時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

「夜警」の暗闇

2008年02月27日 | 雑記帳の欄外

Florian Henckel von donnersmarck. Das Leben der anderen: filmbbuch. Suhrkamp: Frankfurt am Main, 2006.  

  以前に記事として紹介したことのあるカーレド・ホッセイニのThe Kite Runner が映画化され、日本でも公開されている。邦訳された書籍も出まわっているようだ。ただ、昨年邦訳書が刊行された時、書店でみかけた折は、確かB5版の体裁で原題通りに「カイト・ランナー」だった。しかし、いつの間にか「君のためなら千回でも」という映画の邦題名に合わせて、文庫判(上下)に変更されていた(ハヤカワepi文庫)。英語の表題をそのままカタカナ表示しただけでは、アッピールする力に欠けると考えたのだろうか。しかし、新しい邦訳表題「君のためなら千回でも」は、原著を先に読んだ者にとってみると、かなり違和感がある。映画はまだ観ていないのだが、映画の英語タイトルは原著通りに、The Kite Runner である。

  実際、アフガニスタン、カブールでの凧揚げという行事からストーリーは展開するし、アメリカ西海岸へ移住した主人公が、凧揚げをするフィナーレになっている。凧揚げは原作を貫く象徴的な意味を持っている。ちなみに、The Kite Runner を紹介した時には、映画も公開されていなかったので、仮に「凧を追いかけて」としておいた。原作に忠実であるという意味では、この方がまだましではないかと思うのだが。

飛んでいってしまった凧
  映画で、
「君のためなら千回でも」 (公式ブログ)という邦訳表題が採用された背景は推測にすぎないが、「千の風になって」ブームに影響されたのではと思ってしまう(読みすぎかな?)。いずれにしても、映画のタイトルを見て、原作がThe Kite Runner であるとの連想は生まれなかった。

  もっとも最近では「凧」という漢字を読めない人もかなり増えたようだ。ある小さな会合で、このことを話題としたところ、2割くらいの人は戸惑っていた(客観的なテストをしたわけではないので単なる推定にすぎない)。タイトルで、凧に振り仮名をつけるのは可笑しいし、といって、仮名文字ではなんとなく締りがない。

The Nightwatch と Nightwatching
  洋画の邦題が原題と異なることは、しばしばあることでそれ自体は驚くことではない。興行上の効果なども当然考えられているはずだ。しかし、それが原作の微妙なニュアンス、時には重要な含意を消してしまうことはしばしばある。最近の『レンブラントの夜警』もそうだった。 「夜警」を注意して観るという映画原題のNightwatchingに籠められた監督の深謀も、邦訳ではあとかたなく消されてしまっている。失礼ながら、『レンブラントの夜警』ではタイトルになっていませんね。グリーナウエイ監督は、この映画が「夜警」The Nightwatchという絵画作品のひとつの解釈であることを示しているのだ。「夜景」の暗闇はただものではないのだ。

  極端な場合には、作品の内容と邦題をできるかぎりすり合わせるという努力を、ほとんど放棄してしまっているような場合もある。旧聞となるが、かつてこのブログにも記した「クレイドル・ウイル・ロック」がその一例である。この邦題名?で、作品内容を違和感なく想像できる日本の観客はどれだけいるだろうか。素晴らしい作品であっただけに、大変残念な思いがした。

メロドラマではない
  
「善き人のためのソナタ」には、すっかり惑わされてしまった。映画を観た後、邦訳タイトルとストーリーの距離に、しばらく納得できないなにかを感じた。とりわけ、「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」というキャッチコピーも違和感があった。

  映画の詳細な脚本ともいうべき filmbuch が出版されている。それによると、原題(映画タイトル)
は、Das Leben der anderenである。直訳すれば「他人の人生」とでもいうべきか。東独国家安全省シュタージの大尉である主人公(GERD WIESLER*)が、著名劇作家(GERRG DREYMAN)と恋人(CHRISTA-MARIA)の女優の私生活まで盗聴することで、自分の人生とはまったく異なるものがそこにあることを気づかされる。厳しい思想、行動への束縛と監視の中に、ひそやかに生きる自由の心である。しかし、専制的な社会主義体制の組織に深く関わってしまっている主人公には、それから脱却することなどできない。権力による報復措置にも抵抗できなかった。

  「善き人のためのソナタ」は、壁崩壊後も、カートを引いて新聞などを配達する地味な仕事をしている主人公が、偶然カール・マルクス通りの書店で見かけた書籍の表題であった。劇作家ドライマンの新著の形をとり、ヴィスラーと思しき人への献辞(HGWXX/7 gewidmet, in Dankbarkeit)が記されていた。一見、表題に惹かれてしまうが、映画のドイツ語原タイトルからすれば、この映画監督の意図は、主人公を単に善人視することではなかったはずだ。盗聴という卑しむべき業務を通して、かすかな自由という別の世界の生活があることを知って、その行為を放棄したからといって、監督は主人公を救ったわけではない。数え切れない人々に悲惨な人生を強制した国家の歴史の冷酷な一齣を描き切ることに、若き監督・脚本家、フロリアン・ヘンケルス・フォン・ドナースマルクの意図はあったはずだ。Das Leben der anderen の意味は深い。表題ひとつが持つ重さと怖さを感じた。


*
 この役を演じたウルリッヒ・ミューエさんは昨年7月に癌で亡くなった。ご冥福を祈るのみ。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする