焼内湾彷徨 弐拾七よりつづく。
昨年11月初旬にはじまった《焼内湾彷徨》も、ようやく最終回である。
最終回を前にした二ヶ月の中断をはさんだ他、長短の中断を何度も挟んでいるため予想外に長引くことになってしまったことは、その時々の理由があったとはいえ、いくらか残念ではある。
もちろん、言い訳を並べ立てても過ぎた時間は戻ることはない。
今回は少しボリュームアップで最終回を飾ることとしたい。
宇検(うけん)村の宇検集落を彷徨ううちに、その中心部といってもいいあたりに巨大なガジュマルが聳えていることに気付いて近寄ってみた。
盛夏のことともあり、木陰でしばらく涼を楽しんで、さらに集落内を徘徊しようかと思ったところで、ガジュマルに正対するように伸びる小道を見つけた。
数歩、入り込んだところで道の脇に奇妙なものを見つける。
ミニチュアのスイカみたいだ。
これは植物なのか、精巧に出来たプラスチックなのか?
細い道は、とばくちの部分がかろうじて軽自動車を入れられる程度の幅か。
緑色の部分は雑草だが、総じてよく手入れをされている。
よほど大切にされているナニかがあるのだろう、と道の奥を覗いてみると、鳥居が見える。
おや、宇検集落の鎮守社は、
入口の厳島神社ではなかったのか。
ともかく、見えた以上は行かねばなるまい。
坂道に角張った石を(かなり無造作に)配した参道を、汗を拭き吹き200mほども進む。
3本の巨大なリュウキュウマツが守護するように聳える奥に、無額の鳥居と小さな社殿が、鬱蒼とした緑に囲まれている。
正直、疲労もあって無造作に撮ったのだが、帰って画像データを見てみるとシャッター・スピードは1/25秒。
曇天とはいえ真夏の午後2時に撮ってこの数値というのは、境内の薄暗さをよく表しているのではないか。
なお、その後に再訪して撮りなおしたが、こちらの方が雰囲気がいいので採用した。
手水鉢(?)の支柱には、明治二十六年一月と刻まれている。
横の『鎮坊*』は寄進者の名前だろう。
『シズボウ』とも読めるが、『しずめ ぼう*』とも読める。
奄美地区のタウンページには、宇検村と瀬戸内町に『鎮原』姓がそれぞれ1件、掲載されている。
おそらくは社殿の礎石が置かれてからそれほどの間もなく置かれたものだろうから、ここが《神社》となってから110年余の歳月が経過していることになる(明治26年は西暦1893年)。
鳥居の下に立って宇検集落を眺めてみる。
眺めているうちに、集落入口の厳島神社は薩摩藩が造営(を指示)した官社で、こちらは民間信仰のユタ・ノロの聖地ではなかったかと思えてきた。
勝手な想像はどんどん膨らみ、鎮坊某は集落の長者(網本か?大地主か?)で、ユタ・ノロの宣託により大きな利益をあげた(または被害を未然に防いだ)ことから、聖地に社殿他を寄進することになった・・・。
もちろん、素人の勝手な妄説である。
よろしければ
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《焼内湾彷徨 弐拾六》に載せた、集落入口の厳島神社から見た宇検集落である。
茶碗か何かで整形したような、きれいな丸い山容である。
古来、日本人はこのような丸い山が好きだった。
その典型が奈良盆地の大和三山である(大和三山については
こちらをクリック)。
こうした山ならば暴風雨や地震の際の崩落被害が少ないこと、山全体への日照がよいことから自然の恵みが期待できること(当時、椎・
橡(とち)・栗・ドングリは、よほど米作に余裕のある土地以外では常食だった)という条件が基底にあっただろう。
険しい山が信仰の対象になるのは(もちろん、すでに畏怖の対象ではあった)空海が四国の山地を修行の場としてからではないか。
遠くに霞むのは焼内湾の対岸であり、集落はさらに入江に囲まれている。
盛夏以外の季節には、ティルと呼ばれる籠を持った人が、集落前の浜を歩いているのをよく見かける。
焼内湾を巡って、最後に訪れた宇検集落は、太古の桃源郷の残像を今に残していた。
この項 おわり
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