大峰の河童

法螺貝を習得中 

大極殿をバックにした騎射(流鏑馬)の行事を見てきました。

2010年10月31日 | 日記
平城京フェア「古代行事の再現・騎射(うまゆみ)」を見てきました。 流鏑馬の原型が今回、第一次朝堂院跡で再現された騎射の儀式だそうです。 流鏑馬は鶴ケ岡八幡を初め全国各地の神社に於いて、神事として行われていまが、今日は小笠原家宗家を初め弓馬術礼法小笠原教場の方々の演武です。 

馬上から鏑矢を用いる意味が文字化したものが「流鏑馬」と表記するようです。 歴史的には日本書紀、雄略天皇即位の年に「騁弓」や天武天皇9年に「長柄宮にて馬的射」と古くから行われていたと、昨日の宗家特別講演会の資料に記載されています。

馬を駈せながら矢を飛ばす演武は見事の一言です。 馬が疾走するのは競馬場で見ていましたが、手綱を持たずに疾走し両手は鏑矢を番えて的を射る。 この様な鍛錬の時間や費用は如何に調達するのであろうか。

広大な平城宮を維持するために全国から人や物産を集積して維持していたと資料館の展示物(木簡の文字)を見てきましたが、何時の時代も経費調達は大変。(因みに無料席で観覧)

馬場は250m、「埒が明かない」の語源は馬が疾走する柵の仕切りが開かない事のようです。
疾走中に陰陽、陰陽・陰陽と矢声を的ごとに掛けます。 意味の無い掛け声は臆病声と言われて嫌われるので、陰陽と発する様です。 陰陽の剣と通じるのでしょうか?


歴史のある流鏑馬は一見、勇壮な儀式ですが時には争いの種となります。 平城宮蹟の地元、大和の国では鎌倉時代、興福寺が国中の士豪を動員して春日若宮の「おんまつり」で互いに流鏑馬の腕前を競わせて支配を強化。
当初は平田荘・長川荘の武士団(長川流流鏑馬日記を残す。)が出仕していたが、他の荘園の武士や国人も参加して来て流鏑馬の順番を廻って争いが激化。

その支配強化の結果、大和には国司・守護の入国を拒否して大和一国の支配を確立。 興福寺の官符衆徒や春日社の国民による「大和に守護・地頭なし」といわれる争乱時代を向かえ戦国時代まで続く。

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