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南方単車亭日乗

奄美大島にIターンした中年単車乗りが、てげてげに綴ります。
はじめての方は、最初に《ごあいさつ》をお読みください。

大島海峡東岸紀行 最終回

2006年10月26日 20時55分36秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 伍拾参よりつづく。

宇検中央林道2号線から戻り、さらに先へと進む。



上ったり下ったりを幾度か繰りかえすうちに、舗装が途切れる。
ここからは、焼内(やけうち)湾に面した集落・屋鈍(やどん or やどぅん)に至るまで、およそ5kmのダートである。
ダートのうち、西古見(にしこみ)側から1.5kmほどが比較的荒れている印象だ。
とはいえ、郵便配達や戸別営業(奄美大島では、置き薬の会社が2社あって精力的に島内の過疎地域を回っている)の軽自動車が通る道でもあり、オフロードバイクであればそれほど難度は高くない。
むしろ、僅かに点在するフラットな区間で速度を出し過ぎないようにすべきだろう。
この付近は奄美大島でも自然が豊かな地域であり、野鳥やリュウキュウイノシシも多く生息している。
滅多に出会うことはないのだが、それでも無駄な爆音で自分からチャンスを放棄することはないだろう、と自戒を込めて。



屋鈍まであと僅か、というところで、空き地があったので停めてみる。
水源が近いらしく、森の奥からふた筋の流れが引かれている。
うちひとつの流れの土壌にはかなりの酸化鉄が含まれていると見え、土砂を堰き止めるコンクリートや水路となったU字溝の底は赤紫に染められている。



大きなコンクリート容器には砂が詰められ、簡易浄水器となっている。
脇から流れ出る水を手に受けて飲んでみた。
美味い。
もうひとくち。



もうひとつの流れは、小さな滝となって音を立てている。
飛沫がかかるところは濃い緑の苔に覆われていた。
もうひとくち冷たい水をいただいてから、ふたたびバイクにまたがった。
屋鈍まではもうすこし。
大島海峡東岸の旅は、これでおわる。

この項 おわり


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大島海峡東岸紀行 伍拾参

2006年10月24日 20時11分32秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 伍拾弐よりつづく。

曽津高崎(そつこうさき:通常はソッコーザキと呼ばれる)から戻り、山道をさらに先に進む。
ほどなく、宇検中央林道2号線への分岐にいたる。
大島海峡東岸紀行 四拾四にて紹介した崩落現場を通過すれば、ここに至るのだ。
崩落現場まで行くつもりはないが、すこしだけ寄り道していこう。



眼下に、大島海峡東岸紀行 伍拾で紹介した桟橋跡の浜を眺める(じっさいの桟橋跡は左の斜面に隠れている)。
中央に三連立神(さんれんたちがみ)、その向こうに江仁屋離(えにやばなれ)、その右に見えるのが赤瀬。



ほぼ同じあたりから西古見(にしこみ)集落を見下ろす。
空は蒼く、海は紺碧。



林道横の緑が途切れたところで岩肌を眺める。



奄美大島は、地底深くフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下にもぐりこみ、海底が隆起してできた島である。
それも、一度だけぽっかり顔を出してそのまま現在に至るのではなく、大陸と地続きになったり離れたり、沈んでみたり隆起したりが繰り返されて現在に至っている。
アマミノクロウサギリュウキュウアユといった固有の生物は、こうした経緯によるものだという。
現在、マクロに見ても、島の北部と南部では地殻の変動の度合いもかなり違ったらしく、比較的平坦な北部に対して南部は起伏が激しい。
こうして岩盤が露出しているところを見ると、海底が隆起したなごりであろうか、水平に重なるはずの地層が急角度に傾いている。
試してみるまでもなく、こうした岩盤はひじょうに脆く、強い衝撃を与えれば簡単に剥がれ落ちる。
事実、岩盤が露出した箇所では、かならず剥がれ落ちた岩のかけらが路面に散らばっている。
こうした脆弱な地盤を持つ土地に村長・村議と地元の土建業者らが高レベル放射性廃棄物の最終処分場を誘致しようという動きが表面化されたのは、つい先日のこと。
地域住民の反対の声の大きさにすぐさま白紙撤回されたのだが、「5期目ともなるとこーゆーこともへーきでやるわけじゃやー。近隣自治体に住む者として安心できんちば」と思うオレである。

大島海峡東岸紀行も、いよいよ次回が最終回です。

つづく


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大島海峡東岸紀行 伍拾弐

2006年10月21日 09時29分41秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 伍拾壱よりつづく。

大島海峡東岸紀行 四拾八にて、「三連立神(さんれんたちがみ)が見えたら、そこは西古見(にしこみ)」と書いたが、反対に「三連立神が見えなくなれば、西古見とお別れ」でもある。



三連立神も向こうは江仁屋離(えにやばなれ)、その左には加計呂麻島、その間に見えるのが須子茂離(すこもばなれ)で右に見えるのが夕離(ゆうばなれ)。

西古見を後にして、ちいさな弧を描きながら登る細い道を進むと、やがて分岐に至る。



曽津高崎(そつこうさき:通常、ソッコーザキと発音する)への分岐だ。
左のダートを延々と行った先に灯台はある、ことになっている。



赤土のダートは、最初のうちはフラットだが、下り坂の傾斜がきつくなるにつれ、どんどんハードになってくる。
時おり「乗用車で行けますか?」と聞かれるのだが、
「距離は往復で約4km。一泊二日のつもりでなら行けますよ」と答えることにしている。
Uターンできる場所がないので、終点まで行ったらそのままバックで帰ってくるしかないのだ。
乗用車以外に手段がない方は、分岐から1kmほどの地点に展望所があるので、車を停めて徒歩で行くことをお奨めする。
そこからなら往復で3kmもないはずなので、スニーカーでもなんとか歩けるはずだ。



樹木の陰で見辛いかもしれないが、雨水が溝を抉(えぐ)り、深いところでは30cmほどに達している。
すでに何度か通っているオレだが、細心の注意を心掛けている。



そして、これが終点である。
ここから先は、名瀬海上保安部の曽津高埼灯台のページをご覧いただきたい。

つづく


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大島海峡東岸紀行 伍拾壱

2006年10月19日 00時09分16秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 伍拾よりつづく。

大島海峡東岸紀行もついに50回を数えるに至った。
最後の集落である西古見(にしこみ)も通過して、残すはわずかである。



集落から1kmほど離れたところに昔の桟橋跡がある。
10年ほど前に訪れたときは、もうすこしいろいろと残っていたような気がするが、今はコンクリート製のプラットフォームが僅かに残るだけである。



海中に数本の支柱が残っている。
じっさいにここで泳いでみたが、向こう側の支柱の先は海底が急に落ち込んでいた。
支柱の周りには小魚が遊ぶように泳いでいる。



桟橋跡の左側(西古見集落の側)には砂浜が延びている。
波はほとんどなく、桟橋周辺に較べれば遠浅で、こちらの方が泳ぐには適しているだろう。
小魚もよく寄ってくると見え、季節によってはダイサギなどが散歩していることもある。



桟橋跡を過ぎ、曽津高崎(そつこうさき:実際には”ソッコーサキ”と発音される)方面へ進み、見晴らしのいいところで振り返る。
初夏の海は、どこまでも青い。



集落から3kmほど行ったところに旧・日本軍の弾着観測所がある。
この弾着観測所に関しては、昨年11月に「県道名瀬・瀬戸内線 西古見線」と題して取り上げたので、興味のある方はご覧いただきたい。
また、『あげーのしま 奄美』さん(旧日本軍 観測所跡)、「奄美Kanpon Life」さん(西古見の観測所跡)でも取り上げられている。
ここでは、まったく違う角度から一枚、撮ってみた。

つづく


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大島海峡東岸紀行 伍拾

2006年10月17日 00時12分12秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾九よりつづく。

大島海峡東岸紀行は最後の集落、西古見(にしこみ)に到着した。
金毘羅宮から勧請したという神社を眺めた後は歩いて集落内を回ろうとも考えたが、あまりの暑さに再び走り出すことにした。
集落内の様子については、本宅の生活報告帳・アーカイブの「西古見・歳の祝い見学」でも触れているので興味のある方はご覧いただきたい。

西古見集落は、海沿いに民家が密集し、その後背地には耕地が広がっている。
最近では過疎化のために農業人口が減少し、手のかからないソテツの栽培や牧草地になったり耕作そのものが放棄されたりで面影はないが、昔は一面の水田だったのではないか。
西古見(にしこみ)という地名を分解すれば、ニシ(沖縄・奄美の方言ではを意味する)のコメとなる。
細長い直角三角形をした奄美大島では、西古見は南部として見られることが多いが、
琉球王朝に支配された時代(15世紀中頃から17世紀初頭に掛けて)には加計呂麻島の諸鈍(しょどん)に琉球王朝の駐屯基地が置かれていたため、
諸鈍を中心として東西南北が冠せられた地名も随所に残っている。



そんな昔の水田跡地の奥に、旧・西古見小中学校が建っている。
「旧」と付けるのは、同校は昭和61(1986)年に廃校になっているのだ。



校舎は三棟(と記憶しているが…)、それに体育館。
校庭はさほど広いとはいえないが、小振りとはいえ体育館がある。
どこか私立の学校法人で、自然教育の施設としてここを購入(あるいは長期賃借)しようというところはないだろうか?
ご覧のとおり、自然に恵まれ、都会の喧騒とは隔絶した地である。



不動産業者気分で売り込み文句を考えながらカメラを持って歩き回っていたら、足元にサソリモドキを発見した。
おっかなびっくりカメラを近づけて何枚か撮ってみたが、どうも様子がおかしい。
脚のうち一対が奇妙に捻じれているのだ。
枯れ枝を拾ってひっくり返してみると、からからに干乾びて死んでいた。
ニワカ不動産業者の「自然教育の施設としてドウデスカ?」は早くも破綻したのだろうか?
いやいや、さにあらず。
刃物を持った反社会精神病質者の存在に対し、あらゆる教育機関が神経を尖らせる昨今である。
ちょっとした毒(濃度80%の酢酸=強い臭いと炎症をもたらす)を持ったサソリモドキの方が、よほど組し易いのではなかろうか。



校舎の周りにいるのはサソリモドキだけではない。
まだ羽根が発達しきっていない、幼いコバネイナゴだ。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾九

2006年10月15日 01時00分53秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾八よりつづく。

大島海峡東岸紀行は、終点の西古見(にしこみ)集落に到着した。
しかし、到着した途端に塩ビパイプ製の鳥居と祠に驚き呆れてしまった。
恐るべし西古見。前途は多難である。



集落内に入っていくと、三叉路に突き当たる。
防波堤沿いの道と、集落内を抜ける道とが二股に分かれているのだ。
防波堤沿いの道も良い趣がある道なのだが、ここでは三叉路にバイクを停めて、集落内に歩いて入ってみよう。
防波堤沿いの景色は、《奄美の唄者・西 和美.com》の「かずみ寫眞館」や、本宅の生活報告帳・アーカイブの「屋鈍(やどん)でぼんやりしてました」等にいくつか載せています。
歩き出してすぐに、赤い鳥居と参堂を発見した。
丹塗りはいささか色褪せているが、こちらの鳥居が木製であることは遠目でも判る。
空は快晴、日差しは強烈、まっすぐ空へと伸びる階段にいささか足腰と心肺機能に不安を感じながら上ることにした。

登りつめると、小さな祠が鎮座している。
祠には額が掛けられ、
「この社殿は西古見共同所有
金壱百参拾参拾万円で再建する
 昭和六十年十一月十日落成」
とある。
おそらく、立派な参道も同時期に補修されたものだろう。



基部は石灯籠のそれだが、乗っかっているのは明治・大正時代の街灯みたいなレンガ造りという不思議なもの。
実際に、昔の西古見集楽の街路で使われていたものではないか。



階段を下りながら、鳥居の脇に植えられたハイビスカスを一枚。
白い屋根、青い空、紺碧の海と赤いハイビスカス。
惜しむらくは、カメラマンの技術が追いつかないことか。

ここで、神社の社名を確認していないことを思い出した。
正確には、社名らしきものを見つけられなかったのだが、この坂道をまた登るのも辛い。
後日、西古見生まれの島唄名人・西 和美さんに聞いてみたが、
「はて? なんていったっけ?」という返事。
もっとも、地元の人ほどそんなことに頓着なく、「むらの神社」と認識しているのもまた事実である。
そんなことよりも、聞いてみてよかったのは
「あの神社はね、四国の、ほら、金毘羅さんから分けていただいたのよ。船と漁の神様だよ」
なるほど、と納得した。



参道を下りきって、さてどうしようかと思いながら参道入り口脇のガジュマルを眺めて驚いた。



電柱のような(おそらく、電柱か街灯の柱だったのだろう)細く長い丸太がガジュマルを支えているのだが、
ガジュマルがその丸太を掴まえて、ほぼ一体と化してしまっているのだ。
ガジュマルは漢字で榕樹と書く。
まさに読んで字の如し。
溶けた樹幹は、これからもゆっくりと丸太を取り込みつづけていくのだろう。
これを愛の象徴と見るべきか、畏怖をもって眺めるべきか、
判断のつかぬままにカメラを向けるオレである。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾八

2006年10月12日 00時08分22秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾七よりつづく。

《大島海峡東岸紀行》も管鈍(くだどん)を通過して、西古見(にしこみ)集落を残すのみとなった。
管鈍・西古見間は、拡幅工事が施されて見通しが良くなった区間と、
昔の林道にすこし手を加えて舗装しただけの区間が入り混じり、程よい緊張感とともに道行くものを飽きさせない。



海上に浮かぶ三つの小島は[三連立神(さんれんたちがみ)]と呼ばれ、西古見のシンボルである。
奄美大島では、ほとんどの集落は入り江の奥に位置するというのはこれまで何度か紹介してきた。
その入り江の入り口の付近に、入り江に蓋をするような格好で小島があれば、それを[立神(たちがみ)]と呼ぶ。
[立神]は、集落の海の守り神として崇拝されている。
三連立神が海上に見えたら、西古見は目の前だ。



西古見は、美しい砂浜を抱く集落だ。
かつてはカツオ漁の港として栄え、小規模ながら飲み屋街まであったという。
ここからは細い急な坂を下って集落に入ってゆく。



集落の入口で、手安に続きまたしても奇妙な鳥居を発見した。
手安のものよりは、鳥居としての体裁が整っているようにも見える。
鬼が出るか蛇が出るか、ともかく参道を登ってみよう。



丹色のように塗って、イカにも本物らしく見える二つめの鳥居だが、
同色に塗られた参道の手摺りと同様、塩ビのパイプ製だ。
手摺りの方は危なっかしくて触る気にもなれなかった。



右に赤く見えるのが祠。
正面からの撮影はさすがにはばかられたので画像はないが、
「なんですか、こりゃ」というのが正直な感想。
扉もない祠の中には、高さ25cmくらいの結跏趺坐した僧侶の石像(インドの行者風)が鎮座している。
この僧侶像が具体的に誰を指すのか、オレには読み取れなかった。
たしかに明治時代に至るまでは、《神仏習合(しんぶつしゅうごう)》といって神社と寺院は同じ敷地内に建てられることが多かった。
しかし、ここはどう見ても昭和の、いや平成の建造である。
考えるのも面倒になって、オレは参道を下った。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾七

2006年10月10日 00時38分31秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾六よりつづく。

大島海峡東岸紀行 四拾伍四拾六に続き、管鈍(くだどん)集落での話である。
集落の奥に〔厳島神社〕を発見し、参道をえっちらおっちら登りはじめたらバーバートカゲを見つけた、というのが前回のお話。





拭いても拭いてもじわじわと溢れる汗を拭いながら険しい参堂を上っていくと、
コンクリート製の鳥居が現れる。
質実剛健というか、無愛想というか、
「誰がどう見てもコンクリート」という質感がなければ、ほとんど遺跡である。
鳥居の少し手前から坂道の斜度はゆるくなり、その少し先にちいさな祠が建てられていた。
しかし、なぜかオレは「これで終わりじゃないだろう」という疑いが抜けきらず、
祠の横の踏み分け道を辿って、さらに先に登ってみることにした。



祠のわずかに上、小さな山(標高は30m程度だから、丘と呼ぶべきか)の頂上付近にはバレーボールのコート程度の空間があり、
その端には大き目の石碑が鎮座している。
碑文には、《昭和貮(2)年八月七日 行幸記念碑 古仁屋御上陸》とある。
へぇぇ、昭和天皇は、そんな頃に奄美に来てたのねー。
当時の天皇行幸は軍事演習への臨席がメインだったのかとも思うが、
その一方で有名な南方熊楠の進講があったのは昭和4年だったし、
陸軍大演習が主目的だった昭和10年の熊本行幸では、志布志町の沖合約4kmに浮かぶビロウ島を訪れたという記録が残っている。
碑文に刻まれた「古仁屋御上陸」の6文字からは、管鈍にまで足を伸ばしたという確証は得られないが、
この〔厳島神社〕の歴史を考える上で大きな材料といえるんじゃないだろうか?
つまり、オレが考えているのはこんな筋書きである。
長いあいだ、琉球文化圏の一部として独特の宗教観を持っていた奄美では、天皇制の末端機関である《神社》は、それほど馴染みがなかった。
それが、つい8ヵ月ほど前に即位した(昭和元年は12月25日からの7日間で、実際の即位式は昭和3年だった)青年天皇(当時、27歳)が来島したのだ。
おそらく、上を下への大騒ぎになったのではないか。
今だったら「天皇陛下御来島ブーム」といったところだ。
「天皇といえば神社だ、よし、神社を造ろう」ということで鳥居を立て、祠を建て、
社名をつけるときに困って「なんでもいいから有名なヤツ」ということで
《奄美に所縁(ゆかり)のある平家》→《平家に所縁のある厳島神社》となった、と。
さて、この無責任な筋書きがどこまで当たっているのやら…。



もう一度、水分補給をしてから管鈍を後にする。
集落の中央やや右よりのカマボコ型建物は、今年から休校になった管鈍小中学校
山の上の赤土が剥き出しになっているのは、大島海峡東岸紀行 四拾四に載せた崩落現場である。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾六

2006年10月07日 00時15分00秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾伍よりつづく。

奄美大島の西の端、大島海峡沿いをちんたら走りながらの閑話、管鈍(くだどん)集落での話の続きである。
どうやら上空では、地上よりは風が強いらしく、空の3分の1ほどを覆っていた雲が切れて、強烈な日差しが戻ってきた。
先ほどまでは「曇って蒸し暑い」と不満を口にしていたが、今度は「焦げる…」とうわ言のようだ。
未舗装の農道は、オフロードバイクのサスペンションを通じて心地よい振動を与えてくれるが、
速度が出ないので涼しくもなんともない。
「せめて日陰を」と、集落の奥の手近な山裾へ向かう。



その山裾に、荒れ果てた日本庭園のような参道と鳥居が見えた。



バイクを停めて近づけば、みょうに新しい額に〔厳島神社〕とある。
清水(せいすい)、阿鉄(あてつ)に続いて、3つ目の〔厳島神社〕だ。



坂道に(どう見ても)無造作に段を掘り、(どう見ても)適当に石を置いた参道は、
数段登るごとに息をつき、汗を拭かねば進めない。



何度目かの息をついたとき、目の前に動くものが見えた。



バーバートカゲだ。
こいつも暑さにうだっているのか、どうも動きが鈍い。
赤土の斜面を登ろうとして足を滑らせてやがる。
「レッドデータブックに載ってるヤツが、そんなことじゃいかんぞ」
叱咤しながら、それでも何枚か撮らせてもらった。

バーバートカゲが去って、参道の先を見ると、まだ半分以上が残っている。
ため息をついて、また登りはじめた。

管鈍の話、もう一回あります。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾伍

2006年10月05日 00時29分17秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾四よりつづく。

奄美大島の西の端、大島海峡の東岸をちんたら進む旅も、花天(けてん)を過ぎ、残すは管鈍(くだどん or くだどぅん)と西古見(にしこみ)だけとなった。
と、前回は変わりばえしない導入でそのまま管鈍林道に入ってしまったが、今回は、その林道から戻ってからのことである。
花天と管鈍を結ぶ県道は、そのほとんどが山中を通る。
花天では、最後の人家を過ぎたら山中に入って行くし、海が見えたらすぐに管鈍の集落が視界に入る、という具合だ。



この先のカーブを曲がれば、管鈍集落である。
入江の向こうに見える道を辿って、西古見に至る。

梅雨が明けて、ほぼ真上から射す日光の威力で、こまめに水分を取っているつもりでも軽い脱水症状を起こしている。
管鈍では県道脇に商店があり、500ccのペットボトル2本で水分補給を行った。
朦朧としかけていたアタマが、わずかに見通しが良くなったので、集落の奥へと入ってみる。



狭い。
おそろしく狭い道ばかりだ。
これまでも集落内部の道路について〔軽自動車でもぎりぎり〕と表したところが多かったが、
管鈍集落は、さらにその上(?)を行くのではないか?
中央突破を諦めて、集落の端から進入を試みたが、どうも不穏な状態である。
案の定、向こうに見えるガードレールの手前には鉄条網が張られていた。
再度、中央突破を試み、小川の向こうの農道を辿ってみる。



今回の旅で判りかけてきたことだが、どうやら大島海峡沿いの農業は、何度目かの変革期を迎えているらしい。
奄美大島の農業は、江戸時代は支配者である薩摩藩にサトウキビ作りを強制され、
その後、川沿いの農地で稲作が行われるようになったものの、
昭和40年代の減反政策と「北日本のおいしいコメ」で水田を放棄せざるを得なくなった。
サトウキビも、世界的な価格低下傾向で競争力を完全に失い、今や地元の製糖工場や自治体が
「工場を潰したくないのでキビを作ってください」と農家にお願いしている状態である。
農家の後継者らは都会に就職し、農村には親の世代だけが残され、
自治体や農協の指導で高収益作物(果樹)主体の経営への転換を図った。
その間にも歳月は流れ、都会に出たかつての[農家の後継者]らは定年を迎え、
単独での生活が困難となった親の世代と一緒に生活するために故郷に戻りつつある。
こうした流れの中で、多年の経験とこまめな作業を必要とする果樹栽培に見切りをつけて、新しい農業経営に向かう家族もある。
近年、経営者が増えてきた[肉牛繁殖]である。



ここで生まれた仔牛は、まだ幼いうち(一歳か二歳)のうちにセリに掛けられ、主として近畿地方の〔肥育農家〕に売られる。
セリの模様は、本宅生活報告帳生活報告帳アーカイブの『古仁屋から名瀬まで6時間かけてドライブしました』にチョコっと出ています。
〔肥育農家〕では所定の期間(長くて3年?)飼育し、<松坂牛>、<神戸牛>等のブランドで出荷する。



これまで通過してきた他の集落でも、サトウキビから牧草へと様変わりしているところがたくさんあったが、
このような長閑な放牧風景は見られなかった。

長々とコ難しい話を続けたが、ウシの親子の情景というのはなかなかいいものである。
たとえそれが、蒸し暑い午後に、ウシたちのUNKOの匂いを嗅ぎながらであっても。

管鈍の話、まだ続きます。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾四

2006年10月03日 00時18分58秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾参よりつづく。

大島海峡の東岸を北上する旅も、花天(けてん or くぇてん)集落を過ぎ、管鈍(くだどん or くだどぅん)と西古見(にしこみ)を残すだけとなってきた。
奄美大島本島の、ほぼ最南端に当るヤドリ浜キャンプ場を出発して花天まで、直進すれば30kmをすこし越える程度になるだろうが、
寄り道回り道を繰り返して、既に60km以上を走破している。
「あまり海岸から離れず、ひたすら西古見を目指す」とした当初の方針もどこへやらだ。
もはや「毒食わば皿までも」と、[管鈍林道]の入口を見つけて突入することにした。





奄美大島の林道は、意外なほどに使われ、補修されている「生きた林道」である。
これは、電力会社の送電やNTTほかの中継設備が山中の各所にあって、それらの保守のための道路であったり、
果樹の栽培が、山中深くの「こんなところで」と驚くような場所で行われているためである。
この管鈍林道も、電力会社の保守用道路として使われている模様で、梅雨明け直後にもかかわらず路面はほぼフラットで走りやすい。



林道は、すでに舗装された[宇検中央林道二号線]に突き当たって終点となる。
ちなみにオレは、舗装される以前の[宇検中央林道二号線]を走ったことがあるのだが、
木立に囲まれた赤土の林道は、なんとも言えぬ美しい印象が残っている。



[宇検中央林道二号線]は、[管鈍林道]との合流地点付近で大規模な崖崩れのために通行不能となっていた。
いくらか頑張れば通り抜けられぬこともないかと思われたが、時間と肉体的な疲労を考えて引き返すことにした。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾参

2006年09月30日 00時26分15秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾弐よりつづく。

今回は、花天(けてん or くぇてん)集落のはなしの続きである。
前回の板付け舟を撮りおえたときのこと。
風に揺れる木の葉擦れの音に混じって、小笛のような囀りが聞こえてきた。





リュウキュウメジロが5~6羽、枝から枝へと囀りながら飛び回っている。
よほどこの木が気に入っているのか、いちど飛び去ってもすぐに戻ってくる。



アコウの巨木と土俵が目立つ花天公民館は、元は小学校だったのではないか?
そして、公民館のわずかに先に、セットの最後の1ピースがある。



県道から、そのまま短い参道の上に鳥居がある。
ここまであっけらかんと道の脇に鎮座されていると却って気付かないもので、危うくそのまま通り過ぎてしまうところだった。



鳥居の額には、《氷川神社》の四文字。
しかも、随分と凝った字体だ。
たしか、大正期から昭和初期に掛けて、当時のモダン好みの世相から流行った字体ではなかったか?
しかし、いちばんの疑問は、氷川神社という社名だ。
スサノオノミコトが主祭神だというが、
氷川神社自体は武蔵国(埼玉県さいたま市)に総本社を置き、さらにルーツをたどれば出雲国(島根県)に行き着くという。
明治時代に皇居が東京に移ってからは、明治政府の意向もあって、神社としての格が上げられたそうだが、
それまでは武蔵国(東京都と埼玉県)限定のメジャー神社だったのだ。
よそから霊験あらたかな神社の支店や出張所を分けてもらうことを
勧請(かんじょう)するというのだが、これと言って縁もゆかりもないような氷川神社をナンデ勧請したのか?
それはもちろん、高千穂神社や厳島神社でも同じ事なんだけれども。
疑問はさらに膨れ上がりつつ、管鈍(くだどん)に向かうことにする。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾弐

2006年09月28日 00時20分21秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾壱よりつづく。

久慈(くぢ)集落から花天(けてん or くぇてぇん)へは、途中から視界が広く明るくなる印象がある。
実際には、ここまでの道程とまったく変わることなく、
海沿いのアップダウンを木々に囲まれて曲がりくねって進む道なのだが、
海峡の出口が近づき、海が広く見えるようになってきたせいなのだろう。



対岸の加計呂麻に見えるのは芝(しば)集落。
ブイが浮いているのは網が仕掛けてあるのか?
大島海峡の中央部は、かなりの大型船でも航行可能なほどの水深(50~70m)がある。
ブイが浮いているのは、海底が急角度で深くなる箇所のようだ。



〔浜グリ崎〕と呼ばれる小さな半島。
付け根の部分を通過してきた。



日曜日の午後、花天の船着場では、少年たちが釣りに興じている。
ここならば、オレでも釣れる・・・だろうか?



海岸近くの家の物置小屋に板付け舟が置かれていた。
舟の下ではネコが昼寝を楽しんでいたが、無粋な闖入者(オレ)に驚き、「ふうっ」と一声たてると草むらに隠れてしまった。

花天のはなし、もう一回あります。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾壱

2006年09月26日 01時21分06秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 四拾よりつづく。

久慈(くぢ)から花天(けてん or くぇてぇん)を目指す。
右手の山は濃緑の衣をまとって海からそのまま立ち上がっている。
そのすそを縁取るように、海抜およそ1mの県道は細く、ひたすら曲がりくねって延びていく。



突然、開けたところに出た。
林道・久慈線の入り口だ。
べつだん、先を急ぐ身ではない。
ストイックに先へ先へと進むのにも飽きたところだ。
林道に入ってみた。



林道は、急角度の上り坂で、すぐに久慈湾が見下ろせる高さに至る。
大島海峡は、至るところで魚介類の養殖が行われている。
最近では、各集落の船着場に舫っている漁船のほとんどが、こうした養殖イカダへの交通手段が主な用途なのではなかろうか。



ゴンズイの赤い実が、陽光に輝く。



柔らかな彩りのアカミズキ



舗装が途切れたわずかに先で路面はひどく荒れている。
じゅうぶんな寄り道をした、と判断して県道に戻ることにする。

つづく


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大島海峡東岸紀行 四拾

2006年09月23日 00時13分09秒 | 南方単車旅案内
大島海峡東岸紀行 参拾九よりつづく。

奄美大島と加計呂間嶋を隔てる大島海峡の東岸を、集落ごとに寄り道をしながら北上している。
前回に続いて、今回も久慈(くぢ)集落だ。



現在の久慈集落には、久慈小中学校と公民館、久慈郵便局を除けば公的な施設・設備はない。



過疎化の進行とともに係留される船が減って荒れてしまった港は、公園として生まれ変わった。



公園の日陰でしばし息をついた後、次の集落である花天(けてん or くぇてぇん)に向かって走り出す。
ふと停めてみた路傍に、キノコが見えた。



雑草に周囲を囲まれているとはいえ、2m先は海である。
潮風をいっぱいに受けて育つ、根性キノコとでも呼ぼうか。
油をひいたフライパンにそのまま放り込めば、塩味の炒め物になるのではないか。



首筋になにかちくちくするものがある。
払った指先に付いていたのがこの蜘蛛だ。
コカニグモかな?

つづく


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