釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

自然の中の生活

2011-09-26 19:33:32 | 文化
今日は雲が少し多いようだがとりあえず晴れてくれている。昨夜は星空が広がっていたのだが。どちらにしてもやはり晴れている方が気持ちがいい。今週末に釜石へ帰って来る予定だった娘は来月の米国行きのためのパスポートの関係で急遽明日釜石へ戻らねばならなくなった。大阪でもう少し大阪の人たちと会っておきたかったようだが仕方がない。この2週間余りの旅行でもずいぶん多くの人と出会ってまた釜石とは違った多くのことを学んだようだ。ところで、釜石へ来てから釜石が製鉄所の残映に囚われていて、自力で釜石の再生に取り組む姿勢が見られないことを残念に思っていた。東北は基本的にどこも同じなのかも知れないが、自然の豊かさを生かした再生こそが東北らしさの強みだと思っている。釜石周辺には活用されていない高原がいくつかあり、その土地の利用によってこの豊かな自然は十分に生かせるのではないかと思っている。以前にも書いたが福島市には個人が長年かけて作り上げた花見山という名所がある。山一面が春には花で埋め尽くされる。全国から観光客が集まり、その時期は自家用車が制限されるほどの集まりになる。釜石にも遊休地を利用してこうした花の楽園を造ることで人に見てもらい、そこでは山海の物産の販売もやればいいと思う。花は春だけではなく花が長く咲くこともうまく取り入れて、できるだけ冬以外はいつでも花が咲いているような花の構成にする。花はできるだけ日本に古くからある花を中心にして、野草もそうした花の一つとして積極的に取り入れる。会場はすべて自然エネルギーで賄う。釜石は遠野とは異なり歴史が浅いため歴史では主張するものがない。あるものは唯一溢れんばかりの自然だ。しかし、そこに多くの地元の方たちが気付いていない。釜石へ来てからいつも聞かされて来たのは「釜石には何もない」という言葉だった。何もないどころかこれほどまでに豊かな自然が目の前にある。古老たちは自然の食材の良さを生かした料理法を身に付けている。いずれも地元の人にとってごく当たり前にしか見えないものだが、とても貴重な宝だ。それが見向きもされないために失われて行く可能性だってある。調理法を伝承して行くためにも古老たちが伝える山海の食材を使った料理を花を見に訪れた観光客たちに食べさせる。そうした場としても使えるだろう。子供たちには近辺に伝わる民俗遊具を作らせる。虎舞やわずかに残されていると言うナマハゲなども披露する。唐丹の和太鼓なども加わればなおいいだろう。3月11日以前はいつもこんなことを考えていた。しかし、3月11日以降単に津波のせいだけではなく、むしろ放射性物質のためにこの貴重な自然が台無しになってしまった。日本時間の24日首相が国連で話終わって建物から出て来たところへ「「野田首相、福島の子供達を守れないで原発の安全を世界中に言うなんて卑怯だ」と訴えた主婦がいた。福島県川俣町で農家をやっていた53歳の佐藤幸子さんだ。10代の子供二人をつれて米国に渡り、農家の立場から原発の廃止を訴えて歩いている。「去年と何も変わっていない美しい福島の風景の中に確実に放射能は存在しています。3月11日を境にして一変してしまいました。農民が農地を捨てなければいけないこのつらさが皆さんにお分かりになるでしょうか。安全な原発は一つもないのだということを学んで下さい。子供達の命のことを思えたら今やらなければならないことは自ずと分かるはずです」と米国人たちを前に訴えている。子供を守り、大地を守って来たしっかりとした声で話されている。首相の官僚が書いたものをただ読み上げるのとは比較にならない。この声こそが「民の声」だと言えるだろう。先日遠野へ行くのにわざわざ仙人峠を通る旧道を行ったが、そこを通りながら、この曲がりくねった山道を少し前までの人たちは歩いて遠野の間を行き来したのだとしみじみ考えさせられた。そこを歩いた人たちと米国で訴えた佐藤幸子さんとは何か共通の揺るがないものを感じる。そしてこうした人たちの声を無視する社会というものはいずれ国のほんとうの大黒柱を失って行くのだろうと思う。3月11日は福島の土地を奪っただけではない、福島の海も奪ってしまった。自然を相手にそこで育んで来た生活が根こそぎ奪われてしまったのだ。
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