大峰の河童

法螺貝を習得中 

河童の竹弓造り、「弓作りの過程で真竹にカビが発生」

2010年04月29日 | 日記
1月に採取した竹弓(外竹・内竹)8張り分を軒下で自然乾燥していたが、カビが発生。 
雨が多いい、近頃の気候が悪いのか? 乾燥場所に湿気がこもるのか? 真竹の採取時期が遅かったのか? いずれにしても、黒かびが目立つようになってきたので、鉈で側面を5mm程度削りカビを除去した。

天気の日には風通しの良いところに持ち出し、内側を太陽に向けて乾燥をしています。 採取した時に比べ水分が抜けて随分軽く成りました。 乾燥が進むにつれて表面の小さな瑕が目立ってきました。(毛布に包んで山出しして持ち帰ってきた。)又、芽通りを確認して芽竹を持ち帰ってきたが、根元に近い部分は多少、曲がっている。次の行程の木炭であぶり、油を拭き取る時に現れる瑕が心配。 

今年は竹弓作りのデーター収集のつもり。 来年に繋がる1張りの弓を作ることが目標。次の行程は1ケ月先? 来月に入ると河童の体力が試される大峯の戸開けと吉野からの奥駈けで山に入る日が増え、弓矢作りや版画も忙しく成ってきた。

早速、平城遷都1300年祭に行く河童

2010年04月29日 | 日記
朱雀門広場と平城宮歴史館だけの見学です。 平城宮歴史館は整理券を貰い指定時間に入館するシステムでした。(入館料大人\500)
館内はマンガティクな映像で平城宮に都が置かれた時代を簡素に紹介しています。中でも最新のバーチャルリアリティーを駆使して「平城宮 はじまりの都」は楽しく見ました。復元された遣唐使船の見学コースは上甲板のみでした。 船内の見学が出来る構造であれば一見の価値が高まるのに残念。 
東南アジア各国から優れた技術や文化と共に吾が先祖の河童族もこの時代に渡来してきたか? 先祖探しに興味が湧いてきた。大極殿は建設中に2度見学したので、またの機会に他の施設と合わせて見学を予定。
会場内には駐車場が無く、近鉄で西大寺から会場までの無料バスが便利。 見学に最低3時間以上は必要。

時代祭りの行列に参加する河童優婆塞

2010年04月22日 | 日記
平城遷都1300年祭の町村時代祭りに河童も参加します。
各地の祭りで、土地に縁のある人物に扮している仮装行列は何度も見てきました。今度は河童が修行者姿で参加します。(河童の扮装では有りません。)
集合日時だけで、どのような時代祭りか詳細は判りませんが生駒回峯修行の延長線と考えています。

吹螺師、数十名が集まって、役の行者・前鬼・後鬼の3者の脇役として行進するようです。現役の山伏が街中で法螺を鳴らして修行する機会は希だと思います。(お練りは別にして。)
古の昔、祭りが行われる町内に行者様が修行して居る時に2匹の鬼を捕まえた言い伝えにもと基づく行列の一隊です。 

前鬼と後鬼を2匹と称する無礼をお許し願います。私見はタタラ製鉄以前の低い温度で鉄を製造していた人々ではないかと考えていますが難破して本邦に辿り着き、山中に棲み暮らしていた西洋人かもしれません。

山伏の衣装で参加するお稚児さん用に法螺貝の作製を、今考えています。
河童の生国の古城山には女竹が沢山生えています。肥後の守で何種類もの竹笛を作って遊びました。その中には法螺貝の音色に似た竹笛が有りましたが、最近の子供達には鳴らす事が少し難しい様です。どんな形の法螺貝を作ることが出来るか? 早速試作品作りを開始。

皇国史観の台頭と新伝承の誕生(勉強会)

2010年04月20日 | 日記
4月の勉強会は副題に「神武聖跡と有馬皇子伝説」と付いています。

記紀の時代から近世に至る各時代の史観を研究(学んだ)した方とその影響を年代ごとに先ず、勉強。

古典研究(学問)から尊王思想(行動)へ発展し、幕末の維新運動に大きく影響を与えた平田篤胤の項目では「NHK坂本龍馬」を視聴する河童にとって、気を引き締めて聞き入った時間でした。 
江戸時代、水戸光圀の上申により決定された神武天皇陵が現在の綏靖天皇陵。
奈良奉行職の任に有った川路聖謨の日記にある天皇陵の盗掘・破壊の記録。
神武陵の候補地が6ケ所。
文久三年の勅裁により盛土一尺の「ミサンザイ」に決定。
明治に入って神武聖跡(鵄邑・鳥見霊畤)顕彰地や有馬皇子の伝説地(市經)の論争。 

今月も整理された資料や伝承地の指定をめぐって争った村里の裏話を聴き、今後訪ね歩く地が沢山出来ました。

多数の山伏が回峰に参加

2010年04月18日 | 日記
明け方まで降っていた雨も止み、小鳥の囀り、桜の花びら舞う中を当日参集の方も揃い、30名を少し下回る人員で早朝(6時)出発の生駒回峰です。

行程は八代龍王→慈光寺→鶴林寺→宝山寺→教弘寺→里の鶴林寺→鳥見聖跡を回峰する約13km。初めての方・一般の方・女性・年配者等参加者は老若男女で、吹螺は9丁。

峰には若葉が芽吹き、山の桜も残る中、生駒山のパワースポットを訪ね、忘れ去られた行者道「庄兵衛道」を踏破し、春の息吹を満喫した回峰行でした。(写真は宝山寺本堂にて)

平城旧蹟を奈良県庁の屋上より

2010年04月12日 | 日記
今年の平城宮遷都祭に合わせて奈良市を訪れる方にお勧めのスポットは県庁屋上からの遠望です。(奈良の観光パンフレットによると平日は一般開放されています。)

奈良公園を散策した後に、コンビニ弁当を持って尋ねました。屋上には芝生が張られていてベンチも数脚有ります。芝の上で弁当を広げる場所としても最高です。奈良公園では何処に行っても弁当を広げると鹿が寄って来て、落ち着いて食事が取れません。その上、公園内は鹿の糞だらけです。 
東には万葉集に歌われている三笠山、その隣の若草山の姿は高い位置から眺めると対照的でした。
南には大和三山の奥に、吉野山・大峰・八経・金剛・葛城。
西には矢田丘陵の奥に生駒山。
北には木津・笠置山。
市内の一等地に建つ県庁屋上の更に上の展望台からの眺めは河童が活躍する縁のある山々です。一見の価値がありました。 皆様も快晴時には是非、県庁で大きな倭をご堪能下さい。

河童の史跡探訪 「上町台地」

2010年04月05日 | 日記
3月の史跡探訪は上町台地の北辺部です。コースは鵲森宮・玉造稲荷・越中井戸・難波宮跡を歩きました。
いただいた教材の地図には大阪城が記載されていません。探訪地には玉作村・生玉庄・小坂村・熊野一ノ王子・石山の地名が有ります。大昔の絵図を手に謎解きみたいに街中の史跡を探訪する楽しい半日でした。絵図は「難波之圖」(河州雲茎寺什物)です。

最初に訪れた森之宮の社伝に鉄鋼業の租「吉士磐金」が社名に深く関わったと記載されています。タタラ製鉄以前の原材料に関心を持つ河童は、吉士磐金(きしいわかね)の鉄も今後、勉強したい。

河童の総大将「海御前」の塚が

2010年04月04日 | 日記
天疫神社の中に河童の総大将「海御前」が祭られている事も知らずに遊び場にしていました。

昔の子供達はバスに乗る小遣い銭も無く、春の大潮の季節になると、一里(子供の足で片道一時間以上)の道を歩いて、みんなと潮干狩りに行きます。 干潮の始まる時間までは近くにある天疫神社の杜やそばを流れる早乙女川で遊んで、時間を過ごしました。
遊び方は自然を利用した素朴な遊びなので、多少、危険も伴います。木切れで組んだ筏の上で相撲遊びもしました。

(早乙女川は小川ですが、洗堰や河口付近では所々水深1mぐらい有ります。) 

沢山の子供達が楽しく遊ぶ処は毎年、九州の各地に棲む河童族が「海御前」総大将の前に集合して誓いを立てる地です。


戸開け式の次は回峯行です

2010年04月03日 | 日記
本日、好天に恵まれた戸開け式が終了し、後片付けをしていて新たな勉強が出来ました。

戸開式で阪堺役講の年番組方に鍵渡しをする3ケ所の扉「正面・秘密・ハカシ」の鍵が登場します。 その中で、「ハカシ」又は「ハカセ」と称する漢字が河童にとって謎でしたが、鍵を仕舞う際に鍵箱の表書きを確認する事が出来ました。 墨で薄っすら「博世御鍵」と読み取れました。

来週は生駒回峯です。 この冬はダイエットのため、何度も山頂まで登り下りして回峯行の準備をしています。


河童も戸開式に

2010年04月02日 | 日記
明日の戸開式を前に、行者堂や護摩道場の清掃作業に参加してきました。

丸太を井桁に組んで行う柴燈護摩の檀は数日まえに伺った時に組み上げましたので、室内の作業が主です。
百名を越す阪堺役講の役員・講員の方たちが護持院と古式鍵渡しの儀式を行う、会場作りです。襖や障子を外し、一つの大広間を作りました。 儀式の鍵は行者堂の正面・秘密・ハカシの扉のものです。
大峯山上に先駆け、桜の咲くこの季節に元山上の戸開式が行われます。
明日も早くから沢山の方たちと最後の準備を行い、本番を迎えます。

 

古道「庄兵ヱ道」 中間部

2010年04月01日 | 日記
教弘寺から藤尾の古池西側にある石標までを「庄兵衛道」の中間部として、紹介します。

(お勧めは、教弘寺から鶴林寺、ラッキーガーデン脇を通り過ぎて国道308まで車道を歩く事。眺めも良い。)

教弘寺の本堂左にある十三重石塔を右に見て、道なき道(竹林)を南に行くと新しい車道に出会うが、その道を横切り畑地も横切る。次に出会う林の中(所々赤テープが巻かれているが、廃道。)を南方向へに突き抜けると鶴林寺本堂脇に到達。 

鶴林寺を出て右上の湾曲道を半周して、矢崎ファームと矢野家の路地道を通りあぜ道(中間にある柿木の左側)を南に行くと竹林に到達。 
3m程度上ると放棄された小さな田んぼ跡がある。丸竹の藪を掻き分けて東南方向へ渡り、十数本の植林地の先の竹林を進むと、整理集約された西畑の小さな墓地にでる。 墓地の東側にある道を下って切り通しの車道に到着。 

国道308を暗がり峠方向へ行くと、土砂廃棄場が左斜面にある。廃棄場の入り口を過ぎてすぐ、石原川方向の農道を下る(右側が国道の壁面)がある。突き当たりは放棄された棚田跡の竹林。又は、コンクリートの農道を下らずに更に暗がり峠方面に約50m車道を登り、ガードレールの隙間から東方面に竹林の中に進むと、農道からよじ登る棚田跡に出合う。


棚田跡を東南方向へ進むと石原川に突き当たるり、向こう岸へ登る。 東方向に2~3歩で渡河。渡河地点から東方向へ50mぐらい進む。 右上がりの急斜面を高低差水平に進むこと!。(左下側、つまり北側の棚田跡は大変なやぶ漕ぎが必要)

洗堰が左下70mぐらい先に見えくる位置で南方角へ小さな谷筋を登る。約30m高低を登り詰めた東側の尾根に石標がある。今回の目的地。 

石標から右(西)へ行くと西畑の棚田耕作地(梅林)を経て暗がり峠へ行く道。
左(南)へ行くと藤尾の古池の50m上部を通り、次の三叉路の石標まで5~6分、高低差は無い。最終目的地へと続く「庄兵衛道」。

石標には左元山上、右宝山寺とある。(元山上から宝山寺へ行く時には右道を行く事になる。)つまり、ここで紹介する渡河方法は一番簡単な西側からの道筋ですが本来の庄兵ヱ道の渡河と違います。

「庄兵衛道」で確認した石標は全部で10本が現存していますが、そのうち3本が倒れています。 この記事の石標は宝山寺からは2番目です。 千光寺まではあと30~40分の行程を残していますが、国境の残り8個の石標が案内してくれるでしょう。


(今冬、丸竹や野ばらを刈りながら5回踏破したが、夏場はお勧めしません。)