大峰の河童

法螺貝を習得中 

河童の手作り弓具、「箙と蟇目」

2010年05月27日 | 日記


時代祭りの武者行列で源平・鎌倉や室町時代の鎧兜を着用した武将級が装着する箙に注目し、数枚の写真をとりました。 しかし、遠目の撮影で、詳細が不明。
 武者姿が描かれている合戦絵巻などでは扇状態になった飾り矢の印象が強く、矢把(やばね)、筬(おさ)や緒の組み方などが判りません。 

詳細を悩むより実行あるのみ。 弦巻作成時の残りエコテープで作成開始。
平胡籙(ひらやなぐい)のように蟇目鏑矢1本と蓬矢(ほうや)5本を扇状に飾り開き、弓に素早く番える工夫を施した箙が完成。

材質は方立ての面や脇はエコテープ、高頭、端手、欄干は竹ひご、矢把緒の替わりに竹で把ね部分を試作、筬は波板状に一本、紋は厚紙で加工。塗りはカシュで小豆、こげ茶、朱の混色。 以前、作った蟇目鏑とセットで撮影。 請緒と後緒は思考中。 箙のサイズは高さ32cm、横巾13.5cm、厚み10cm。 蟇目は長さ18.5cm、直径6.5cm。

奥の細道「百代の過客」と犬鷲の「大石打羽」のはなし

2010年05月26日 | 日記
愛媛県美術館で書道作品展を観てきました。作者は六回目の寅年を迎えて、書作百余点を出展していた。 大峰の河童も日頃から写経を試みているる。
 書作展が開くまでの僅かな時間を利用して近くにある弓具店を尋ねました。目的は戦前の武徳殿弓道場の事情を聞く事でしたが、矢師のご主人から矢羽根の入手状況をお聞きしていると気付かぬまに1時間半近くたっていました。 珍しい貴重な鷲や鷹の羽根が在庫されていて、高価なイヌワシを観ました。 又、矢竹の採取時や乾燥時の作業などの箆作くり注意点を聞く事が出来ました。

(ご主人の手元にあるのがイヌワシ、数十万円の高価な石打羽です。)

弓の名人は「日子国夫玖命」

2010年05月19日 | 日記
神代に山城国の和訶羅河で軍勢が両岸に対峙して忌矢を射掛けあう際、先に射掛けた「建波邇安王」の矢は命中しなかったが、副武将である「国夫玖命」が矢を放つと、真っ直ぐ「建波邇安王」を射て、死んだ。

白鳳時代を遡る事、崇神天皇の時代は天之麻迦古弓(阿豆佐由美、荒木真弓、はりまゆみ、腹檀弓、等)といわれる命中率の低い木弓である。 その木弓で、戦闘の初めの矢合わせで忌み清める矢が河幅のある木津川で命中させる腕前は名人級。

弓の名人「国夫玖命」が丸邇臣の祖とすれば、その一族の子孫、小野長弓が誤って矢に当たり倒れ、祭られたストーリーは出来すぎか?

真弓姫は聖徳太子の妃か?

2010年05月17日 | 日記
「皇極2年山背大兄王一族は蘇我入鹿軍に追われ生駒山へ逃亡。母真弓姫は山中で自害、子弓削王のみのがれ丹波へ行く。」との記述を見つける。奥附の年表です。 

 記述内容に注目して他書を見ると、襲撃した主将格の一人「土師娑婆連」は「奴三成」の箭に当たって亡くなる。 軍勢は恐れて退却するが、軍の衆は一人当千(ひとりひとちなみ)と「三成」と称えた模様。 弓の使い手として名を残した、始めての武将か?

聖徳太子には勿論、多くの妃が居たが母君の真弓姫は馬子の娘、刀自古郎女の別称か? 又は、小野妹子に繋がる一族の姫で別人の真弓姫を誤植したか? (本文にも年表と同様な記述がある。)

竜間の集落から古堤街道を歩いて生駒白庭台駅まで

2010年05月12日 | 日記

明治19年測量と昭和21年印刷の地図と最新の地図、3枚を見比べながら古道の探索に出かけました。 先達(84歳)と5名で龍間から白庭台まで歩きました。 先達は数十年、古道の調査をされている方です。

出発地は龍間の「右 たはら いが たかやま きつ いせ」石標から、龍間の不動尊、龍間公会堂、一石六地蔵、龍間神社、府警の訓練センターグランドの南、㈱植田建設正面から北行へ、阪名道路旧料金所跡、大阪パブリック、北谷公園を右折、一筋目を左、矢の的石を左に田原城跡の小川堤道、住吉神社、郷蔵跡、両国橋、出店辻、新塔堂、役の行者石像、長髄彦本拠碑、白庭台の「右なら、不鮮明 左 きつ、不鮮明」石標まで。 

1.出発地の近くには伝説で龍の頭が落ちたという「龍光寺」、境内の鬼瓦は菊水。
2.近くから移転した「称迎寺」には一石十三仏坐像。同じく移転してきた龍の胴体が落ちた廃寺「龍間寺」。
3.龍間神社の少し上で畑仕事中のご婦人にお祭りについて「地区長が神主を務めて祝詞をあげ る。」、「10月19,20日がお祭り。」、「区長が替わったので、今年は何時か判らない。」とお話を聞く。
4.田原城跡では古堤街道越しに田原対馬守が「本丸」と「矢の的石」間で弓の練習をした距離を目測する。 
5.近くの「月泉寺」で対馬守の位牌や寺口遺跡「旧千光寺」の出土品等、話を聞く。
6.出会い辻は昔高山から生駒に行くバスが狭い道を左折していた、付近は昔の繁華街。
7.役の行者石仏、長髄彦の本拠地石標。

法螺貝の教室です。

2010年05月09日 | 日記
本日は初回の方がご夫婦で体験入学?。 替わりに上級者の吹螺師は、一人も来ていませんでした。 山上の戸開式後一週目です。 山に登って立螺しているのかな? 大阪城で法螺の練習時、ラジオに取材された体験談を聞きたいと思っていましたが、欠席でした。

練習の合間を見ながら山門風景をスケッチしていると、後方でもハイカーの方が同じアングルでスケッチしています。 練習は少し手を抜き、新緑鮮やかな雰囲気を是非、版画にしたいですね。
 
初めて法螺を手にした初回参加の方は熱心な音出しの半日経験で、大変、法螺の音に感激されていました。 上達するには甲音、揺り、止め等は練習あるのみです。 

スケッチや山菜取りに練習時間を割いていては、上達はまだまだ先の事です。 今夜の食卓の肴は天然の「独活」のてんぷら、和え物でした。採集時期は1ケ月、遅いのですが、地中の根元はまだ充分に美味しく食べる事が出来ました。

大峯山寺戸開式から帰ってきました

2010年05月03日 | 日記
3日早朝に開催された戸開け式に行き、先ほど山里に帰着。 帰途の途中、河童の棲家(秋野川)を尋ねて見たが、藤谷の綺麗な水の深い淵には河童は不在でした。

山上には前夜の11時30に大橋を出発して休息無しで3時間掛かってしまいました。 途中の拝所では法螺による法楽か単なる音出しか、練習不足です。 洞辻茶屋で法螺長に挨拶して、西の覗きに立ち寄り奈良・大阪・神戸の明かりを(夜景)楽しむ。

宿坊(龍泉寺)に入って、セター、フリーズ着込み本堂へ向かう。 1番、2番鐘が既に鳴っていて、広場では早朝の山の冷え込みは有るが(残雪は無い)風が無いので阪堺役講の鍵渡式の儀式終了を待ってまで皆さんと再会の挨拶。その後、騎馬の上で鍵が披露され、本堂横では柴燈護摩が厳修された。(今年は龍泉寺)

山降りは日の出を待ち、再度の再会を約しながら3時間半かけて大橋着。 この山行で月末からの奥駈け用に身が絞れたのでは?(早速、体重計測定を試みる)