名古屋に住んでいたとき、児童文学の何たるやを教えてもらった中部児童文学会で、私は編集部に籍を置き、発送係を担当している。その105号の発送準備がようやく完了した。全部で160通。ゼーゼー。
この『中部児童文学105号』に私の中編(原稿用紙にして約100枚)が掲載されている。
「松竹梅探偵事務所~真夏の風が運んだもの~」の舞台はずばり掛川である。
アガサクリスティの「ABC殺人事件」を連想させる「あいう殺人形事件」が次々起こるという児童小説で、小学校6年生の女の子が主人公である。
舞台となる石の丸屋敷は「竹の丸」そのものだし、松竹梅探偵事務所はなだれ込み研究所のようにも読める。そこに集う人たちは、実際のモデルがいたり、いなかったり……。
ということで、もし読みたい方がいらっしゃれば、なだれ込み研究所に貸し出し用を置いておくので、声をかけて下さい。
それにしても、自分の書いた小説を読んでもらうというのはめちゃくちゃ恥ずかしい。以前、K松さんに批評してもらったとき、「自分の裸を見せるよりも恥ずかしい」と言ったことがあったが、こうしたブログのようなエッセイと違って、小説は自分というものがむき出しになる。エッセイのように笑いネタや理論武装でごまかせないし、自分のズルさ弱さ、ときにはヤワな美意識や純粋さなんかも、こっぱずかしいほどに滲み出る。
ではなぜ書くのだろう。
なぜ発表するのだろう。
きっと、私という人間をわかってもらいたいからだと思う。同じ価値観を持つ人を探しているのだと思う。
小説という表現方法よりも、こうしたエッセイの方が自分らしさが出るのではないかと、最近、気づきつつあるのだが、未だ「小説を書く」ことから離れられずにいる。
以前、私の尊敬する作家那須正幹さんが、
「修行とは、自分に才能があるかないか見極めるためにやるものだ」
とおっしゃった。
才能があるかないかなんて、自分ではわからない。だから本気で書いてきた。1枚も書く前から、「作家になんか、なれっこない」なんて思いたくなかった。
でも、そろそろ、見極められる状況になりつつあるなあという気はするのだが、それでも、未だあきらめきれず、しがみつき、あがいている。
さて、その自分の作品をどう発表するか、である。
これについては、日頃からS藤さんにあれやこれや言われている。
「応募して受賞して本になるのを待つんじゃなくて、自分のホームページを持って、身近で、あなたを知っている人が読みたいと言ってくれるなら、どんどんダウンロードできるようにすればいい。NPOで出版したっていい」
まったくその通りだと頭ではわかっているのだが、「大手出版社から本を出すことが認められること」という私の中の神話を、どうしても崩すことができない。
K松さんの『掛川奮闘記』があれほど読まれ、ローカルで出すことの意義も意味も実感しているにもかかわらず、それでも捨てられない何かがある。
ワンツーワンマーケティング、リレーションマーケティングだと言いながら、マスマーケティングやグローバルの価値から離れられないのは自分かもしれない。
S木君が、
「山を案内するのは、自分が海外のメジャーな山を制覇してからでなければ、その資格はないと思っていました」
と言ったとき、私は彼に言った。
「そんなこと関係ないよ。あなたが話す山のことを聞いていると、今まで知らなかった山の魅力が確かに伝わってくるし、本気で山に登りたくなる。登りたいと言ってくれる人が近くにいるのなら、どんどん登ればいいじゃん」
同じことだとわかっているのに、そこから一歩踏み出すのはものすごく簡単なことのはずなのに、自分のこととなると出来なくなる。
「そりゃあ、ただのズルだね」
と、S藤さんには言われ続けている。
商業出版は、、読み手がわざわざお金を払って読む本。
つまり、書き手がいくらがんばってもお金を出してでも読みたいものでなければ出せない。
この差は大きい。
商業出版の場合、編集者の厳しいチェックがあり、その後ろには営業のチェックがある。
たとえ、公募で通った作品であっても、出版されるまでには、何度もの改稿を経ている。
その改稿が、書き手を育てる。
改稿で、どんどんよくなる(はず)
そこで躓くようでは、次はない。
NPOについて無知なので、失礼があったらごめんなさい、なのだが、利益の分配を目的としない、ということはつまり、営業報告書や配当という株主のチェックを受けないということですよね。
つまり、それくらいの差です。
印税という対価を受け取るということは、作品に、それだけの価値を認められる、ということです。
志を捨てないでください。
(注 : コメントの内容は、文学ジャンルに限っています)
たとえば、松竹梅の場合、筆者の身辺を舞台にしている。
たいていの場合、自分の周辺や過去の経験、思い出などがモチーフになったり、核になったりする。
その、個人的な思いがどれだけ普遍的な、どこのだれにも共感を得られるものになるか、それが「作品」になっているかどうかの分かれ目。
そして、その分かれ目を判断するのは、自分ではない。
と、思うのです。
ただ、これはあくまで、わたしの考えですので、K住さんの意思で道を選んでください。
このコメント欄だけではうまく説明ができないのですが、ローカルの価値を発信し続けている会社にいて、まちづくりに関わる人達と関わり、自分の自己実現だけでなないところの価値、それはもしかしたら、一段も二段も低いと考えてきた自費出版で何かを発信することが、今、この場所にいる私に課せられていることなのかもしれないと、少し考え始めているのは事実です。
大手出版社では出してくれない、でも、地域のみんながお金を出してでも買いたいと言ってくれる本がありました。その現場を見ている私は、文学として、商品として、まだまだ未熟なのは承知の上で、それでも自分がまな板の上に乗って、何かを発信しなければいけないのかもしれないと思うようになったのです。
まだまだどうなるかわかりませんが、自分の意志で、決めていきたいと思います。
ちなみにバーバままさんは、ずっとこんなふうに、私を叱咤激励し続けてくれている大先輩の作家です。
志はよくわかりました。
というか、これまでのブログを拝見していて、流れはわかっているつもりです。
わたし自身、生まれてからこのかた、ずっとローカルなところに住んでいますし、東京がすべてとは思っていません。
文化・・・というと大きくなってしまいますので、出版に限ってみても、地方に拠点をおいた出版社もありますし、自費出版をすべて否定するものではありません。
地方史、生き方発信などでは、わたしもよくそういった書物、それこそガリ版刷りのものまで利用させてもらっています。
中央の出版物にはない宝ものを見つける喜びは、また格別なものがあります。
だから、(コメントの内容は、文学ジャンルに限っています)と注を入れたのです。
ただ、管理人さんが目指しているハズの小説というジャンルに限ると、ローカル色を前面に出すことには、よくよく気をつけて欲しいとおもい、つい、余計な口出しをしてしまいました。
ローカルの人は、みな、親切で優しいです。
ご当地ドラマを見ればおわかりでしょう。自分の見知った場所が出るだけで、話題になります。
短い文章で書きつくせませんし、おそらく管理人さん本人が自覚していると思いますので、これ以上は書きませんが、優しい人たちに読んでもらうということは、それだけ逆に覚悟がいるということです。
地元だけに通じる作品にしてほしくない、地元の人たちを刺激するような、嫌われるのを覚悟で違う視点を提示するような作品を書いてほしい、と期待して待っています。
手段だし、志を遂げるためのプロセスじゃん。
あきらめるとか、別の志とかじゃなくて、いろんな手段を使うべきじゃん。