釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

吉浜

2013-09-21 19:42:07 | 文化
今日も晴れて日中は気温も30度近くに上がった。庭の酔芙蓉の蕾がいくつか出て来た。他の彼岸花の芽も少し伸びて来ている。庭に出ると、こうしてどの花かが目を出したり、蕾を膨らませて来ているの目にするのが楽しみだ。無精なので、さして手入れはしていない。水を遣ったり、栄養を補給する程度だ。それでも、植物たちは元気に育って、花を咲かせてくれる。その開いた花を見るのがまたとても楽しみだ。多くは古くから日本で咲いている花たちだ。釜石は気温が植物に合っているため、育ちがよく助かる。 釜石の南に隣接する大船渡市の中でも最も釜石に近い大船渡市三陸町吉浜の本郷地区は1896年の明治三陸大津波で甚大な被害を受けた。当時の吉浜村132戸中の87戸があり、そのうち36戸が流失、半壊し、死者、行方不明者は村の人口の2割にあたる約200人であった。村は村長が中心となり自力で被害を受けた全戸が高台へ移転した。しかし、1933年の昭和三陸大津波では本郷地区以外にも被害が発生し、流失11戸、全壊4戸、半壊1戸、死者、行方不明者は17人となった。行政が2年で高台移転地を造成し、移転が行なわれた。この結果、今回の大津波では全半壊4戸、犠牲者1人に留まることが出来た。毎回被害を受けて来た本郷地区は水田となっていたため、今回の津波でもその水田だけは大きな被害を受けた。本郷地区の海岸は砂浜が広がり、松林も砂浜に沿ってあった。この海岸で震災前にはサーフィンに興じる若者の姿も見られた。海抜20mほどの県道250号線沿いにある曹洞宗の正寿院は気仙大工の手になる寺で、境内には秋になるとたくさんの彼岸花が咲く。今年もそろそろその時期だと思い、正寿院へ出かけてみた。残念ながら彼岸花の芽は伸びて来ているが、花には少し早いようだった。正寿院の門前には明治三陸大津波の後建てられた「嗚呼惨哉海嘯(ああ さんなるかな かいしょう)」と書かれた石碑が建っている。近くの大船渡市越喜来にある円満寺にも同じ言葉が刻まれた石碑が建っている。海嘯は津波を指す。正寿院の近くには旧制盛岡中学三年の石川啄木がこの地で一泊していることを記念した「潮かおる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや」の歌碑が建っている。津波はこの歌碑のあたりまで襲って来た。啄木が歌った浜辺はもう消えてしまった。正寿院の前から海の方を見ると、前に広がる本郷地区全体で水田や防波堤の改修工事が盛んに行なわれていた。その広さを見ているだけで津波がいかに酷かったか、あらためて思い知らされた。それにしても、恐らく、釜石近辺ではここ吉浜の復興工事が最も進んでいるように思えた。三陸沿岸部を走る三陸鉄道の線路や駅の工事も着手されており、来年には大船渡市と釜石市の間が開通する予定だ。沿岸部を走っているため三陸鉄道も相当の被害を受けていた。乗客は極めて少ないが、それでも利用する人たちには開通すれば重宝するだろう。観光客もたまにはのんびりこうしたローカル線に乗ってみるのも三陸海岸を知る上でいいかも知れない。
気仙大工の手になる正寿院の山門と鐘楼

本堂そばのモミジが色付いて来ていた

正寿院の前に広がる本郷地区は防波堤や水田の改修が行なわれていた