時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

鎮魂の月

2010年08月10日 | 午後のティールーム
 記録破りの酷暑が続く。8月は日本にとって、そして個人的にも鎮魂の思いが強い月である。  

  酷暑の下では、手にする読み物も変わってくる。専門書の類は、襲ってくる夏の疲れと眠気が災いして、なかなか最後まで到達できない。別に軽い読み物をという意味ではないのだが、一冊の詩集を手にした。長田治『死者の贈り物』(みすず書房、2003年)だ。この詩人の作品は、これまでにまとまったものは読んだことはない。  

 今回手にしたのは、書店で内容を確認する前に、表紙の画像が最初に目に入ってしまったことにある。著者に対して申し訳ない気がするが、この画像が使われていたから、この詩人と作品に出会うことができたともいえる。  

 書籍の実物を手にして内容を確認できるというのは、ネット書店のヴィジュアル画面では期待できない大きな楽しみだ。本の内容もさることながら、装丁、紙の質感などもかなり重要な判断材料だ。今の私は、特定の図書館、品揃えの多い大書店、音楽ホール、美術館、そしてしばしの時を過ごす喫茶コーナーが近くにない町には住めなくなっている。かなり以前からのことだ。人生最後のささやかな贅沢だ。図書館の使用ウエイトはかなり低下した。読みたいと思うやや特別な部類の書籍、資料類を保有している図書館が日本には少ないからだ。他にいくら美しく魅力的な所があっても、この世を去るまで、他へ移り住むことはないだろう。  

 閑話休題。上に掲げた表紙の画像、このブログの読者ならばご存じかもしれない。多少、その出自・来歴などを記したことがある。この画像の作品はかなり愛好者が多く、これを表紙にした内外の書籍で何冊か見たことがある。この話は別の機会に残したい。  

 さて、本詩集のカバー見返しには 「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(聖歌隊の少年) 1645年頃)と記されている。しかし、この作品は、ラ・トゥール研究者の間では画家の真作とされていないことが多い。その経緯は以前に記した通りだが、もしラ・トゥールとつながりがあるとしたら、ジョルジュあるいは息子エティエンヌの工房で製作されたのではないかと推定されている。しかし、私自身は真作、コピーなどにかかわる論争はほとんど意に介していない。美術館や画商あるいは美術史家にとっては、大きな問題であるかもしれないが。

 作品自体はきわめて美しく、好感が持たれる。ひとりの少年が左手に楽譜を持ち、右手にかざした蝋燭で、読みながら歌っている。楽譜の上に蝋燭の光が見える。詩人が自著の表紙になぜこの画像を選んだか、あまり定かではない。私の念頭に浮かぶのはラ・トゥールが作品で目指した神、あるいは死せる者との「直接の対話」である。  

 「聖歌隊の少年」には、ラ・トゥールという画家が体現していた資質が発揮されているようにも見えるが、この画家の他の作品と比較して、モデルの表情や衣装に多少の違和感もある。しかし、美しい作品であることには、まったく異論がない。鑑定の世界は別の俗界なのだ。  

 視点が右往左往したが、長田治という一人の詩人の片鱗に触れることができた。この詩集は、詩人に関わる人々への鎮魂の譜だ。それだけに、心に響くものを多数含んでいる。しかし、読む者との共感の場が微妙にずれてしまう作品も多い。詩人が対する故人とのつながりがそうさせるのだろう。そうした作品の中から、共感したある断片を記しておこう。

草稿のままの人生

本棚のいちばん奥に押し込んだ
一冊の古い本のページのあいだに
四十年前に一人、熱して読んだことばが
のこっている。大いなる髯の思想家が
世界に差しだした問いが、草稿のままに
遺された小さな本。―――たとえば、
なぜわれわれは、労働の外で
はじめて自己のもとにあると感じ、
そして、労働のなかでは自己の外にあると
感じるのか。労働をしていないときに
安らぎをもてないのか。

[以下略]
(長田弘、前掲書28-29ページ)
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