釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

多元的な古代の日本

2013-09-13 19:11:05 | 歴史
今日も雲が多い日となり、気温も24度までしか上がらなかった。虫たちの声は聞こえて来るが、今日はミンミンゼミの声が少なかった。職場の裏山の百日紅がとても目立つようになって来た。夕方、帰宅時にはここのところ毎日甲子川で鮎を釣る人たちを見かける。隣の住田町を流れる気仙川もほとんどが遠く他府県から鮎釣りにやって来た人たちだと言う。市街地の中心部を流れる川で鮎を釣ることが出来ること自体がすばらしいと思う。 江戸時代の国学を完成させた賀茂真淵の門人であった本居宣長は医師であったが、南北朝時代に見出された『古事記』を解読し、『古事記伝』を著した。古事記に基づき天照以来天皇家が日本の中心として続いて来た、とする本居宣長の考えは門人の平田篤胤に受け継がれ、さらに薩摩の国学に受け継がれて行く。薩長により打ち立てられた明治国家は万世一系の国を主張するようになる。それが太平洋戦争まで引き継がれて行った。戦後は声高にそれが唱えられることはなくなったが、少なくとも日本の歴史領域では未だにその考えが引き継がれて来ている。しかし、一部には現天皇家の血筋は6世紀の第26代継体天皇に始まると捉える向きもある。『日本書紀』では第25代武烈天皇についての悪逆非道を書き綴っている。この武烈天皇亡き後、後継者の選定に問題を生じ、応神天皇の子孫とされる、越前国高向(現在の福井県坂井市)にいた継体が即位を請われた形になっている。さらに、継体は即位から大和に入るまでに19年を要している。すぐに大和へ入ることが出来なかった何らかの理由がありそうである。『古事記』では全く書かれていない武烈の悪逆非道を『日本書紀』がことさら詳述していることも、武烈と継体との間の断絶を伺わしめる。そして、数々の論証に導かれた古田武彦氏の九州王朝説により、天皇家の血統の断絶はより一層明らかとなった。弥生時代の三種の神器の出土地は北部九州であり、都督府が置かれたのは太宰府であり、都督府は中国王朝が認める周辺国の中でその国の主権者のいる場所に設けられた。天照の命を受け、いわゆる天孫降臨したニニギは筑紫の日向(ひなた)に降臨したのであり、「日向(ひゅうが)」ではない。「日向(ひゅうが)」に明治政府は無理矢理ニニギ以下の神代三陵を比定したが、そこにはさしたる陵墓も出土物もない。古田武彦氏の言われる北部九州の高祖山連峰の日向(ひなた)であり、この付近には多くの三種の神器が出土された遺跡が揃っている。北部九州の地にニニギから卑弥呼の「邪馬壹国(やまいちこく)」、五王の倭国、白村江の戦いで敗れた倭国が存在していた。神武もニニギが降臨した北部九州の日向(ひなた)から東へ進んで、最終的に大和へ入った。野心に満ちていた神武兄弟は日向(ひなた)にいたのでは頭角を現せないと考え、新天地を求めて、東に進んだ。近畿の銅鐸文化の人々を駆逐して地方豪族となった。その血筋は従って、後に少なくとも継体の直前で途絶えているものと考えられる。世には様々な古文書や歴史観があり、当初は古田武彦氏の説かれる九州王朝説もやや飛躍を含んだ論であろうと考えていた。しかし、いくつかの著書を読み進むうちに、緻密な論証が展開されていることにむしろ驚かされた。何よりも必ずと言っていいほど現地で検証していることだ。古代ギリシャのホメーロスの叙事詩『イーリアス』に触発されて、そこに描かれたトロイの実在を信じ、ついに、古代都市トロイの発掘に至った考古学者シュリーマンの姿勢に共感しておられる。また、『東日流外三郡誌』の主編者である秋田孝季の「歴史は脚にて知るべきものなり」と言う言葉を自ら実践されておられる。文献批判、論証だけに留まらず、現地での検証を必ず実践されている。日本には一元的な歴史ではなく、まさに多元的な歴史があった。関東には毛人国、毛の国があった。東北には荒覇吐王国があった。8世紀初頭に確立した大和の政権はそれらすべての国をなかったものとしてしまった。それがまさに記紀の役割であった。
秋明菊 中国原産で日本へは古くに入って来ている
関東あたりでは10月に咲く