釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

ケネディ暗殺の真実は?

2017-10-31 19:15:22 | 社会
1963年11月23日土曜の朝、寝床から起きるとすでに両親が起きており、TVから悲壮なニュースが流れており、釘付けになった。今もその時の情景が心に残る。35代米国大統領ジョン・F・ケネディが遊説中のテキサス州ダラスで銃撃を受け亡くなった。米国の歴史で現職大統領の暗殺は4度あった。最初は1865年の16代大統領のエイブラハム・リンカーンの暗殺で、1881年の20代大統領ジェームズ・アブラム・ガーフィールドの暗殺、1901年の25代大統領ウィリアム・マッキンリーの暗殺で、いずれも銃が使われている。ケネディ以外の3人は南北戦争の時代を生きた人たちで、いずれも共和党であったがケネディのみが民主党であった。ケネディの直前の34代大統領を務めたドワイト・デヴィッド・アイゼンハワーは1939年の第二次世界大戦が始まった際には中佐であったが、大戦中に瞬く間に元帥にまで昇格した。ヨーロッパの連合国遠征軍最高司令官も務めている。各国との交渉を進めながら、戦略をねった手腕が好まれ、戦後、1953年に大統領に就任するが、ソ連との冷戦状態で、双方が軍備を拡大し、同時に大戦中から軍と軍需産業の拡大を目にして、軍産複合体の驚異的な成長に危惧を抱いた。アイゼンハワーは1961年1月17日の大統領退任時の演説で、この軍産複合体への警告を発した。キューバとの危機を引き継いだケネディはソ連との対立を緩和しようとした。アイゼンハワーも軍事費を削減する方向に動いていたが、ケネディはソ連との対立を緩和しようとしたため、結果的には軍産複合体に危機感をもたらせたと思われる。今月、トランプ大統領はケネディ暗殺事件の資料の公開に踏み切ったが、全ての資料ではない。銃撃犯として逮捕されたリー・ハーヴェイ・オズワルドは2日後にダラス警察署でジャック・ルビーによって射殺された。暗殺事件を調査した政府のウォーレン委員会はあくまでオズワルドの単独犯であると結論付けている。オズワルドはダラスの教科書倉庫ビル6階で、大統領の右斜め後方から銃撃を行ったとされる。しかし、暗殺シーンをとらえていた8ミリ映像のサプルーダー・フィルムでは大統領が頭を後ろにのけぞらせているシーンがあり、前方からの銃撃をうかがわせる。あくまで、委員会はケネディが後頭部から銃撃を受けたとしており、前から銃撃を受けたとする幾人かの目撃証言などとも矛盾しており、何よりも銃撃直前にケネディを近くで警護していたシックレットサービスが遠ざけられ、その一人などはその処置に抗議している。また、ベセスダ海軍病院でケネディの解剖を撮影したウィリアム・ブルース・ピッツァー少佐は1966年に海軍医療センターで射殺死体で発見されたが、自殺として片付けられている。撮影したフィルムには前方から銃弾が貫通している状態を写していた。ケネディは、1961年に在米亡命キューバ人部隊が米国のCIAの支援下でキューバのピッグス湾に侵攻してカストロ政権を打倒しようとした際に、CIAからの米軍による後方支援要請を断った。南ベトナムに駐留していた米軍を撤退させる考えもケネディは持っていた。2013年11月15日に発表された米国のギャラップ社の調査結果では、米国民の61%が「ケネディ氏の暗殺に組織的な「陰謀」があったと思う」としている。米国の軍産複合体はアイゼンハワーの危惧通り、その後も中東やアフリカに米軍を派遣し、介入して来た。平和や民主主義の名で。
清流の紅葉