釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

紀元前の日本の古代

2014-08-29 19:54:36 | 歴史
日本の考古学は土器編年と言う土器の特徴に基づく時代区分と言うとても常識では考えられない方法で遺跡の年代を決めて来た。ごく最近になり若い研究者を中心に欧米なみの放射性炭素を使った科学的な年代測定が取り入れられようになって来た。AMS(Accelerator Mass Spectrometry = 加速器質量分析計)を利用することでごく微量の試料でも測定が可能になった。それにより2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは弥生時代の区分が大きく変わることを発表した。早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行は3世紀中葉となった。当然、縄文時代もこれにより時代が遡ることになった。6500年前に青森県の三内丸山遺跡が北方よりの渡来民である津保化族により形成される。この津保化族以前にすでにやはり北方から狩猟民である阿蘇部族が渡来していた。3000年前になるとシルクロードを経由して中国にやって来たシュメール系の人々と中国の苗族の混血である阿毎族の人々が朝鮮半島から日本海を経て白山の麓へやって来て、三輪山信仰を行なう。その阿毎氏の末裔である安日彦、長髄彦兄弟が2660年前頃に、中国春秋時代の晋の内紛により難を逃れて津軽に漂着した晋の群公子らとともに阿蘇部族や津保化族を含めて荒覇吐王国を建国した。3000年前の津軽には遮光器土偶で知られる亀ヶ岡遺跡が成立しており、三内丸山遺跡と同じく津保化族を主体とする人々の集落であった。狩猟民として山裾に生活していた阿蘇部族は岩木山や八甲田山の噴火で大半を失っていた。八甲田山の噴火が三内丸山の津保化族を亀ヶ岡へ移動させた。この亀ケ岡土器文化は北陸や長野だけでなく、広く近畿にまで広がり、九州へも影響していた。各地で発掘された遺跡からそれは明らかとなっている。三内丸山遺跡の「環状配石墓」はその後の東北、北陸、長野に広がる環状列石、環状列木に繋がるものと思われる。白山、高志(越)、出雲、信濃にはそれぞれ王国が存在していた。これらの王国が後に荒覇吐王国として連合していくことになる。天照(あまてらす)らが中国浙江省の寧波(にんぽう)から対馬にやって来たのは2700年前頃だと思われる。
銭葵(ぜにあおい) 花が一文銭の大きさだったことに由来する