大峰の河童

法螺貝を習得中 

河童の竹弓造り 「弓芯の製作」 その二

2016年09月22日 | 日記


弓芯の材料をニカワで接着した。四本の竹ヒゴを黄櫨の側木で挟んで接着したニカワが、はみ出し、材料は凹凸に成って接着固定。 
弓芯にする為には表・裏を平らに削る。材質(外は木、中が竹ヒゴ)が違うのでカンナ掛けを心配したが順調に削れる。しかし、側木に順目と逆目が各所に有るので慎重に削る。

弓芯の加工度合は中央部分を厚くして、両端を薄く削る。これは遊びの弓で握り部分を分厚くした事と同じだ。竹が反発する力点を握り手の1ケ所(胴)から竹を二重に合わせて強化した端の2ケ所(鳥打と大腰)に分散して弓折れを防いで強弓にしていた。子供たちの遊びの中でも年嵩から下の者へ遊び道具の造り方が伝承されていた。矢は棒矢状態だったが40~50mは飛翔した。

和弓の定義では「握りの位置は弓の上部から約3分の2のところにあることを要す。」と決められているので上弭から2/3または3/5の位置決めを行い、長さ2m30の弓の握り部分・矢刷り藤付近を厚くする。反対に両端は薄く削るが、最終的に各所の厚み(サイズ)が不明。

適当に削っていくと、接着が外れた。電動カンナの振動の影響か? ニカワ(膠)の接着不良(ニカワと水の調合、溶解温度)? 何か所か隙間が空いているが、すべて竹ヒゴが接着不良になっている。 

補修接着を行いつつ削りを続行、「弓芯」が完成。「弓芯」に力を加えると、思いのほか湾曲する。弱弓が完成か! 目標の弓力は14㎏。 



河童が「河童の里を訪ねて酷道に迷い込む」

2016年09月20日 | 日記



四万十川に住む河童を訪ねた後、「酷道与作」の一部を走破する羽目に陥る。国道381の轟から酷道与作(国道439号線)杓子峠を県道367の出合まで対向車はトラック一台だけ、その距離10数キロ。恐ろし酷道だった!

以前、奈良県の下北山村から十津川村に抜けて「昴の里」で綺麗な夜空を楽しむ為に先を急いだ事により迷い込んだ酷道425号線。この時の対向車は皆無。山からの落石に肝を潰しながら無事走破した。

今回は愛南町の「紫電改」と高知/四万十町の「かっぱ館」を訪ねるのが楽しみで車を走らせ無事到着。駐車場に停車する前から周囲の異様な雰囲気に呑まれてしまったのか、腹具合が悪い。しかし、元気を出して館内を見学。

撮影自由とは云え、照明の加減で中々上手に写真を撮る事は出来なかったが、自由な発想の造形美の河童達に多数出会えて楽しく勉強した後にトイレに座る。

先を急ぎ、ホピー館に寄らずに四万十市にナビを設定。ここで、呪われたー! 国道56号線を選ばずに近道の「酷道与作」を選択。今回も旅行で「酷道」に迷い込んだのは何かの祟りか! 河童の六地蔵を拝もう?

河童の竹弓造り 「関板の加工」

2016年09月20日 | 日記

古家の解体現場に遭遇すると床柱や床框に弓の関板に再利用できる銘木が破棄されて無いか、気にかかっています。

手元で関板に加工する予定の材料は縞黒檀、枇杷、山桜の切れ端を所有しているが、初手の竹弓造りにつき側木の切れ端の黄櫨を使う。

関板は単に弦を掛けるだけで無い事は判っている。小さい頃の弓には関板が無い為、弦の張力に負けて竹の三つ角が裂けてしまう。短い弓、強い弓や三つ角の加工具合で良く壊れていた。

弓矢で合戦遊び中に弓矢が壊れて、降参することが無いように弦輪を掛ける弓の個所を糸で強化していた。もちろん、握りの中央部分も重ね竹にして張力に耐える加工をしていた。

夜店で売っている吸盤付の弓矢に比べると凄く強力な弓で、矢は鏃先を安全に加工していたが対戦相手を直接的にしている危険な合戦遊びだった。

しかし、子供の遊び道具の弓と違って本格的な弓の関板には、それなりの役目が有り、形状が上・下の関板で違いが出来上がっている。サイズや曲線の加工具合は手探りとなる。
まず、一つ造って、その形状は作製の過程で修正を加へる事にした。

上・下の関板の湾曲の程度、長さの比較が、今後の参考に成る様に定規も併せて造る。

河童の竹弓造り「弓芯の製作」

2016年09月19日 | 日記

四本の竹ヒゴと二本の側木(櫨)を接着(ニカワ)して弓芯を造る。

接着剤のニカワは三千本を使い、水を加えて湯煎して溶かす。 子供の頃は合成の接着剤よりも膠が安価で学校の工作で数回、膠を使った経験はある。 水の分量・湯煎温度などはその時の経験を生かそう。

四本の竹ヒゴの節は重ならない様にずらして組み合わせる。 ヒゴの表皮・内側は二本ずつ同じように表皮側を外にする。 

側木は加工して5年しか経過していないが仕方がない。 10年、20年も乾燥を待つ事は出来ない。側木を保存中に木の根元が判らなくなった。 板材を真っすぐに製材したが、今は可成り反って来て、曲がっている。 一本の側木は木目が2ヶ所で裂けている、此れは作業前にひび割れを膠で接着して置こう。

部材を接着する際の紐は楔を打ち込み、接着の為の強く力が架かるのでタコ糸ではなく綿金剛打ロープを使う。 Z撚りに比べ撚り戻しが少ない。 手元にマニラロ-プが有るが少し、太すぎる。

充て竹は幅を30mm以下にして片方だけに当てるが、少し厚めの充て竹にして当てて片面をフラットにする。

出来上がりを長さ7尺六寸(2m30)にする為に、ここで弓芯の長さを決めるか?

河童が毛利勝永の遺跡を探訪

2016年09月15日 | 日記


大坂夏の陣で大活躍した武将で「惜し哉後世、真田を云て毛利を不云、是毛利が不肖歟」と近世評価されながら現在ではあまり話題にも上らない毛利豊前守勝永の遺跡を土佐に尋ね、毛利(森)屋敷が有ったと言われている中久万天満宮(写真)付近や高知城に行く。 屋敷跡の傍を流れる久万川を利用して浦戸湾から大阪表に脱出することが出来たのだろうか?

毛利(森)勝信・勝永親子(小倉城主)は明治三十年発行の郷土誌で、小倉城の由来項目に「天正十五年六月七日秀吉班抵大宰府云々割豊前六郡予黒田孝高治中津、以其二郡予森勝信治小倉」と簡単に掲載されている豊前国企救郡・田川郡二郡六万石を十数年間治めていた大名である。 家臣団にキリシタン大名の高山右近が改易された際の家臣も居たようです。

今福匡 著の「真田より活躍した男毛利勝永」では伏見城の戦いで活躍したが関ケ原の合戦では決戦場には出陣不明としている。 (伏見城攻防戦の働きに対して知行三千石の加増を受けたが手勢の消耗激しく、次の戦場の三重・安濃津城攻めでは取首数「頸八 毛利豊前守」とあり毛利勝永軍の戦闘能力が著しく低下していた。)

西軍敗者に成り毛利壱岐守吉成・豊前守勝永親子は配流先の土佐山内家で厚遇を受けた様だが九度山・真田庵で配流生活送った真田昌幸・幸村親子と同じような経緯を辿って大坂冬・夏の陣で活躍した。

高知城の遺跡探訪では一豊の室千代の賢夫ぶりを称えて商工会議所婦人部が建立した銅像前でボランティアの方の説明を聞き入る。 勝永も大坂入城に際して「銃後の守りの鏡」とされる妻の励ましの逸話が残っていると言われている。(ボランテイアの方は勝永、妻を知らず)

夏の陣で天王寺口に陣を敷いた毛利勝永は左正面に陣を進めてきた将軍、徳川秀忠軍の先軍である本多忠朝、内藤忠興、真田勢(信吉・信政兄弟)、保科正光等を蹴散らし、小笠原家当主秀政と息子忠脩・忠真(後に小倉藩の藩主)部隊を壊滅させた。 北九州小倉藩の支配者は大坂の陣で勝者と敗者が入れ替わる因縁(毛利(森)- 細川 - 小笠原と代わり幕末を迎える。)の地だった。

今、話題の真田丸と同様、毛利勝永軍も天王寺陣営前の陣地には幅50間の堀切を構築し、攻守に当たっていた模様。 次は天王寺の南にある庚申堂付近の深堀跡を探索しよう。