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人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

17世紀の色:裏から見た作品(3)

2021年10月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《聖ペテロの悔悟》1645年の年記、署名が確認できる作品

ラ・トゥールが活動した17世紀には、絵画作品は文字通り画家や工房における手仕事の作品であった。今ならば、画材店でカンヴァスや顔料、絵の具などを購入することは日常のことであり、画家は画布上にいかなるイメージを描き出すかにほぼ専念できる。フランスやイギリスでは18世紀以降は画家養成のため設立されたアカデミーがこれらの作業段階を受け持ったが長続きせず、その後は画材商などの手に移った。この意味で、17世紀の絵画は、画布(カンヴァス)に描かれた部分を含む手仕事作品として存在している。

戦乱・災厄の時代の画家であったラ・トゥールの場合、作品に関わる史料があらかた失われており、作品目録も不確かであるため、僅かに残されたおよそ40-50点の作品の真作確認は困難を極めた。1638年のリュネヴィルの戦火などで、工房や地元の愛好者などが保有していた作品の多くは失われたと推定されている。さらに、当時の画家は必ずしも署名や年記を作品に残さなかったこともあり、真作の確認は多くの時間を要した。現存するラ・トゥール作品の中で、署名、年記が明瞭に確認されているのは、1645年の《聖ペテロの悔悟》(上掲)と1650年の《聖ペテロの否認》の2点にすぎない。

こうした事情もあって、作品の確定、鑑定の作業は今日まで続いている。この点を理解するには、当時の絵画作品が生まれるまでの画家の工房などでの作業についての知識と理解が欠かせない。

工房の役割
17世紀ヨーロッパの工房の作業内容は、親方の体得している知識と技能に基づいており、徒弟制度apprenticeshipというシステムを通して、伝承されてきた。徒弟制度は基本的に契約に基づいており、親方と子弟を徒弟にしたい親などの間で、修業の内容を記した契約を交わすことが普通だった。ラ・トゥールの場合、生涯に5人の徒弟をとっていることが判明しているが、契約書に徒弟がなすべき仕事の内容が明記されている場合もある。例えば、乗馬の名手でもあったとみられるラ・トゥールの場合、徒弟に求められた仕事の一つに馬の世話が含まれていた。徒弟の形態としては、親方の家に住む、「住み込み徒弟」が多いが、両親の家からの「通い徒弟」もあった。

油彩画家の工房では、徒弟は先ずカンヴァスを張る木枠を作ることを学ぶ。そして次に多くは地元で織られた1メートル足らずの細い幅の麻布、時には亜麻布を画布として、木枠に釘,鋲、紐などで固定する。次に画布に「目止め」を塗る作業がある。カンヴァスなどの支持体に「地塗り」をする作業だが、大体は徒弟に割り当てられる仕事であった。地塗りに使う塗料は白色系統が主であり、ジェッソ、ゲソ gesso と呼ばれる石膏と水、膠などを混ぜた液体である。白亜や様々な土性顔料が主成分である。

インプリマトゥーラ impurimatura 英 ともいわれる。
「印を付けること」を意味するイタリア語に由来。地塗りの上に塗って絵具の発色を良くする絵具層。「下塗り」ともいう。画布の全面あるいは部分について実施。


地塗りは作品が制作される過程で下地として隠れてしまうが、不透明なため作品の全体的な色合いに影響を与える。画家や作品によって微妙に色調などが異なっている。

ラ・トゥールがどこでいかなる画業の修業をしたかは明らかではない。しかし、当時の周辺事情からおそらく地元ヴィックで活動していた若い画家クロード・ドゴスの工房で、その一部あるいはほとんどを終えたと推定される。工房入りし、徒弟としての修業をしなかった画家もいないわけではなかったようだが、工房に蓄積された情報、技法の量は膨大であり、多くの画家は何らかの形で工房での修業に関わった。そこでの就業は体系化はされておらず、徒弟は親方の身の回りの世話、使い走りなどを含め、On-the-Job-Trainingの形で、画業に必要な知識、技能を習得しなければならなかった。

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N.B. 

 
クロード・ドゴスはヴィックに住み、活動していた。当時ドゴスは20歳くらいの若い親方だった。地域ではかなりの評判を獲得していたと思われる。彼は1607年5月に最初の徒弟フランソワ・ピアーソンFranxois Pierson (僧院長のおい)を受け入れている。1610年には司教区管轄地域の法律家の息子を受け入れている。同時に二人の徒弟を受け入れることは、ヴィックのような小さな町では、よほど大きな仕事でもないかぎりありえない。そうなると、ここでラ・ トゥールが修業した可能性は早くとも1611年以降ということになる。(推定年齢ラ・トゥール18歳)。これは当時の標準的な徒弟修業(12-14歳から開始)には遅すぎる年齢であった。ラ・ トゥールが若い時のドゴスの所で徒弟修業したとは思えない。恐らくラ・ トゥールの若い頃に、通い徒弟のような形で、短い期間、当時の画法の基本や流行などを習得したくらいではないか。そしてドゴスは1611年にはナンシーのかなり富裕な薬剤師の家から妻を娶っていた。1632年ヴィックの聖堂参事会サン・エティエンヌ教会の祭壇画を描き、300リーブルという多額な報酬を受け取っている。このことは、彼がこの地でかなりの評判の画家であったことを示している。1647年、ラ・ トゥールの息子エティエンヌは、ドゴスの姪アンネ・キャサリン・フリオと結婚している(Thuillier 2013, p.23)。
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こうした背景の下で、後世20世紀初頭(191~34年)になって再発見されたラ・トゥールの作品と経歴の探索過程は、多くの謎に包まれたものとなった。その後、数々の謎の解明に当たっては美術史家が果たした貢献は極めて大きいが、作品の解明には科学の力が大きく寄与した。

なかでも、フランス博物館科学研究・修復センターの果たした役割は極めて大きく、1972年の大回顧展以来、作品の解明に大きな貢献をしてきた。さらに1996-97年アメリカ、ワシントン国立美術館、フォトワース、キンベル美術館で開催されたラ・トゥール展の際に、当時アメリカが保有していた10点の作品について、科学的検討を実施した結果が多くの知見をもたらした。いかなる検討が行われたか、次回にその一部を紹介したい。


 Georges de La Tour AND HIS WORLD edited by Philip Conisbee, 1996, National Gallery of Art, Washington, D.C.cover

続く



Reference
エリザベト・マルタン「記憶の場としての絵画ージョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品の科学的調査」『Georges de La Tour ジョルジュ・ド・ラ・トゥール: 光と闇の世界」東京展カタログ、2005年

MELANIE GIFFORD AND OTHERS, ”Some Observations on George de La Tour’s Painting Practice” in Georges de La Tour AND HIS WORLD edited by Philip Conisbee, 1996, National Gallery of Art, Washington, D.C.

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