほどコストが重み、3%利益はさらに大きくなる。電気料金に含まれる税金は一般会計ではなく特別会計扱いのため国会のチェックが働かず、経済産業省の官僚たちの裁量下におかれ、省益の追及に利用されて行く。一般会計80兆~90兆円に対して、官僚たちがほとんど自由に使える特別会計は400兆円近い。こうした構図が温存される一方でろくに除染も行われないまま福島第一原発周辺の緊急時避難準備区域の解除が今月中に行われさらなる被曝にさらされ、農産物や観光業への補償が十分でないため生業が成り立たない状態に置かれた人たちがいる。
茅萱 (ちがや)

怠慢の付けだけが回されて来る

2011-09-22 19:17:23 | 文化
台風15号は夜半に岩手付近を通り過ぎたが、多量の雨で二戸市で土砂崩れがあったようだ。釜石では甲子川が増水していたがさほど大きな被害は出ていない。岩手に来てから台風はどうも岩手では風がさほど強くないように感じる。四国では台風と言えば雨と風が強いものと思っていた。木々が倒れるなどは当然くらいに考えていた。しかし、岩手で経験する台風はこれまで強い風には出会ったことがない。さすがに今回の台風は強い風が吹くのではないかと覚悟していたが。おかげで外の犬たちも被害を受けなくて良かった。昼頃から晴れの予想だったがむしろ小雨がぱらついたりしていた。職場の裏山ではシジュウカラの群れが飛び交っていた。一昨日甲子川に架かる大渡橋から鱒の大群が遡上しているのが見られたと匠の方からお聞きしてちょっと不安になった。川一面に真っ黒になるほどの大群だというのが気になった。唐丹地区の漁師さんの話では3月11日の地震の前に近年になく魚が陸岸に大量に寄って来たと聞かされた。古老の話では昭和や明治の三陸地震の際にも同じように地震の前に大量に岸辺で魚が獲れたという。沖合の震源地での異常から逃れた魚が岸へ逃れて来たのだろうと思う。ここのところマグニチュード5以上の余震が続くので尚気になった。しかし、地元の漁師の方たちと親しい職場の匠の方の話では海では特に大量の魚が見られているわけではないと聞かされて多少は安心した。今また大きな地震と津波がやって来ると釜石の無防備な海岸沿いはたちまち津波をあっさりと受け入れて、さらに被害を大きくする可能性が強い。過去の歴史や地震研究者たちの予測でも確かにもう一度三陸近辺で大地震が起きる可能性は否定出来ない。今日の東京新聞によれば首相が「定期検査で停止している原発を遅くとも来年夏までに再稼働させる意向」を表明したことに与野党から批判が出ている。日本の原発はもともと先進諸外国の原発と比べてもトラブル発生率が高く、稼働率も悪い。本年2月15日付けの日本原子力産業協会の「わが国原子力発電所稼働率の低迷と 今後の課題」と題するレポートや2009年12月の経済産業研究所の「原子力発電所の稼働率・トラブル発生率に関する日米比較分析」でもそのことが触れられている。稼働率などは30%もの開きがあり、とても効率的な発電などとは言えない状態だ。東京電力原子燃料サイクル部部長を務めた拉致被害者家族連絡会の副代表だった蓮池透氏は「稼働率が上がらないし金食い虫だけども原子力は特別だという見方が他部署にあった」「原子力は安いという「神話」がありますが、内部の雰囲気では逆ですね。原子力は故障ばかりで稼働率が上がらないうえに安全対策にも莫大なカネがかかる。資材部門からは原子力はカネがかかりすぎるとよく言われていました。」と「世界」8月号で語っている。財界関連の研究所は最近再び原発が稼働しなければ電力不足に陥り、産業活動が障害され、国内産業が低迷し、日本経済がますます悪化するとレポートしている。電力の発送電分離には一切触れず、現状を追認するだけの前提に立ったものでしかない。発送電分離まで行かなくとも一般の発電事業者に送電線を解放するだけで既存の設備がフル活用されれば電力供給は十分満たされる。送電線を規制したままで電力業界が送電を支配した現状を維持すれば当然電力供給が不足するのは当たり前で、発送電を独占させていることがむしろネックになっているのであり、発送電を分離すれば一般の発電業者も活性化され、自然エネルギーの開発も触発されて、今以上に電力料金は下げられる可能性が出て来る。年間2兆円も原子力発電関係に国費が投じられている一方で自然エネルギーにはわずか6500億円しか投じられていない。フランスのル・ポワンLE POINT誌は今年3月東京電力の福島原発6基の損害賠償保険が2010年8月以来切れたままであることをスクープしている。東京電力は保険料が高過ぎるとして、保険の更新をしなかったという。東京電力は電力料金を上げることで賠償や事故収束の経費を確保しようとしている。自らのミスをすべて国民と電力需要者に押し付け、資産の保全を図っている。政・官・財・報道に加え、多くの学者がこうした東京電力の状況に口を閉ざしている。すべてが利権がらみになっている。こうした通称「原子力村」の結束は容易には崩せないのだろう。国民だけが常に重荷を負わされる。
八重の白菊

自然と科学

2011-09-21 19:20:50 | 文化
昨夜は半袖だとさすがに寒く急遽長袖に変えた。それでもまだ寒く感じるほどだった。恐らく10度近くまで気温が下がっていたのだろう。今回の台風15号も広い範囲で記録的な雨量になっているようだ。通常の台風は陸地に近づくと勢力が衰えるが、台風15号はむしろ中心気圧が1日で35ヘクトパスカルも下がって、勢力が増強している。暖かい海面から大量の水蒸気が供給されているために記録的な雨量になっているのだという。進路が大きく変わらなければ福島や岩手も直撃される可能性が出て来る。やはり地震や津波同様に自然現象はいくら現代科学が進んでいると言ってもまだまだ未知の部分が多い。事後的に解明はされてもあらかじめ予測することは簡単ではない。コンクリートは津波に強いと言われていたが3月11日の津波はあっさりとそのコンクリート構造物を破壊した。通常の津波は常流と呼ばれ、水面の上昇や速度もゆっくりしているが、高所から一気に流れ落ちる射流を伴った津波は震源付近で急激に海面を持ち上げて、陸に近づくとさらに高さが増して、陸地に至ると高いところからどっと流れ落ちて凄まじい破壊力を示す。今回の震災では三陸沿岸にはこの射流を伴った津波が押し寄せ、三陸沿岸の南の宮城県や福島県へは常流と射流の余波が重なって襲ったようだ。これらのこともあくまで事後的なデータ解析で分かったことだ。昨日政府と東京電力は福島第一原発の1、3号機で「冷温停止状態」の条件である「原子炉底部の温度が100度以下」を達成したと発表した。原発から放出される放射性物質の量も最近2週間に推定毎時2億ベクレルと事故直後の最大放出量の400万分の1まで大幅に減少したとしている。あたかも収束が近いことを臭わせるような内容だ。しかし、いずれの原子炉もメルトダウン、メルトスルーしており、核燃料はすでに原子炉内にはない。そこの温度を測っても高温になっていないのは当たり前だ。建屋の基礎になっている厚さ4mのコンクリートすら融けて、核燃料は地下に埋没している可能性が強いのだから、地下水の湧出と考え合わせれば、むしろ核燃料から放出される放射性物質は地下水へ流れ出ていて、汚染処理水は見かけ上放射線量が下がっている可能性がある。未だに建屋に人が入って実態をつかむことが出来ない状態にもかかわらず、コントロール下にあるようなそぶりをしているだけでしかない。メルトスルーという人類が未だ遭遇したことがなかった事態に今回初めて至ったわけで、地下まで落下した可能性のある核燃料をどう処理するのかそう容易な話にはならないだろう。事故以来政府や東京電力の発表がそのまま信じられないことを何度経験させられて来たか。食品の安全規準もでたらめばかりであることは昨日の中国新聞でも報じられている。「汚染された食品や家畜の餌、土壌などについて、国はさまざまな暫定基準値を場当たり的に打ち出した。一見すると、ばらばらな数値が混在し「飲料水よりも、海水浴場の海水の基準値が厳しいのはなぜか」といった疑問や不満の声が根強い。」「牧草の基準値を聞いたとき『1桁間違えているんだろう』と思った。どうして人の主食のコメより牛の餌の方が厳しいのか理解できない」など。もともと食品の放射性物質の基準値はなく、事故後に厚生労働省は原子力安全委員会により示された「飲食物接種制限にかんする指標」を根拠として暫定基準値を設けた。しかし、この「飲食物接種制限にかんする指標」は平成22年8月23日の原子力安全委員会決定の「原子力施設等の防災対策について」によれば「この指標は災害対策本部等が飲食物の摂取制限措置を講ずることが適切であるか否かの検討を開始するめやすを示すものである。」となっている。「検討を開始するめやす」でしかないのだ。しかも環境省はまた厚生労働省とは異なった算出方法で別の規準を設けたりしている。すべての対策が「東京電力、原発維持」が大前提であるためあまりにもいいかげんな対策になってしまっている。一昨日、日本原子力学会秋の大会で学者たちは次々に「想像力の乏しさ」を反省する弁を述べた。その一方で学会会長は「原子力エネルギーは必要不可欠」とも述べている。要するに自分たちには何の責任もなく、このまま原子力開発を押し進めましょう、という会で終わっている。彼等に「乏しい」のは原子力の「危険意識」と被爆者への「共感」だ。
彼岸花 昔はあぜ道にたくさん咲いていた