人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

植物のイメージ:石井桃子『幻の朱い実』

2014-12-21 12:04:19 | 少女
必要があって、石井桃子の小説『幻の朱い実』を読んだので感想書きます。
『幻の朱い実』は自伝的小説と言われているそうですが、私には参照すべき資料も手元にありませんので、その辺にはあまり言及しません。

梗概及び特徴:
ヒロイン明子と大学時代のあこがれの的だった大津蕗子との友情を描く。
物語は大学時代は特に交流のなかった蕗子と再会し、友人になる場面からはじまり、明子の結婚までを描く第一部、明子の妊娠とほぼ同時に蕗子の結核が悪化し亡くなるところまでを描く第二部と、子供たちも成長し夫も亡くなったはるか後年、明子が蕗子の妊娠と堕胎の話を聞いたことから、真偽を確かめるためにかつての友人加代子とともに手紙類などを集める第三部に大きく分かれる。
物語の大部分が手紙の引用という形式で展開されること、蕗子との再会において描かれる烏瓜、鰯漁を見に二人で出かけた宇原で摘んだ水仙など、植物の描写が重要な場面で描かれる点が特徴だろう。「幻の朱い実」というタイトルは、蕗子との再会で描かれた烏瓜、そして物語の最後で、新宿御苑で見つけた小さい烏瓜を前に娘に向かって「大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった!(中略)あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだってこと!」(下巻、362頁)と言ったことを指す。

(1)手紙の引用について
手紙の引用が大部分を占めるという点がまず目に付く特徴だろう。
私は以前、詳しい考察過程は省くが、『紫式部集』に関する論文で、結婚や死別によって失われた女性同士の心の交流を構築するもの、と結論づけた。→「『紫式部集』四番歌・五番歌の再解釈―女性同士のつながり―」
『幻の朱い実』における蕗子と明子との手紙のやり取りの引用にも、そういう意味合いがあると思われる。

(2)烏瓜の実
すでに触れたが、物語では植物の描写が重要な場面にあらわれる。その中でも重要なのが、タイトルにも関わる烏瓜の実。
(再開場面の烏瓜)
 そして、わざわざ目をやるまでもなく―というより、向こうから強引にこちらの目をひきこむように―細道の左側、四、五軒めの門口に、何百という赤、黄の玉のつながりが、ひょろひょろと突きたつ木をつたって滝のようになだれ落ちていたのだ。明子は小走りにそこまでいってみた。
 のびすぎた木は檜葉で、それに薄緑の蔓が縦横無尽にまつわりつき、あるものは銀鎖りのように優美に垂れ、入り乱れてからまりあう蔓全体からぶらさがっているのは、烏瓜の実であった。(上巻、4頁)

(1年後の烏瓜)
 だが、その一方、あの檜葉からは、前年ほどの華やかさではなかったが、やはり無数の烏瓜の銀鎖りが垂れ、そこから、美しく赤らんだ実に交じって、まだ白と緑の縞を描いた小動物めいた若い実もぶらさがっていた。(上巻、140頁)
(最後に描かれる烏瓜)
 御苑ではほんの少し色づきはじめた木々も美しかったが、明子が目ざしたのは朱い烏瓜の実であった。駐車場周囲で、すぐ目についたのが、小粒の黄烏瓜だった。
 「こういうんでないのよ。」と、明子は言った。
 目のいい葉子に助けてもらって散々歩きまわり、あきらめて帰りかけたとき、出口に近い日陰の場所に、十つぶほどのあわれな実が、しなびた蔓からさがっていた。(下巻、361頁)
 「葉子、大津さんの烏瓜ね、この千倍も、万倍も美しかった! 千倍も万倍も! こんなもんじゃないのよ。あなたに見せたかった、そういうものも、この世にあるんだってこと!」
 葉子は、母の腕をとっていた手に力をこめ、しばらく無言でいてから、
 「ママ、いい友だちなくしたママの気持、わかるつもりよ。あたしたちには、もうそういう友だちはつくれない。でもね……。パパやあたしたちのことも忘れないで。」
 「何いってんの。忘れようったって、忘れられないじゃないの? いつもあなたが、こうしてあたしをひったてるようにして歩いてるんだもの。」(下巻、362頁)

 烏瓜は別名を「玉梓」(手紙)と言うため、まずは蕗子と明子との手紙を象徴するものであり、冒頭で描かれる銀鎖りのように連なった烏瓜は、蕗子と明子との手紙によって構築された『幻の朱い実』という作品そのものを指すと言える。娘の葉子とのやり取りは、今の世の中にありえない存在となってしまった蕗子との友情を懐かしみつつ、葉子のような娘世代の新しい文芸行為に導かれていることを認め、娘世代の新しい文芸行為を寿いでいるものとひとますは解釈できる。
 ただ、ここで注意しておきたいのが、花ではなく「実」がそのイメージとして選ばれている点。というのも、通常「実」のイメージは子供や生殖と関わり合うものであり、明子の妊娠が蕗子の死と引き換えのように描かれており、第三部では蕗子の妊娠と堕胎が大きな謎として重要なモチーフとなるからである。

(3)植物のイメージ
 良妻賢母教育と関わって園芸の重要性が説かれ、白百合の花が純潔の表象である(渡部周子『「少女」像の誕生 近代日本における「少女」規範の形成』新泉社、2007年)など、花は少女と切り離すことのできない表象であり、吉屋信子『花物語』など、少女同士の結びつきにおいても重要なイメージを喚起させる。
 しかしながら『幻の朱い実』において蕗子との友情を象徴するのは「実」であり、当然ながら「実」は子供や生殖のイメージと結びつく。
 これは蕗子の死と引き換えのように明子の妊娠が描かれること(蕗子の葬儀の「翌日から、彼女は三日ほど寝つき、それからの一週間を佐々木先生の病院に収容された。妊娠二カ月、つわりの症状と宣告された」下巻、234頁)、蕗子が堕胎したか否かが第三部で重要な謎となることと関わっていよう。
 物語の構造上、蕗子の死と引き換えに明子の子供が生まれたかのように描かれる以上、蕗子自身の妊娠と堕胎は明子に大きな混乱をもたらしたのだろう。

(4)「幻」の含意
 ただ、ここでさらに注意すべきは、ただの「実」ではなく、「幻」の「実」であることである。「そういうものも、この世にあるんだ」ということを明子が葉子に見せたかった、「幻の朱い実」。
 『幻の朱い実』において、「幻」という言葉が出てくる場面はない(と、思う。私の記憶の限り)。ただ、私が以前森茉莉の『甘い蜜の部屋』を考察したとき(「森茉莉『甘い蜜の部屋』と『源氏物語』女三宮―女三宮からモイラへ」)、「幻」には性愛関係がないという含意が込められていた。性愛関係はないものの、性愛関係よりも濃密で素晴らしい関係。
 (だが、これは俺にとって現実の花ではない。桃李は、幻の桃李だ。冠を正す必要はない・・・・・・)(『甘い蜜の部屋』147頁)
「現実の花」ではなく「幻の桃李」であるという表現は、「永遠に交接のない父と娘の間柄」(294頁)ともあるように、近親相姦はありえないことを象徴する。
 したがって、「幻の朱い実」が象徴するものは、永遠に交接することのない蕗子と明子との、幻の子供を象徴し、それは美しい赤や黄色の実を銀鎖りのように連ねた手紙によって構築された小説『幻の朱い実』である。

*引用は石井桃子『幻の朱い実』上、下、岩波書店、1994年、『森茉莉全集・4‥甘い蜜の部屋』(筑摩書房、1993年)による。

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