時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

王室画家の世界(3)

2006年03月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Philippe de Champaigne, Ex-Voto, 1662, Oil on canvas, 165 x 229 cm. Musée du Louvre, Paris. Courtesy of Web Gallery of Arts:
http://www.wga.hu/html/c/champaig/ex_voto.html


国民的画家となったプッサン
  王室主席画家に任ぜられたプッサンは、同僚画家たちの怨嗟、誹謗、中傷などの的となり、冷たい環境にさらされた。しかし、王や枢機卿の依頼を精力的にこなし、王宮美術を通して多大な影響をフランス美術界にもたらした。フランスで活動した年月は決して長くはなかったが、フランス国民は今日この画家を国民的画家とみなし、多大な尊敬を払っている


  他方、プッサンが画策したことではなかったが、王室主任画家の称号をとられてしまったヴーエにとっては屈辱の日々であったろう。抗議の書簡を王に届けることなどもしたようだ。

フランス美術界に貢献したヴーエ
  ルイXIII世やリシリュー枢機卿の関心がプッサンに傾いたとはいえ、ヴーエは当代屈指の画家であった。彼自身も1613年から1627年にかけてイタリアに滞在し、カラヴァッジョやアカデミーを持っていたカラッチ一族、グエルチーノなどの画家たちの影響を受けていた。フランス人としてヴーエは、当時屈指のイタリア美術の体得者であった。法王ウルバンIII世もパトロンであり、1624年にはローマのサン・ルカ・アカデミーの代表に選ばれ、サン・ピエトロ大聖堂の壁画を描いている。それだけに、強い自信も誇りもあったと思われる。

  ヴーエは当初カラヴァッジョ風の作品を制作していたが、その後はイタリアのバロック美術の流れへと移っていった。宮廷を介在して、17世紀フランス美術界にバロックの潮流を導入するに大きな役割を果たした。フランスに戻ってのヴーエの画風は、明らかにイタリア・バロックを受け継いだものであった。この画家はカラヴァッジョの劇的な光と影、イタリアのマネリズム、パオロ・ヴェロネーセの色彩感覚など、多くのものを取り入れ、自らのものとして消化している。ヴーエは弟子も多く、次世代の画家たちを多数育てている。

宮廷画家の世界に失望したプッサン
  他方、ルイXIII世の招聘であったにもかかわらず、プッサンにとっても宮廷画家の陰湿な世界は耐え難かったようだ。結局、彼はパリの宮廷画家の生活に失望し、1642年にローマへ戻ってしまった。そして、二度とフランスへ戻ることはなかった。依頼されたGrande galerieの装飾の仕事も未完成のままだった。プッサンがパリにいたのはわずか2年足らずであった。この年の末、リシリューもこの世を去った。パトロンの健康状態もプッサンに帰国を決意させた要因のひとつだったと思われる。しかし、プッサンはこの世紀を通して、フランス絵画に古典派の潮流を導きいれるというきわめて大きな貢献をした。ヴーエとプッサンという二人の偉大な画家の確執は、長く続いたバロックとまもなくロココにつながる官能的、装飾的な画風という美術界の大きな潮流の対立とその結果でもあった。

シャンパーニュ:引き締まった作品
  この時代のフランス王室画家として、もうひとり欠かせないのは、リシリューの肖像画を多数残したフィリップ・ド・シャンパーニュPhilippe de Champaigne (1602-1674)である。シャンパーニュは、マリー・ド・メディスのリュクサンブール宮殿の装飾などに携わった。このときの仲間に、イタリアに行く前の若きプッサンがいる。プッサンは、シャンパーニュとは、さほど厳しい対立にはならなかったと思われる。   

  シャンパーニュは、師であるニコラ・デュシェーヌの娘と結婚し、生涯、フランスで暮らした。国王ルイ13世の宮廷画家として、活躍した前半期は、華やかな肖像画を描いた。1645年以降は、バロック的な華やかな絵画ではなく、質素で慎ましいが、表現力に富む絵画を描くようになる。

肖像画の第一人者
  自ら招聘にかかわったプッサンを別にすると、枢機卿リシリューが期待をかけ、評価した画家は少なかった。リシリューが高く評価して好んでいた画家の一人が、シャンパーニュであった。

  シャンパーニュの作品は、リシリューが期待したような壮大さや壮麗という点ではいまひとつの感があったが、リシリュー枢機卿は大きな信頼を置いていた。特にシャンパーニュは肖像画を描かせれば当代随一の画家であったといえる。リシリューを描いた作品も、画面に張り詰めたような緊張と人物の威厳が漂っている。様式化が進んでいることは認めるとして、枢機卿がごひいきの画家であったことは十分に見て取れる。

  さらに、シャンパーニュは後年、ポール・ロワイヤル修道院のジャンセニスト(カトリック宗教改革の中から生まれた一派、ジャンセン派、厳しい戒律で知られる)と関わるようになってから、この画家の作品はさらに変化した。ひとつの例を挙げておこう。同時代の画家として、ラ・トゥールの研究文献などによく掲載されているシャンパーニュの作品に、ここに掲げた二人の修道女を描いた作品がある。ちなみに、この記事に掲げたイメージの一人(右側)は、修道女となった画家の娘である。背景の光の射し方などにラ・トゥールとの関連を見る人もいる。画面からは端正な引き締まった美しさが伝わってくる。   

  さて、ラ・トゥール(1593-1562)も、1639年に6週間パリにいたことも確認されている。それによると、滞在の目的はフランス王のための仕事となっているが、具体的にいかなることであったかについては残された王室文書はなにも語っていない。この時にラ・トゥールも王室画家のタイトルを授けられているが、プッサンのように重みをもったものではないと考えられている。ラ・トゥールはヴーエやプッサンのような壮麗さ、華麗さとは別の世界で、多くの人々を魅了し続けている。ところで、大政治家リシリューにとって、ラ・トゥールはいかなる画家だったのだろうか。 
 

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