時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

遠からず来る時を前に(4):ひとつの整理

2020年05月02日 | 特別記事

 

ニューヨーク、クライスラー・ビルディング眺望

緊急事態宣言が延長されることがほぼ確定した5月1日、そして今日も日本列島はほとんどが真夏日のような快晴だ。例年ならば、連休のさなか、多くの人たちが国の内外、至る所で休日を楽しんでいる時なのだが。

「危機の時代」は「文化の時代」
前回に続き、1930年代のアメリカについて少し記したい。ブログ筆者はかねてからこの時代にある関心を寄せてきた。というのは、1930年代のアメリカは大恐慌によって深刻な経済危機を経験したが、他方、文化面でも「ニューディール文化」New Deal Culture といわれる社会文化的状況を生み出し、注目すべき時代だった。危機をものともせず、社会に貢献する画期的な発明・発見が活発になされた時代であった。この年代の感想を今は少なくなったが、年配のアメリカ人に聞くと、特別な感慨を抱くという人も多い。筆者の友人の両親(今は故人)なども、浪費を避け、ものを大事に扱うなど、苦難な時代の消費パターンが身についた人たちだった。

この時代は、1929年10月のウォールストリートの株式大暴落と1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃という衝撃的な出来事で、あたかもブックエンドのように挟み込まれた特異な期間である。

東京オリンピック開催期待の大輪の花火があっという間に消えて、新型コロナウイルスの世界的蔓延で暗転した世界、そこに何が起こり、何が期待できるか。少しタイムマシンを戻してみた。

筆者が初めてニューヨークを訪れた時、最初に出かけた場所の一つに、クライスラービルがあった。親しい友人の父親が、ここに支店を置く銀行の支店長をしていたので、連れて行ってくれたのだった。以前にブログに記したこともあった。当時その銀行、Manufacturerers Hanover Trust Companyは、アメリカの3大自動車企業クライスラー社のメイン・バンクでもあった。クライスラー・ビルは、アール・デコ風の特徴のある美しいビルだった。内部のオフイスも重厚感ある素晴らしい雰囲気だった。スリーピースを着込んだホワイトカラーがゆったりと仕事をしていた。このことは、以前にブログに記したことがある。

この銀行はそれまでいくつかの合併を重ね、下記のロゴを使っていた。
The 1960–1986 Logo



クライスラー・ビルディングは、高さ世界一の超高層ビルを目指して 1928年に着工した。当時、ニューヨーク市内では高さ世界一を狙う超高層ビルの建設で競争の真っただ中であった。この建設は、特に ウォール街の シンボルを目指したウォールタワーと 世界一の高さを競って、当時としては猛烈なピッチで進められた。建設途上でも競争相手の動向に応じて、設計内容を次々と変更した。ここでは省略するが、その沿革を調べてみると、非常に興味深い。

1930年4月、38 mの尖塔を建設途上で追加し319mとなり、クライスラー・ビルディングは完成した。 ウォールタワーを上回り、世界一高いビルの座につくことができた。しかし、翌年の 1931年エンパイアステート・ビルの完成により、世界一の座を明け渡すことになる。それでもアメリカの1920年代の繁栄の歴史を物語るニューヨークの摩天楼の中の傑作である。エンパイアステート・ビルから見たクライスラー・ビルは大変美しい。とりわけ、ステンレスで輝く尖塔部分が大変印象的だ。

クライスラー・ビルの尖塔

平均して一週間で4階分の高さを増していくというペースにも関わらず、この建設工事中に死亡した作業員はいなかったとの記録がある。労災史上でもかなり注目される建造物である。

クライスラー・ビルの他にも、コカコーラ・ビル、サンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジなど、今日でもアメリカの歴史に残る建造物もこの時代に建設された。さらに、世界史の教科書でニューディールの中心事業として必ず目にするコロラド川のフーバー・ダムも当然建造された。

明日の世界を創る Inventing the world of tomorrow
建造物にとどまらず、多くの斬新な発明、その成果物としての製品もこの時代の産物である。例えば、エレクトロン、マイクロスコープ、レーダー、合成ゴム(ネオプレーン)、ナイロン、テフロンなど、記憶に残るものも数多い。ニューヨークの第3の空港ラガーディアもこの時代に着工している。

さらに、アメリカではカラー映画の制作、スウィング・ジャズ、ハリウッドの黄金時代なども記憶に残る。この時代はアメリカの明日を創り出す時代であったとも言われる。

暗い時代の日本
他方、日本は1929年(昭和14年)10月にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んだ世界恐慌の影響が日本にも及び、翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れ、戦前の日本における最も深刻な恐慌をもたらした。そして、満州事変、5・15事件、国際連盟、国際労働機関からの脱退、海軍軍縮条約の破棄、2・26事件、日中戦争勃発などで第二次世界大戦への道をひた走っていた。

コロナウイルスが変える国家の盛衰
コロナウイルスの感染に関して、過去の感染症との比較の上で、特徴的とも言えるのは、この感染症の発症、治療、回復に関わる対応が地政学的にきわめて政治化していることである。これまでのグローバル化へ向けての歯車が急速に逆転し、各国の国境の壁が急速に高まっている。人の流れにも逆流が生じている。世界の移民・難民の流れには、注目すべき変化が現れている。

そして、コロナウイルスへの対応いかんが国家の盛衰を定めている。巧みに対応した国は、国力を大きく損じることなく、次の時代へ向かうことができる。他方、失敗した国は、著しく国力を失い、来るべき時代への対応に遅れをとる。

世界的感染の帰趨が未だ定まらない今、すでに「コロナ後の世界」が語られている。こうした大きな危機の後には、政治、経済などの変化が他に類を見ないほど急激に展開することも多い。危機が革新を必然化するともいえる。平穏な時代ではそれまで確立されている諸制度などが桎梏となって実施できないことが、緊急の必要から実行できるようになる。日本は過去の大恐慌の実態から何を学ぶか。これらの点については、改めて記すことにしたい。


[参考]
1910〜1962年のアメリカ合衆国の失業率推移


上掲グラフの青色着色部分は、大恐慌期(1930-40年)。失業率がきわめて高いことに着目。

 

続く

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