釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

三陸の被災地で

2011-09-02 19:11:14 | 文化
雨が続き台風が近づいたせいか風も出て来ている。そんな中でもセミの声に変わって虫たちの声が賑やかに聞こえて来るようになった。毎年必ず家の中まで入って来たコオロギが鳴いてくれる。可哀想なので姿を見るとできるだけ外に出してやっている。草むらから雨音に混じって鈴虫やコオロギの声が聞こえて来るのも結構趣がある。先日U先生が釜石へ来られた際平田地区のコミュニティ型仮設住宅に関して市長、副市長や担当部課長、係長に同じ職場で市の役職を兼務されておられる同僚の方も交えて会議があった。娘もU先生とともに同席させていただいていたのだが、後日、職場の同僚の方から娘のことで過分のお褒めの言葉をいただいた。会議の場でまさか娘が発言するとは予想されておられなかったが、娘がしっかりとした言葉で自分の意見を述べ、聞き入る人たちをうならせたということだった。どういう内容かよく理解出来なかったので、帰宅後娘に何を発言したのか尋ねてみた。仮設住宅ではこれまで多くの外部からのボランティアによってイベントが行われて来ているが、いずれもほとんどが単発的なものばかりで継続性がなかった。仮設住宅でボランティアとして被差者の方々の話をたくさん聞いて来た娘にとって、単発的なイベントが被災者の人たちの継続的な元気づけには十分でないことを感じていた。もともと釜石という地方都市自体にも都会のような趣味で集まるコミュニティも欠けていた。そんなところから会議ではせっかく市が仮設住宅に碁や将棋盤などの娯楽道具を配布するのであればそうしたものを通じて継続的な人の交流の場になるような手を打つ必要性があるのではないか、ただ娯楽遊具を配布して終わりというのでは遊具が生かされない、という意味のことを述べたようだ。職場の同僚の方の話では市の担当の役職者はいわばその部署のプロであり、そのプロを物怖じすることなく意見を述べてうならせたことに尚驚かれたということだった。ただこの同僚の方は同時に危惧も抱かれ、娘が変に自信を持ち過ぎることを心配もされておられた。現在のように震災後という平時とは異なる状況だからこそ得られた場であったことや、娘がより被災者の方々に近い位置にいたからこそ得られた考えであったことなども考慮する必要があることを指摘されておられた。親としてはこうした場を与えていただいたことや、こうした適切なアドバイスをして頂ける同僚の方に深く感謝するばかりだ。偶然にも震災2日前に大阪から釜石へやって来たために釜石で震災に遭遇し、以来釜石で当初は職場を手伝い、その後はボランティアとして被災地を回る中で若い娘は親から見ていても確かに大きく成長して来ていた。やはり若さというものは違うのだ、と強く感じさせられていた。わずかな期間ではあっても状況が状況なだけに現実と関わる中で急速に学んで行った部分があったのだろう。U先生や同僚の方やNPOの方々はじめ、職場や地元の匠の方々のおかげでとても貴重な経験をさせていただいた。釜石と言う地方の小さな都市だからこそ得られた人との関わりだと思える。仮に大阪であればとてもこれだけの貴重な人との関わりは望めなかっただろうと思う。釜石は東北一般がそうであるように自然が豊かであるだけではなく、都会に住む人たちが忘れかけている人のぬくもりが残された貴重な地域でもある。そこへこうした震災が訪れれば尚、そのぬくもりが目立って来る。娘自身も釜石へ来て以来、大阪や東京では経験しなかった人からの暖かい支援の手を何度も経験して来たと語っていた。時には涙さえにじんで来てしまったこともあったと言っていた。大都会で経験した虚しい言葉だけの仲間意識ではなく、実際に示された支援を通じて感じた仲間意識がここにはあった。
野辺の狗尾草(えのころぐさ)