時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ヨブとその妻:ラ・トゥールの革新(8)

2017年10月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ジョルジュ・ド・ラトゥール
「妻に嘲笑されるヨブ」部分
エピナル(フランス)県立古代・現代美術館
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不透明なヨブの妻の位置
「ヨブ記」にはヨブの妻のことは、ほとんど記されていない。筆者は、初めてこの ラ・トゥールの作品に接して以来、美術史家などがつけた画題「妻に嘲笑されるヨブ」に疑問を感じて何度かヨブ記を読んでみた。「ヨブ記」に残る短い記述だけが、ヨブの妻についてその輪郭を推定させるわずかな材料となっている。しかし、聖書の翻訳と解釈は文語訳、口語訳、あるいは言語の違いもあって、かなり混沌としているところがある。ラ・トゥールのヨブの妻が描かれた作品についても内外のカトリックの友人に画像の印象を尋ねてみても、納得できる答えはほとんど何も戻ってこなかった。これまで考えたこともないという答え、あるいはなぜそんな質問をするのかという反応がほとんどだった。しかし、踏み込んでさらに議論すると、なるほどと答える人もいる。

結局、自分で調べ、考えるしかない。「ヨブ記」はよく知られている割には、現代人が読むと疑問が次々と生まれてくる。元来、「神こそ全て万能、正しい」という弁神論(悪の存在が神の本来性、特にその聖性と正義に矛盾しないことを主張する説)で書かれているので、多少の矛盾は目をつぶるとしても、目前の絵画イメージから生まれた疑問は解決しない。

通説では、ヨブの妻は自分の身の上に降りかかった想像を超える災厄・苦難に耐え忍ぶヨブに「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったという。もうひとつは、「神を祝福して、死んでしまったら」という解釈だ。後者は前者のeuphonies(耳障りの良い表現)との説もある。「ヨブ記」は歴史上最初に、無垢な者の苦しみに正義の神が苦難を与えうるのかという問題に集中した作品であるとされる。誰がいつ頃書いたかについても、諸説ある。

 * "are you still holding on to your integrity?" 
       "curse God and die" 
       Job 2:9
       邦訳は、「ヨブ記」2-9、新共同訳「聖書」日本聖書協会

 

 さらに、ヨブの妻自身の感情は、ヨブへの短い嘲り?の言葉以外、何も示されず、ヨブのように神から試練や苦難を受けることもない。しかし、現実的に考えると、10人の子供を失い、家や家畜などの財産を全てヨブが失った以上、妻も大きな苦難の中にあったはずだ。彼女がヨブを見捨てているならば、炎熱と皮膚病に苦しむヨブに水をかけてやったり、見舞いにくるだろうか。

解けない謎
本ブログ筆者が注目するのは、ヨブの妻の衣装である。全ての財産を失ったヨブの姿とは対照的に美しい。しかも、聖職者などに近いイメージである。もし、妻が神に仕える身であれば、この作品に込めた画家の含意も異なってくる。

信仰の本質的問題を歴然とさせる作り話だとする宗教学者もいる。あるいはアイロニーだとも言われる。現世的な利益が全て失われても、人は神を信じることができるのか。「苦しいときの神頼み」という表現もある。

ラ・トゥール作品の謎は未だ解けない。

ちなみに、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール夫妻が共に死去した1652年1月の時点で、夫妻の間に生まれた子供8人のうち、生存していたのはエティエンヌ、クロード、クリスティーヌの3人だった。

 


 Albrecht Dürer, Hiob von seiner Frau verhöhnt, Städtische Galerie, Frankfurt am Main 





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