大峰の河童

法螺貝を習得中 

竹矢の矢羽根を探していると石宝殿、満珠・干珠、神変像に遭遇

2024年02月12日 | 日記






鷲や鷹の羽を拾い集めて竹矢を造る目的で山歩きをしている。 羽根は毎年抜け変える(換羽)と聞く、その時期に深山幽谷に分け入って拾い集める事が出来れば楽しい。
しかし、現実的には熊野道、大峰山に係わりが深い八咫烏の羽根しか落ちていないのではないかと思考しながら里山道を歩いていると、突然大きな石組みの古墳に出会った。

墳丘の土は無くなり、平らに加工した一枚岩に、更に大きな石を刳り抜いて石槨としたものを被せて玄室とした稀な形状を見ることが出来た。石宝殿古墳と称する、後期の古墳だ。 標高100m程度の尾根近くに、このような加工した巨石をうつ伏せにした築造技術に驚く。

次は少し下った所の打上神社。鳥居の扁額には高良神社と書かれている。何故、名称に違いがあるのか! 場所柄、饒速日命を祖とした私市物部氏又は武内宿禰? 或いは高良玉垂命?に深く関係者が守護した御社か?

参道脇から西方を見ると、古は河内湖と称されていた街並みの先に高層ビル群が見えた。あたかも、武内宿禰が従い、帰国時に住吉大神の化身である竜神から授けられた満珠・干珠を祀った小島を彷彿させた。 古代人が海外と交易し、文化を取り入れる際に玄界灘と瀬戸内海の海上交通に重要な役目を担った海峡。 そこを見渡す175mの小山には古くは城が築かれ、戦前は海峡の守りに高射砲陣地が築かれている。そこから周囲が見渡たすと風光明媚な景色を堪能できます。東方の周防灘に浮かぶ無人島の満珠島・干珠島は人が訪れる事のない無人島です。源平合戦の時、源氏が舟係りした小島です。
眼下の風景は大都会ですが、古社の祭神に思いを巡らすと、高良玉垂命の高良山麓を流れる筑後川で遊んだ河童仲間を思い出す。

展望台の脇には役行者堂が祀られいる。 修復記念の石碑は比較的綺麗で近年、整備された模様。護摩焚きの広場は近くには無いが月護摩祈祷などが行われているのかな?

大峰で河童の雨ごい踊り、要請案

2023年12月04日 | 日記


雨量が少ない話を小耳にした。水瓶の琵琶湖の水位が下がり、湖底に現れた風景が映像で流れていた。来年の農作業に渇水を心配しても、鬼に笑われて仕舞うが昨今の気象を考えると呑気に構えている事は出来ない。

何時も、遊び場としている河原も水量が少なくなったように思う。河原の面積が広くなったようだ。 小さくなった淵から眺めると標高300mの大峰は昔、旱の時に山裾の村人たちが山頂まで松明行列を行い、雨乞いをしたところだ。

今は、展望台が整備され、山城・大和・河内・摂津の山々が眺められる眺望の良いところである。眼下には古くは古代の武内宿祢に始まり、鎌倉期の後醍醐天皇・楠木一統、室町期の将軍・管領の争い、戦国期の三好・松永・筒井や織田・豊臣・徳川等の終焉の戦を遠目で眺めて来た山頂。

昨今、静謐を保った大河の堤を利用してサイク専用道路が整備されてしまったが、最上流の鈴鹿・甲賀油日岳・忍者岳から流れ下る倉部川では壬申の乱で両軍が乱戦を繰り返した故地と言われている。 中途で伊賀の雨乞い山などの支流を集めた大河が水不足に成ると、河童族の良き遊び場が無く成ってしまう。雨乞い山で雨ごい踊りを計画しよう。

期限を過ぎた缶詰の開封に立ち会う河童

2023年08月30日 | 日記



今年の暑さは河遊びの達人にとっても暑かった。
この時期は食べ物を選びながら、食欲が沸く食べ物を探してパイナプル缶詰に辿り着いた。
数年前から食糧庫に存在を確認していたが、其内にと考えていた代物を取り出してみた。

消費期限を過ぎてしまつて、蓋と底が異常に膨れ上がっている。食す事が出来ないと思いつつも、貪欲な性格には勝てず、開封を試みる。

広い河原の真ん中に据え付け、ガス爆発の大小に慄きながら、缶開け道具をセットする。 周囲の危険に注意して、軽く力を入れた。 劇画風に表現するまでもなく、ガス噴出は微妙な量。風味・臭いに異常は無いようだが、色あいは変色。

鮎や鯉を餌にすることも出来ず、缶詰パイナップルの始末に空腹の河童は熟慮。

河童が空母(強襲揚陸艦)に遭遇

2023年03月02日 | 日記



冬場の寒気来襲でいつもの遊び場は水温が下がり、浅瀬に成っている。水量が豊富な、大きな河であれば多少、住みやい。 食料を求めて大河(大和川)を下っていると驚いた。

正面から小山より大きな艦船が向かってくる。
魚つり園を交し、河口の上流へ侵入してくる。船首付近にはF-35Bと称される多用途戦闘機が数機見える。これ以上近づくと湾内から河川域に入りそうに見えたが、船はクルッと半回りして岸に着いた。

昔の事、安治川の中央突堤に停泊していた空母には一般の人たちが長い列を作って乗船して見学。格納エレベ-タ-で一度に何十人もが船の中に降りる体験コースでした。国籍は豪州?

以前は良く小型の揚陸艦を見かけた。船首や船尾を開いて桟橋に着岸して人や車の乗り降りが出来る船。瀬戸内海の島々を巡る小型のフェーリ-に似通っている。
LST(ランディングシップ)と呼ばれて、陸上と水中を行き来する船に河童族には親しみを抱く。

冬場は小魚を探し回りって小川にカワウが進出してきて煩くなった。いつもの棲み処を離れて偶々大きな河の河口まで出かけて見たが、空母の様な格好をした揚陸艦に驚き、早々と棲み処に戻った。

河童が古代のキャラクタ-探し

2022年10月31日 | 日記


平成26年、ご当地キャラクタ-の「なかっぱ」使用に対する規則が定められた。各地で活躍している河童達のキャラクタ-も取扱規則によって同様に宣伝活動や振興行為に規制がかけられている。 現在は何かとルール重視の生活を強いられ、自由奔放な河童活動の場がなくなったが、制限された行為には注意する。
そこで、現在の「なかっぱ」から少し離れた、他所で活躍した古代のキャラクタ-探しに旅立つ。

古代、福知山・尺岳(けやき谷や竜胆のお花畑)から流れて遠賀川に至る川沿いには河童族が活躍していた。その姿を「埴輪」で表現されていないか? 近場の古墳では見つからないので1,500年の時を経て、日本最大の「ハニワ工場」の遺跡が大河の淀川沿いによみがえった。高層マンション群に囲まれた「数棟の工房跡」や「十数基の窯跡」は公園化されていたが、河童らしき姿・形の埴輪は見っから無い。登り窯風の窯跡が一か所覆いで囲まれて現況に近い状態で保存されていた。

近くの古代資料館や古墳にも再現された大量の埴輪が有る。「なかっぱ」形状の埴輪は探すが無い。 しかし、展示物の中に写真ではあるが木棺の中に2m近くの長弓が六張り見つかったことが記録され、写っされていた。
高速道路の建設時に古墳は無くなつたが、写真に写る弓の材質は檀弓?欅弓? 漆を全体に塗った木弓で少し反りが有る。 昔の発掘技術は未熟だったと言われ、木製の遺物保存状態が心配だ。

河童がつくる蟇目鏑(嚆矢)の完成

2022年02月02日 | 日記



河童が作っる蟇目鏑(嚆矢)は降魔退散の器か。蟇目鏑が五個、完成。

戦の機が満ちると、軍配、鐘、太鼓、法螺貝、嚆矢などで自軍に戦闘開始を伝える。
広い場所に展開している陣営に、瞬時に開戦の意志を伝え、同時に勝利を祈念する鳴り物一つである鳴り鏑にカシュ-塗料を二度塗りした。
一個当たりの重量・サイズは37g~48g、長さが162mm~167mm、太さは61mm~63mm。数値にバラツキが生じたのは途中、計量を失念したため。
朱色で仕上げたのは、魔を破すのは朱色と言われている。 尚、二個に五本の線を胴体に施した。

 古代より(新型コロナウイルスなど)魔から人類の生死を破すのは神弓・秘箭に勝る器は無いと言われている。更に音色を発し、魔を退治する効果が有ると言われる蟇目鏑に五本線を施こすのは線にも意味合いがある。

 五の名数の中に五大力さんがある。宮本武蔵は兵法を宇宙が構成する地・水・火・風・空の五大元素で表した。その書物の題名が五輪の書。この五輪からオリンピックのシンボル マークを五輪と訳した先人。輪だけでなく直線も五本線が最高格式とされている、定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い水平線が引かれた築地塀(土塀の一種)。

 何れにしても、蟇目鏑の胴体に線を施すのは単なる模様や構造上の強化策ではなく、降魔退散に関わる五大力が託されている。


追伸) 将軍足利義教の御弓師、弓術師範を務め、笠懸日記等の著書を残した小笠原持長(小笠原宗家の
    持長と別家)が書いたと思われる「犬追物伝書(約2万字弱のひらがな文字混ざり」の写しの一節
    に、鏑について書かれている。

   一. 矢の事かふらをもつて本とす、是神代について、種々の口伝ありといへとも、書のする
     に及ハす、然は、今の代の矢ハ征矢ゑひら本なり・・・・・・・大将の外切符ハ斟酌ある
     へし、

   一. かふら長さ三ふせ目、四ぬため本成へし、・・・・・・・我矢つかに二ふせはかり長くして、
     其きわを糸にてもかわにてもまきてうるしをさす、これを矢つか巻といふなり

   一. あたりはつれの事、まむ中にあたりてはさみ物われたりといふとも、糸程もかゝりてわれの
     かすははつれ成へし

   伝書のすべてを判りやすい和訳(現代)文に直す作業も試みたい。

河童の目に似た、蟇目鏑の材料を加工。

2021年09月20日 | 日記



 材料の加工は拾ってきた桐材を小さく半割カットして、一つ分の材料を確保(右上)。手元の集積材(中国の桐)で一個分(左下)。すでに加工途中のものが三個(中の未成形)。以上の五個が今回の作製数量。残りの桐材(左上の丸太と1/4半割材)は次回に回す。
 製造を少数にした訳は加工変更に対処して、材料のサイズを変更するため。出来上がり重量や加工の容易度、共鳴の度合いなど、集積材桐材と比較するため。沢山作っても貰い手が無い。過去に十数個、作ってたが成功作品?失敗作品?の検証が出来ていない。昔、車のスピ-ドを上げて窓の外で鏑の音を聞いたが、走行音がうるさく、鳴り鏑の音を聞くことができなかった。

 太さや長さは型紙(木製)を使って計測しながら小刀で削る。蟇目鏑と言われている目の位置、大きさ、角度などは紙形を使って丁寧に加工するも全て同じ蟇目に作りこむのは困難。小刀やカッタ-ナイフ及び鑢(100金)だけでは加工が難しい。
今回は出来るだけ試射に立ち会う機会を目指して、五個の完成品、作製を試みる。


蟇目鏑の材料確保

2021年07月01日 | 日記
    

蟇目鏑の材料を検討
昔、庭木の青桐の枝で良く木刀を作った。
幼少期は剣豪ブームであり、軽くて、湾曲の無い桐の枝は木刀に最良の材料であった。
柔らかい木目は力のない子供にも肥後守で簡単に加工できた。
記憶を頼りに朴や桐を探しに野山を散策。 「桐を発見!」 
街路樹に良く植えられていた青桐と樹皮が違うので、少し切ってリックサックに入れて持ち帰った。 
軽い桐であっても伐採したては水分を含んでいて、直径が20cmぐらいもあり、重くて多少疲れた。

この桐材を乾燥させ、使用できるまで中国産の簀子を代用品に使って蟇目鏑に挑戦。鏑の目が蟇蛙の目に似通っているそうです。
弓道の式典を遠目から見た所では河童の目にも似ていると私は思う。
河童の地元では戦に敗れた将の奥方から指示を賜るために庭先で「目を見開」き聞き入る河童の姿が伝えられている。
今となっては如何なる作戦か? 白い蕎麦の花が咲くころに蟇目顔した河童たちが大勢集合して指図を受け、警戒に当たった。

何れにしても、安い材料で簡単に加工でき、蟇目の形状を変えて試作を要する。尚、試作品の試射を如何に行うか? 
射手から離れて飛翔中の蟇目鏑の音量を体験したい。
河童が詫び状を書いた海辺(海峡)の潮騒に負けない鳴り鏑の音量を越えたい。完成品した際の試射方法が難題。

河童の散歩道に「蚕の繭」

2020年04月09日 | 日記



いつもの散歩道に「蚕の繭」を発見!  天然繭は貴重!

樫の木の落ち葉に隠れて「繭玉」を見つけた時には驚ぎ、付近を更に探すと合計三個拾う。
小さな子が実習で蚕の幼虫(毛蚕)を飼育し、繭玉を作るまでの観察学習を一度、経験。
拾った繭玉を良く観察すると、中の蛹は蛾と成って飛び立った残り繭。

昔々、カイコは農家の副業として自宅の屋根裏等を利用して飼育し、家蚕(かさん)と称していた。 人の手で育てられた蚕が屋根裏から逃げ出して野生化したのか? 周辺では綿花を栽培していたが蚕の飼育農家はいない。 周辺に桑の葉も見つからない。

大昔に家畜化した蚕は桑の葉、それも水滴が含まない新しい葉だけを与えられてきたので自然界では生きてはいけない。 散歩道で拾った繭は「ヤママユガ」と思われる。 繭の色は純白ではない。 少し、黄色味がかかっており、黄金色が褪せてきた様だ。

桑の葉を蚕に与える際、朝露やにわか雨などの水滴は禁物。 ゆえに、いつも川辺で遊んでいる河童の頭には絶えず皿が乗かかって水が満たされている。 養蚕農家に河童は近づく事が出来ないので、蚕に縁遠いい。 (養蚕家に見つかると棒で追いやられた。)

近くを更に探すとウスタビガ(「薄手火」、「提灯」)の繭が小枝にぶら下がっていた。 この繭はたまに見かける。 大きさは半分ぐらい小さく、色もかなり緑色。
 

河童に遭遇・出会いに期待して沖縄へ

2019年04月08日 | 日記


事前調査では河童の住処である川が県内に大小300余りあるそうだ。 サンゴ礁が隆起し、石灰岩の地層の沖縄で比較的河川が発達している本部半島を主目的に訪れる。

半島は厚い石灰岩を主層に粘板岩・チャ-トなどの山岳地帯で、八重岳(453m)は県内4番目の高さである。 大半の河川は流域が狭く、河床勾配が急な為、大量に降った降雨を保持できない。 河童が好む水深の深い、澱んだ流域に留まらず短時間に大海に流失してしまう地形が大半。

河童が隠れ家として生息する条件は環境が大事。 人里に近く未だに自然環境が良く保たれ、川遊びを楽しく出来る場所が多ければ、河童に出会う機会もあり、期待が持てる。

訪問地には「やんばる学研究会」なる山原地域(北山王国)を研究し、定期発表会や会誌を発行して活躍する団体を知った。 2011年の発足で、研究対象は広範囲に渡っている模様。 研究成果の中にはキジムナ-、ブナガヤ、ボ-ヂマヤ-、ヤンバサカ-、セ-マ-セ-マ-、ガヤブヤ-等の多彩な名称で語られる民俗話がある。 

今回、探索した場所は名護の辺野古集落・羽地ダム湖畔、今帰仁村の古宇利島一周・今帰仁城跡、本部町の海洋博公園を訪れた。 しかし、道端の案山子や無人のブル-シ-ト・テント村を所在なげに見つめる数十名の警備員には出会ったが、河童に出会うことは無かった。

「やんばる」は広い、探索場所を間違えたのか?  再度、自然環境が色濃く残る沖縄の河童探索の旅を計画しよう。

テレビに出演した河童に遭に行ってきました。

2018年04月10日 | 日記


竹弓を造る際の、反り鉋が欲しい。 関板の加工に必要?

出歩くたびに刃物を探していると「土佐打ち刃物」の出張販売に出会った。処は終戦間際に活躍した紫電改の展示を見学し、回国巡礼に戻った県内の道の駅でした。 しかし、その時には目的の鉋が販売されて無く、幅広の丸刃の彫刻刀と細身の切り出しを購入。

以前、関西方面にドライブ中、地域の特産品販売と言う事で三木や小野の刃物店が高速道路のパーキング内で販売していた。 何処のパーキング?
今回、中国道を走って見つかれば購入する予定で本日の目的地、福崎まで足を進める。  付近のパ-キングに立ち寄るが刃物販売店が無い。山陽道の間違いだったか? 

本日の遠征は、最近テレビでよく放映され、名が売れて来た「兄弟河童」に遭うため。
当日もテレビ大阪が吉本の芸人を案内人にした番組収録を行っていた。

河太郎は池の向こう岸に屈み込んでいる、河次郎は池の中。 最近は子供の河童も遊びに来ているそうだ。 
ボランティアのオジサンによると「最近は出現の時間が短くなり、良く現れるように成った」との事。

公園敷地内には移築ではあるが、柳田国男の実家や松岡家記念館がある、時間をかけて見学。
展示物の石神問答等の初期出版物を始め、映像などと伴にだ学芸員(奈良の学校で学んだ)と話し込む。
貴重な出版物は明治初期の装丁で、意外に粗末な紙質の様だ。

学芸員によると民俗学を専攻した学生の就職先は狭いそうだ。


河童の竹弓造り「裏反りの固定台」

2017年06月29日 | 日記


弓芯と外竹(節は7ケ所)、内竹(節は6ケ所)の加工が完成。 関板は側木の寸法を取った残りの櫨木の切れ端を加工した。
 
しかしながら、弓芯の作成時に生じた接着不良を改善する事が出来ない。 三千本膠では純度が高く接着力が不足するのか?

昔、山で取って来た女竹で弓を作り近所の遊び仲間と港町の倉庫街の空き地で飛距離を競って遊んだ。 小学生の子供の遊び道具であっても50m近く、矢を飛ばしていた。 時には倉庫の屋根に止まっている土鳩を的にして遊んだ。 

その遊びの記憶では弓力を得るために弓の中心部分を2本の竹を寄せ合わせていた。 結束は単に紐で四ケ所を結び付ける。 接着剤など高価なものを買う事が出来ない貧しかった子供時代を思い出す。

「ニベ弓」の強力な膠接着の効果と彎曲を得る手法が見つからないので、弓造りを先に進める事にした。
反りの形を整える型入れ作業は難しそうだ。 実作業を見る事が出来ないので想像するしかない。 「日本の職人技を紹介するテレビ番組を一度見たが裏反りの角度などは伝統・経験との技の世界」。

弓の裏反りを付ける過程で、膠に対して熱を加えていた。 少しの水を弓竹や縄に加え、焦げを防ぎながら接着面の膠に熱を伝えて曲げている。 細長い火桶(ドラム缶を縦半分に加工して代用)に炭火を広げ、広い範囲に熱を均等に加えている映像だった。

ドラム缶等は簡単に入手できる。多人数での焼肉パ-ティは何時もドラム缶を2~3個並べていた。 弓を過熱する炭火の火加減が難しい。 焼肉や野菜を焦がさずに焼くのでも難しかった。

しかし、暇を持て余し、遊びで造り出した「弓矢」造り。河童が創造で「竹弓造り」始めたからにはここで諦める訳には行かない。 そこで裏反りを一定にする為「裏反り固定型」を考案。

分厚いコンパネを両側にして、中に角材を挟む。 弓に反りを入れる際に捩れが生じないよう工夫を施す。

この固定台(左側)が機能すれば同じ型の「裏反り弓」を得る事が出来る。大いに期待し実証に進む。

河童の竹弓造り、「楔打ち」・「張り台」

2017年06月10日 | 日記



弓芯が出来上がった。関板と内竹・外竹や当竹(笹)も加工が完了。次の工程「弓打ち」に進む前に接着(ニカワ)技術の真似ごとをする。
ニカワが乾くまでの短時間に紐を数センチ間隔で巻いて行くのは難しい。紐の間隔が狭くなったり広くなったりする。一定の間隔で巻き付ける様に当竹(笹)に目印をつけて置こう。

楔(竹製)を打ち込む試技。
楔の先の角度や厚みにバラツキがあり、交差させた紐の下に上手く打ち込む事が出来ない。楔が抜けないように強く打ち込むと紐が締まり、次の楔を紐に差し込む時間がかかってしまう。手加減が大事。

関板部分の楔打ちも手加減が必要。紐の巻き付け方や楔の打ち方に注意をしなければ関板が外側に大きくずれて、内竹との間の隙間が大きくなる。木槌で関板を中方向に叩き入れると、楔が緩み抜けてしまう。「弓打ち」本番までに練習が必要か?

張り台の製作。
次の工程「弓打ち」「藤放し」「関板削り」へ進む前に「張り台」を造って置こう。
植林し100年は経ったヒノキの山出しを一度手伝った。柱は丸太の中心部分から取る。何本も柱が取れる太い丸太の外側はCUTした際に廃棄するか薪にする。 その廃材が5年経過して良く乾燥している。何か所か節は有るが、この廃材を使って「張り台」を造る。

完成総重量が20㎏近くになったが、弓を当てる幅が8~10㎝もあるので「弓張り」には十分可。釘やボルトを使わずに、宮大工の真似をして木栓で張り合わす(固定)ことにしたが、丸い木栓造りに時間を要した。

弓の裏ぞり。
弓に紐を巻き付け、楔を打ち込んで接着を強める。その上で「裏ぞり」を大きくする事が出来るのか?圧着が強ければ部材に直線と成る力が働く。曲線の「裏ぞり」を造るには楔の力加減はどの程度必要か?まず実行あるのみ!「裏ぞり」具合の曲線図を試みる。

河童が宇和島城で「上棟式祭礼具の飾り矢」を見つける

2016年10月06日 | 日記
  

高知城に続き宇和島城を訪ねた。重文の天守に入ると、すぐに上棟式に使った「飾り矢」が目に付く。受付の方に尋ねたが何時・何処で使い、なぜ保存されているか?事情は不明。
現品(写真)は余り古いものではないので以前、天守を解体修理した時の物ではなく、別の建屋で使用した物を単に天守閣に運び込み保管しているだけか?

次に訪れた大洲城では再建された天守閣の上棟式(平成15年)で棟木を飾った「矢」が保存されていた。

昔より土地の形状を変更する時には土地神さんに一時借用の断りをしなければ成らない。建屋建築に際して工事中の安全祈願よりも土地の形状変更に伴う災害防止に努める方が大事であったか?

そこで、古来より降魔退散に用いる器(祭礼器具)では神弓秘箭に優る物はないと言われている弓矢を用いた。伊勢神宮や春日大社でも同様に大工方が「天と地の魔を払う飾り矢」を棟上げ式に飾り、祭礼をしている。又、寺院行事の一つ、野外の柴燈護摩でも山伏は七里四方の結界を弓矢でもって行っています。

弓矢の神秘性は古事記・日本書紀の昔から引き継がれている物で、伊勢神宮徴古館や春日大社宝物殿に奉納されていた弓矢は装飾性が高く(漆塗り加工・螺鈿装飾等)、如何にも神前に御供するに相応しい物です。

以前、見学に行った吉野川上村東川(うのかわ)の烏(からす)川(がわ)神社の弓祝式でも「桑(そう)弓(こ)蓬(ほう)矢(し)」で天地四方を清め「千破美(ちわみ)踊り」で鬼を油断させ短刀で退治するものでした。

宇和島地方では今でも上棟式祭礼具の一つに「降魔退散の飾り矢」を用いる。いまでは全国的に少なくなった民俗的行事の一つです。

仙台伊達家との関係は大坂冬の陣の結果で領主となり、天守閣前の広場で披露されていた伝統芸能の「宇和島さんさ」も仙台と関係が深いようです。静かな音色の三味線・尺八に合わせた踊り手の手つきに大変興味を惹かれた。

秀吉にかわいがられた伊達秀宗と毛利(森)勝永は夏の陣でも陣営が遠く離れており出会いはなかった?

河童が「酷道与作」で肝を冷やし、戦闘機「紫電改」に遭遇

2016年10月05日 | 日記


土佐の酷道439号線で肝を冷やし、愛媛・愛南町の「紫電改展示館」を訪れる。一昨年も農水産物の「新鮮とれたて市」に訪れた際に、立ち寄っているが写真を撮り損ねた記念館である。

戦争末期に宇和島湾(久良湾)の海底に沈んでいた機体を34年後に引き上げ、展示している日本で唯一の物だそうです。松山海軍基地から飛び立っち空中戦を繰り広げたそうです。ゼロ戦の後続機の「紫電」を改良した機体が「紫電改」と呼ばれたものです。

戦後生まれの河童にとっては戦時の遺構体験の一つに高射砲陣地での遊びがあります。高射砲の台座跡や地下2階建て構造の兵舎跡は赤れんがやコンクリ-トで頑丈に建てられていて、子供にとって珍しい遊び場でした。周囲は木造建築物が大半で、学校も木造です。もちろん自宅は木造の長屋でした。

兵舎跡は4ケ所あり、独立していた様ですが奥の通路部分で各建屋が繋がっていた。完全な地下構造で上屋部分には2m以上の土が載せられていた。子供たちは暗闇に目が成れてくると地下2階や複数の部屋を繋ぐ中央通路(長さ50m)などを探検(肝試し)して遊んでいました。

大峰山中にB-29が墜落した時の機体エンジンが洞川の資料館に展示されている。又、以前に道端(豊中)にも小型飛行機のエンジンシリンダ-部分が錆びたまま放置されていたのを見た記憶がある。バイクのエンジンに似た十数個のシリンダ-は単なる鉄の塊だった。