大倉草紙

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【三重】 霧山城

2009年10月18日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
当日の行程:(車) → 【伊勢神宮(外宮)】【猿田彦神社】【伊勢神宮(内宮)】【尾崎咢堂記念館】【田丸城】【斎宮歴史博物館】 → 【いつきのみや歴史体験館】 → 【斎王の森】【三井家発祥地】【松阪商人の館】【本居宣長旧宅跡】 → 【本居宣長記念館・鈴屋】【松阪市立歴史民俗資料館】【松阪城】【新上屋跡】 → 【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】【御城番屋敷】【北畠神社】【霧山城】 → (津泊)


本丸跡にある霧山城跡の碑

霧山城跡は、館跡のある北畠神社から比高差約240メートルの山頂に位置する。
霧山城は、北畠親房の子・顕能が、興国3年(1342)に築城。
永禄12年(1569)、織田信長は滝沢一益に命じて霧山城を陥落させる。
北畠具教は、信長の二男・信雄を養子に迎えて和議を結ぶが、天正4年(1576)、隠居していた三瀬館にて信雄に暗殺され、廃城となった。


霧山城登山口は、北畠神社の裏手にある。


山道は整えられている。


途中にあった案内板
見辛いが、緑色が霧山で、左側の黄色い部分が「鐘撞堂跡」で、更に進むと(右側)「本丸跡」「米倉跡」「矢倉跡」が残っている。


鐘撞堂跡


鐘撞堂跡がある場所は、標高562メートル。


本丸跡


米倉跡


矢倉跡




山頂からの風景
山並みが美しい。
風が涼しく、木々がざわざわと音を立てるのも心地よい。
暗くなりかけていたし、雷の音が遠くに聞こえてきたので、長居ができなかったのは残念。
夏の日にお弁当と本を持って霧山城に登り、一日ゆっくり過ごしてみたいと思った。
今まで登った山のなかで、一番気持ちが良かったんじゃないかな。

【三重】 北畠神社

2009年10月17日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
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北畠神社は、北畠氏館跡に鎮座する。
寛永20年(1643)、北畠一族の末裔鈴木孫兵衛家次がこの地に小祠を設けて、北畠八幡宮と称したのがはじまり。


本殿
中央に天狗が!


末社・多藝神社


北畠顕家像


北畠顕能の歌碑

北畠氏館跡は、北畠神社境内を中心に西を山裾、それ以外を川で囲まれた場所にあある。

入口跡


石垣
中世城館では日本最古の石垣なのだそうだ。


建物礎石跡


留魂社
祭神は、北畠具行、北畠満雅、北畠具教、北畠一族並びに家臣、郎党、農民の戦没者。


北畠氏館跡庭園
16世紀に細川高国が作庭したものと伝えられている。


北畠神社の御朱印

【三重】 御城番屋敷

2009年10月16日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
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松阪城の隠居丸跡あたりから町を見渡すと、長屋の瓦屋根が美しく並んでるのが見える。
御城番屋敷(ごじょうばんやしき)と呼ばれるこの建物は、文久3年(1863)、紀州藩が松阪城を警備する藩士たちのために建てた住居。
国の重要文化財に指定されている。
屋敷に住んでいた藩士の子孫たちは今もなおこの武家屋敷で暮らし、合資会社苗秀社を設立して維持管理にあたっている。


石畳の道の両側に、御城番屋敷が建っている。
生垣が美しい。


屋敷はこんな感じ。


松阪城に向かって左側の棟は、補修工事中。
築146年の屋敷なので、傷みもひどいのだろう。


御城番屋敷・土蔵
中は、資料館になっている。

美しく保存されている御城番屋敷。
子孫たちと松阪の人々の誇りが感じられる。
伝えていくものが存在する幸せと、その担い手がいることの心強さ。
よいものを見ることができた。

【三重】 松阪城

2009年10月15日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
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天正12年(1584)、蒲生氏郷は12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城。
しかし、松ヶ島城は伊勢湾に面し狭小なことから、天正16年(1588)、この地に新たに築城した。
「松坂城」の名は、縁起のいい「松」と大坂城の「坂」の字をもらって付けられたという。
現在は、「阪」の字を用いる。
天正18年(1590)、氏郷は小田原攻めの軍功により、黒川城(会津若松城)の太守となり、以後は、服部一忠、古田重勝・重治が城主となる。
その後、徳川頼宣の領地となり、和歌山藩松坂城代が置かれたが、建造物は明治になって取り壊された。


天守閣跡


敵見櫓跡


金の間櫓跡


本丸跡


本丸跡の石垣


中御門


中央に建つのは梶井基次郎文学碑、その右側が月見櫓跡


二の丸跡に建つ梶井基次郎文学碑
『城のある町にて』では、松阪の町が描かれている。


隠居丸跡
本居宣長記念館の隣に移築された「鈴屋」(本居宣長旧宅)の敷地内にある。

【三重】 本居宣長ゆかりの地

2009年10月12日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
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【本居宣長旧宅跡】

「国指定特別史跡 本居宣長旧宅跡 附 春庭旧宅・土蔵
所在地 松阪市魚町一六四五番地
面 積 四三六・三六平方メートル
特別史跡指定 昭和二十八年三月三十一日
 近世を代表する国学者 本居宣長(一七三〇~一八〇一)が、十二歳から七十二歳で生涯を閉じるまでの六十年間を過ごした場所である。宣長はここで医者を開業する傍ら、日本の古典を研究し、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』など七十八種二百六冊に及ぶ著述を成し、また全国五百余名の門人を指導した。言わばこの地は、近世国学が大成された記念すべき場所である。
 宣長の住んだ居宅は、明治四十二年に保存と公開のために松阪公園へ移築され、宣長の書斎の名前である『鈴屋(すずのや)』の名称で今も親しまれている。現在、旧宅跡に礎石とともに残る家は、宣長の長男 春庭の旧宅と本居家の土蔵である。(以下略)
 平成十六年九月十四日  松阪市教育委員会」(案内板より)


礎石(手前)と春庭邸宅(左奥)と土蔵(右奥)


【本居宣長記念館・鈴屋】

「宣長の探究心」と題した平成21年夏の企画展を見る。
17歳のときに描いた日本地図『大日本天下四海画図』をはじめとし、夥しい数の著作や書簡などが展示されていた。
探究心の強さと持続力に先ずは圧倒される。
『万葉集問目』は感動的だ。
これは、いわゆる「松阪の一夜」の後、師である賀茂真淵と宣長との間で書簡にて行われた質疑応答。
宣長が会った人物や噂に聞いた人物について記された『文通諸子居住処並転達所姓名所書』も興味深い。
なんでもかんでも記録に残したようだ。
不世出の天才は、不断の努力から生まれたのだなあ。


本居宣長旧宅
本居宣長記念館の隣に移築されている。
1階屋根と2階屋根の間に斜めにうだつが設けられている。
松阪のうだつは、このような形なのだそうだ。
2階の書斎は、宣長が53歳の時に物置を改造して設けたもの。
書斎は、「鈴屋(すずのや)」と呼ばれる。
その名は、床の間の柱に掛鈴を下げていたことに由来する。
その掛鈴は、6個の小さな鈴をまとめたものを細い帯状の布の6か所に紐で結んだもので、宣長はこれを勉学の間に鳴らしたのだという。
本居宣長記念館に掛鈴が展示されているが、これは長男春庭が作ったレプリカ。
オリジナルは現存しないそうだ。


書斎「鈴屋」への階段
宣長の身長は約170㎝あったそうだが、この階段をのぼるのは大変だっただろう。
書斎に籠ったら、集中できるように、この階段は外されたのだという。


五右衛門風風呂


【新上屋跡】

本居宣長記念館前にある新上屋跡の碑
「ここにある二つの碑は、賀茂真淵と本居宣長のたった一度の歴史的な出会い『松阪の一夜』を記念し、その対面の場となった日野町の旅籠『新上屋』跡に建っていたものである。
 宝暦13年(1763)5月25日夜、兼ねてから私淑していた賀茂真淵に対面することを得た本居宣長は『古事記』研究の志を述べ、真淵はその決意を誉め、指導を約束する。宣長34歳、師真淵67歳のことである。
 右の『賀茂真淵・本居宣長初対面新上屋跡』は、この場所が昭和28年松阪市の指定史跡になったときに建ったものであり、また正面の大きな『史跡新上屋跡』碑は昭和45年に建てられたものであるが、たび重なる都市近代化事業の道路拡幅により、ここに移転して保存している。
 今は三代目の碑に改まっている。」(案内板より)


日野町に建つ三代目の碑


新上屋が建っていたのはこのあたりか?
碑の傍らの説明は、近くの化粧品店「むらさきや」さんが書いている。
訪ねると、快く説明をして下さったうえに、宣長と春庭の墓所へ案内してくれた。
新上屋は、だいぶ大きな敷地を持つ旅籠だったようだが、今では道路拡張で、様変わりしてしまったとのこと。


【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】

樹敬寺は、京都・智恩院の末寺。
天正16年(1588)、蒲生氏郷が松坂城下建設に伴って、松ヶ島城下から現在地の松阪市新町へと移った。


本堂


宣長・春庭の墓
松阪市山室町高峰の妙楽寺から山道を登ったところに、宣長が生前に指示した通りに建てられた奥墓(おくつき)がある。
墓の上には、宣長が好んだ山桜が植えられているそうだ。

【三重】 三井家発祥地 

2009年10月10日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
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何の番組だったか忘れたが、関東では「デパート」、関西では「百貨店」という言い方が主流だとやっていた。
そう言われてみれば、そうかも。
私が気になっていたのは、関西では「○○店」の「店」を「てん」ではなくて「みせ」と読むこと。
地方のニュースなどで、「大丸心斎橋『みせ』では……」などと言っているのが耳に入ってくると、一瞬「あれっ?」と思ってしまう。

私はお買い物があまり好きではないので、デパートや百貨店にはよっぽどの目的がなければ行くことはない。
デパートや百貨店で開かれる展覧会に足を運ぶこともあるが、大概、エレベータで目的の階まで上がり、展覧会を楽しんだ後は、そのまままたエレベータで下りて地下鉄に乗る。
そんな私が言うのもナンだが、三越と伊勢丹は比較的愛している。
あ、経営統合したんだっけ。
現在、大阪に三越はない。
かつてはあったそうだし、また、2011年に「JR大阪三越伊勢丹」ができるようだが。

難波橋にはライオンがいて、大阪に来た当初は、三越と関係があるのだろうか?と思ったが、そんな事実はないようだ。

さて、その三越であるが、創業は延宝元年(1673)、当時は「越後屋」といった。

無款(奥村政信)「駿河町越後屋呉服店大浮絵」(1745年頃)
駿河町越後屋本店は、今の日本橋三越。
「現金かけねなし」の文字が、正面右の柱の看板と鴨居の貼紙に書かれている。
「現銀掛値無し」のほかにも、「店前現銀売り」や「小裂何程にても売ります」といった画期的な商法を用いて成功し、三井財閥(現在の三井グループ)の礎を築いた。

越後屋の創業者・三井高利が生まれたのは、現在の三重県松阪市。
現在も、三井家発祥地として残されている。

三井家発祥地
公開はされていないので、見ることができるのは、この門だけ。
傍に建っている碑文には次のようにある。
「松阪の生んだ大商人、三井家の家祖、三井高利は、一六二二年この地に生れた。
 高利は父祖伝来の士魂と母の商才を継承し、幼少より刻苦勉励して当地第一流の商人となった。一六七三年に至って宿志を遂げるべく江戸に越後屋呉服店を開店し、以後、三井家は発展を続け、江戸、京都、大阪に呉服店、両替店を経営するわが国商業史に残る大商人となった。高利の定めた三井家の店章『丸に井桁三文字』は、現在も日本経済の発展に大きく寄与している三井系企業各社に受け継がれている。(以下略)」

どうでもいいようなことなのだけれど、「高利」さんの妻は「かね」さんというそうで、お二人ともすごい名前だなあ、と。

【三重】 斎宮

2009年10月09日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
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【斎宮歴史博物館】

斎王のイメージは、『源氏物語』から得たものがほとんどだ。
読みつつ頭の中で描いた形象、それから、源氏物語絵巻から受ける印象。

野宮神社
野宮神社を訪ねた時には、このあたりで斎王が身を清めたのか、と思ったが、特別な感動はなかった。
野宮神社がいけないというのではなく、鳥居の下で飲み物を口にして大騒ぎをしつつ記念撮影をする人々を目にし、興ざめしてしまったのだ。
野宮から伊勢への移動について、斎宮での暮らしについて、伊勢でのおつとめについては、何も知らなかった。

斎宮歴史博物館は、実によくできた博物館で、訪れた者を数十分にして斎王博士にしてくれる。
斎王の定義、斎王の行路と帰路、斎宮の造営、斎宮寮の組織、衣装や食事、伊勢神宮のおつとめ等々、理解しやすい方法で展示・解説している。
斎王が伊勢神宮に赴くのは年に3回、9月の神嘗祭(かんなめのまつり)と6月と12月の月次祭(つきなみのまつり)の時だけというのは、意外だった。
これらの祭りは内宮・外宮それぞれ2日に渡って行われ、斎王はいずれも2日目に参加していたという。
伊勢神宮でのおつとめは、もっと頻繁なものだと思っていた。


【いつきのみや歴史体験館】

いつきのみや歴史体験館は、近鉄・斎宮駅の目の前、「斎宮跡歴史ロマン広場」の一角にある。
写真の建物前の庭では、蹴鞠を体験する人の姿もあった。
ほかにも、十二単や直衣を試着することができたり、平安時代の年中行事にちなんだ小物作りができたり、その名の通り、いろいろなことを体験できるスペース。
私は、体験よりも、広場にある斎宮の模型のほうに興味があったので、そちらへ直行。


10分の1史跡模型(一部)


【斎王の森】

「史跡斎宮跡
 斎宮跡は、斎王の御殿とその事務を取扱った役所の跡である。その創設は遠く飛鳥・奈良時代(7~8世紀)といわれ、南北朝時代(14世紀)に至る間多少の中絶はあるが、約660年間存続した。
 この史跡は、昭和44年祓川沿岸の古里地区における大規模宅地造成に伴う事前発掘調査を発端として、歴史や文学に名高い斎宮との関連がにわかに注目されるに至った。このため、三重県教育委員会は、昭和48年度から3ヶ年間範囲確認調査を実施し、その結果ここ斎王の森を中心に東西約2㎞、南北約700m、面積137haに及ぶこの地区一帯が斎宮跡であることを確認し史跡に指定されたものである。
(中略)
この森は昭和33年まで旧斎宮村の村所有地であったが、以後伊勢神宮に寄附され現在では神宮司庁により管理されている。」(案内板より)


斎宮の森入口の鳥居


斎王宮址の碑


大伯皇女の歌碑
大伯皇女(おおくのひめみこ)は、実在した最古の斎王(それ以前の伝承時代の斎王は9名)。
「わがせこを大和へやるとさ夜ふけて
 あかとき露にわがたちぬれし」
(弟を大和へ送り出したあと、夜が更けてからも心配で立ち続け、明け方の露に濡れました)
この歌は、大伯皇女の弟・大津皇子が死の直前にひそかに伊勢に尋ねて来たとき、別れを惜しんで詠んだもの。

大津皇子の墓は、二上山にある。


掘立柱建物跡


井戸跡


道路跡

【三重】 田丸城

2009年10月08日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
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田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、北畠親房が後醍醐天皇を吉野に迎えるために、愛洲氏や渡会氏などの援助を得てこの玉丸山に城を築き、南朝方の拠点としたことがはじまり。
天正3年(1575)、北畠氏を継いだ織田信雄は、本丸、二の丸、北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建てた。
江戸時代には、紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が城主となり、久野家は代々城代をつとめた。
明治2年(1869)に廃城。


本丸虎口


石垣


天守跡
穴蔵(地階)がある天守台。
織田信雄が築いた三層の天守閣は、天正8年(1580)に焼失。


天守台から本丸跡を望む


天守台から三の丸跡を望む
三の丸跡は、玉城町立玉城中学校になっている。

見事な石垣!
素晴らしい眺め!
行ってよかった城跡のうちのひとつである。

【三重】 猿田彦神社

2009年10月06日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
当日の行程:(車) → 【伊勢神宮(外宮)】【猿田彦神社】【伊勢神宮(内宮)】【尾崎咢堂記念館】【田丸城】【斎宮歴史博物館】 → 【いつきのみや歴史体験館】 → 【斎王の森】【三井家発祥地】【松阪商人の館】【本居宣長旧宅跡】 → 【本居宣長記念館・鈴屋】【松阪市立歴史民俗資料館】【松阪城】【新上屋跡】 → 【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】【御城番屋敷】【北畠神社】【霧山城】 → (津泊)


御祭神の猿田彦神は、瓊々杵尊(ニニギノミコト)が三種の神器を授かって降臨する際、高千穂へ導いたことで知られる。
その後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まり、国土の開拓に尽した。
垂仁天皇の御代に皇女・倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が神宮鎮祀のための場所を求めて諸国を巡っていた時に、大田命(オオタノミコト)が倭姫命を迎え、五十鈴の川上を献上し、神宮創建のはこびとなる。


拝殿


境内社の佐瑠女(さるめ)神社
芸能の神を祀っている。


本殿の裏手には、御神田が広がる。


猿田彦土中神社
御神田のすぐそばに、猿田彦土中神社が建っている。
これは、神社ではなくて、美術作品。
中に入って扉を閉めて鑑賞するのだそうだ。


猿田彦土中神社の天井
うーむ、私にはよくわからない。


猿田彦神社の御朱印

【三重】 天の岩戸

2009年10月05日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月18日(土)
当日の行程:(車) → 【大台ケ原】【鳥羽城】 → 【常安寺(九鬼嘉隆の墓)】【賢島周辺】【天の岩戸】 → (伊勢泊)


鳥居に「天の岩戸」の扁額を見付け、車をとめて寄ってみることにした。
天の岩戸は、宮崎県の高千穂で見たことがある。
天孫降臨の地ということもあって、そこにあることに疑問を抱くこともなく、まさか他の場所にもあるなんて思いもよらなかった。
調べてみると、ある、ある、ある!
京都にも、滋賀にも、奈良にも、岡山にも、徳島にも、奈良にも、沖縄にも、そして、三重にはなんと3か所も「天の岩戸」があった。
ここは、「恵利原の水穴」と呼ばれるところ。


駐車場に車を置いて、杉木立のなかを歩く。


天の岩戸
19時近いので、辺りはかなり暗い。
アマテラスが隠れてしまったかのようである。
清水が湧き出ている。
この水は日本名水百選に選定されていて、ポリ容器を持って汲みに来ている人も見かけた。


風穴
天の岩戸から山道をしばらく登って行くと、風穴に辿り着く。


風穴の中はこんな感じ。
冷たい風が中から吹いてくる。
実に神秘的だ。