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作品を読む ① 修正版

2019年03月04日 | 作品を読む

 作品を読む ①

 

 ※「3」の歌に修正を加えた「修正版」に、「3」にさらに3/6の修正を付け加えました。

 




 ※作品読みの練習としてやっている。加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。

 加藤治郎を初めて知ったのは、確か今度芥川賞を取った作家、町屋良平の「note」の文章によってだった。(今、検索したら、町屋良平の2018年5月12日 付けのツイートに「加藤治郎の歌集「Confusion」みじかい感想を書きました。」とあり、これを目にして以下の加藤治郎の短歌二首に出会った。町屋良平のこのツイートに出会ったのは、(町屋良平は芥川賞を取るぞ)と予言している小谷野敦のツイートに出会って、町屋良平の『青が破れる』を読む前だったか、後だったか。)

 加藤治郎の歌は、詩の方にも近しく感じられた。途中、岡井隆つながりがあるということを知って、ああ、なるほどねと思った。加藤治郎の歌を「加藤治郎bot」で読ませてもらっている中で、わたしにとって「不明歌」と言うべきものは多い。

 古代の専門化した歌人(うたびと)の遙か以前には、もちろん普通の人々が歌を歌っていただろう。昔NHKのテレビで目にしたことがある。中国の辺境の地で、若者が昔父親がやったのと同じように恒例の集団見合いのような場に結婚相手を探しに行くことになり、ようやく気に入った相手を見つけて自分の家へ連れて帰る途中、相手の女性が道端で若者に歌で気持ちを伝えていた。おそらくそのように、歌はかつては現在の普通の人々にとってのような「不明歌」ではなかったろう。戦後、詩も難解であることが問題化したことがある。歌も詩もすべて芸術は、普通の人々の生活世界から遠く旅立ってきた。専門的な表現の修練を重ねてきた。これは避けられない必然であったと思う。これからもまた当分は。一方、歌も詩もすべて芸術は、普通の人々の生活世界の思いを断ち切ることはできない。なぜなら、歌も詩もすべて芸術は、そこにこそ根っこは根ざしているからである。

 したがって、読者や観客もある程度の修練を積まないと作品を味わうことができないような現状になってしまった。それが避けがたくある中で、例えば、俵万智の『サラダ記念日』のように作者たちはいろんな試みをしてきているはずである。



ここにある加藤治郎の以下の短歌二首について、
1.詩人歌人まっぷたつなりらあらあと朗読の声なか空にある
2.ひっそりとチーズに歯型がついていてあなたの死後であることを知る


1.「加藤治郎厳選短歌bot」によると、この歌には(未来12月号 「中也への旅」)と付されている。「らあらあ」は中也の詩の言葉というのは知っていたが、それだけではよくわからなかった。これを加えると、中也の詩は朗読してみると「詩人歌人まっぷたつ」にするほどすばらしいということだろう。

2.「チーズ」が固いものか柔らかいものか、「あなた」が奥さんなのか誰なのか虚構なのか、よくわからないけど、チーズに歯形が残したまま、あなたはもう亡くなってしまった。こんなちょっとしたことでもあなたを思い出してしまう、という歌か。しかし、「死後」という言葉は客観的すぎるなあ。

しかし、「死後」には、そのように捉えるほかないような冷たい断層があるということだろう。



1.日常は異郷と思うたそがれの画面の奥にかがやく海彼 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 2019/1/2)
ネットで見つけた作者の日録(「唐津歌会」2003年11月29日)によると、この作品は題詠「海彼」で詠まれている。実景でなくても構わないが、これはおそらく夕暮れ時の唐津の海を目にしながらの思いだろう。「海彼」(海のかなた)という言葉を初めて知った。「異郷」-「画面」が肝所か。)



2.いたましくホットケーキは焼き上がりきみもぼ、ぼくも笑っちゃいそう 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 1/2)
ちょっと変わった使い方の「いたましく」が、この歌の"みそしょうゆ"であろうか。焦げたのだろうか。



3.階段をくだる無数の頭髪をぶっだんさらなんがっちゃーみ 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 1/12)
駅の階段だろうか、〈私〉は、上か下か決めかねるがおそらく上にいて眺めているのだろう。その誰にもふとある意味化する以前の感じ思いを擬音で表現している。「頭髪を」とあるからどいて欲しいな、どけどけどけなどと暴力的に感じ幻想しているのだろうか。

大人なら湧き上がった内臓感覚的なある感じ思いからまた沈黙へ帰っていくけど、子どもならそういう擬音へ出かけて行って真面目に擬音を使い楽しむことがあるだろうと思う。

★(読者の助言による修正 3/5)
ブログの読者から、(ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)は (私はブッダ(仏)に帰依いたします)という意味で、パーリ語の三帰依文の一節であると教えてもらった。知らなかった。とても有り難かった。
 
ところで、例えば、浄土真宗の葬式や法事などでお経として読まれる、漢訳の仏典「仏説阿弥陀経」は、「(如是我聞) にょぜがもん /(一時仏在舎衛国) いちじぶつざいしゃえこく・・・」というふうにそのまま読み下して読まれる。普通の大多数の人々はそうだと思うが、わたしも、その意味はまったくわからない。知らない外国語を耳にしているような気分である。ただ、その弔いの場のふんい気のようなものとしてお経を了解しているに過ぎない。一度浄土宗の葬式に出たことがあるが、そのお経はほとんどが漢文を古文のように書き下したもので、ちょっと新鮮に感じた覚えがある。
 
ここで、もし「ぶっだんさらなんがっちゃーみ」が、「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ」と等しいとすると、「無数の頭髪」を目的語とする動詞としての意味が不明になる。作者は、上の仏典の意味・読み下しに対するお経のふんいきとしての了解から、さらに恣意的なイメージとして受けとめるように、つまり単なる擬音の感触としてひらがな表記にして「ぶっだんさらなんがっちゃーみ」と表現したのではないだろうか。この歌で、「ぶっだんさらなんがっちゃーみ」は、歌の重心に位置している。

★(修正 3/6)
わたしたちはほとんど誰もが身内や親類などの葬式に出る機会がある。わたしの場合、ほとんどが浄土真宗のお経なのだが、そのお経で「南無阿弥陀仏」と唱和を促すような部分が必ずある。周囲はほとんどそれに合わせて自然に唱和しているように感じるが、わたしには浄土への信もないから少し異和感があって、いつも無言で手を合わせている。たぶん小さい頃から家族の中でそういう習慣があったなら、また別だったかもしれない。唱和する「南無阿弥陀仏」が口か自然にら出てくる場合は、浄土への信があるかないかに関わらず、また、子どもがその語感をおもしろがって「なんまいだぶ」とつぶやいたとしても、そういう葬式のふんい気の自然性に同調していることを意味しているだろう。

このことを踏まえて言えば、「ぶっだんさらなんがっちゃーみ」とひらがな表記しているから、元の意味と通じる「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ」という表記とは切断されていてほとんど無縁とも見なせるかもしれないが、その意味性を受けいれる淡い自然性があるような気がする。(これがもし遙か太古の口から歌うばかりの文字表記以前の段階なら、そういう表記による違いの問題は読者には見えてこない。)

そうするとこの歌の理解は、「〈私〉は、混雑した階段の前をいく無数の人々にふと悪意のようなものを抱いてしまったけど、いやいやこれはいかんなと内省した。」というようなことになろうか。いずれの理解にしても、「ぶっだんさらなんがっちゃーみ」が歌から鳴り響いてくる。


 

4.爪を切りそこねた指が二本あるそのようにしてきみと別れた 加藤治郎『環状線のモンスター』

★(私のひと言評 1/12)
別れは誰にもあり、しかも別れはすっきりしないのが一般的だろうから、これはグッとくるだろう。「爪を切りそこねた指が二本ある」という経験はわたしにもある。そのすっきりしない無量の思いがこの日々の言葉にこめられ、グッとくる感を駆動している。



5.ところどころに雲が湧くこのふかしぎな惑星にいてひとりあゆめり  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 1/15)
人は誰でも、ふとこのような「このふかしぎな惑星にいてひとり」という感覚を持つことがあるだろう。似たものとして、缶コーヒーBOSSのテレビCMではトミー・リー・ジョーンズ(顔は見知っていたが名前は知らなかった)扮する宇宙人の視線を使っている。



6.1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0  加藤治郎『マイ・ロマンサー』

★(私のひと言評 1/20)
現在の情報伝達の基本は、音や言葉→0か1のデジタル情報変換→伝送等の流通→もとの音や言葉に戻す(文章を読んだり音楽を聴く)となっていると思う。これを伝送過程の表現と見なせば、言葉は全て0か1に変身しているのだけど、ここではその一部が露出したイメージに変換されて表現されている。

しかし、01というデジタルの記号の海の中の言葉は、つなげると意味が通るように表現されているから、01というデジタルの記号の海に浸かったり泳いだりするほかない、わたしたちの言葉よ、というふうにも理解できそうだ。



7.柿の種とピーナツの配合がよくない酔いながら家路を思う  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 1/22)
誰もが不満に思ったことがあるかもしれないお菓子の中味の数の比(逆に言えば、そのことがピーナツを稀少価値化している)か、それとも二者の組み合わせか、(「配合」には一般に二つの意味があるようだ)。いずれにしても何てことないことに感じた異和がふと現在に覚醒を加える。



8.フライパンたたいてよせる卵かな新しい宗教のはじめに/おわりに 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 2019/1/27)
加藤治郎の歌で、自分にとって「不明歌」としているもののひとつ。まず言えると思うのは、おそらく日常の料理する場面の体験が基にあること。そういう所で生起するささいな思い込みや信が人間の宗教への入口や出口ということか。あるいは、宗教を身近にユーモラスに捉えてみたものか。

歌は、言葉のリズムはあるが短い言葉でよくわからないことも多い。詳しい説明(指示性)すればしなびたナスビのようになってしまう。世界をざっくり切り取ったり世界に斬り込んだりするには向いているのかもしれない。

ざっくりと言葉斬り込みみだれるふるえる世界の心音


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7 コメント

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加藤治郎3.の一首の擬音 (もり)
2019-03-04 16:53:57
. Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ブッダン・サラナン・ガッチャーミ). (私はブッダ(仏)に帰依いたします)

パーリ語の三帰依文の一節ですね。
ご存知だとは思いますが・・・。
ありがとうございます (nishiyan)
2019-03-04 17:43:40
いえいえ。知りませんでした。きちんと作品の総量を理解したいという思いから、割と慎重な方で、いろいろ調べるのが普通なんですが、それは気づきませんでした。そうしたらまた、違った読みになりそうですね。どうもありがとうございました。また読み直してみます。
サンキエモン (もり)
2019-03-05 11:53:05
修正版、読ませていただきました。私もこの一首の理解としては三帰依文自体の意味をあまり考えない方が良いだろうなと思います。わたしは遠い昔、在家の仏教学専攻の学生だったので触れる機会があったからでしょうか、ブッダンサラナンとかダンマンサラナン、サンガーサラナン等と、折に触れて意味もなく擬音が頭の中をおどったりすることがありました。歌人も来歴のどこかで聞くことが有って耳に残っていたのが眼前の光景のBGMのように蘇ったのかもしれませんね。
ほんとに助かりました (nishiyan)
2019-03-05 17:12:22
教えていただいたのに、結論としては最初の理解と同じようなものになりました。しかし、教えていただいたことを、知った上で理解するのが本当だと思います。作者の何らかの無意識的な匂いのようなものもこもっているかもしれませんね。前をいく人々に悪意のようなものを抱いてしまったけど、いやいやこれじゃいかん、というような。
らあらあと (もり)
2019-03-06 14:36:33
現代短歌門外漢の、私感をもうひとつ。

詩人歌人まっぷたつなりらあらあと朗読の声なか空にある

誰だかの評伝で、中也が詩友の誰彼に自作詩を朗読して聞かせる場面を読んだような記憶が有ったので、この朗読の声は加藤治郎さんが幻聴した中也の声ではないかと思いました。その方が「中也への旅」に相応しいように思うのですが、どうでしょうか。
re らあらあと (nishiyan)
2019-03-07 00:34:47
★自分も詩に註を付す中で、古代の歌の詞書きについて昔ちょっと触れたことがありました。詞書きがあると歌が実景をもとにしているのかどうかや、どんな場面なのかなどがわかり、語数少ない歌を理解するのに役立ちます。加藤治郎の「1」の歌(日常は異郷と思う・・・)も何度か読んでも「画面の奥」などに引っかかりしっくりきませんでしたが、作者の日録が助けになりました。

ご指摘の歌も、「中也への旅」と付されているかどうか、読者が中也についてある程度なじんでいるかどうかで、わたしが「ぶっだんさらなんがっちゃーみず」を知らずに歌を十分にすくい取れなかったように、ずいぶん読みが作者のモチーフからズレることがあるような気がします。

この歌も場面がよくわかりませんが、ご指摘のように〈私〉が中也が朗読していたということを知っていて(それは知らなくてもいいですが)朗読をイメージしながら歌ったか、過去に誰かが朗読したのを思い出したか、以下の会合で実際に朗読を耳にして思ったかのいずれかでしょう。わたしは朗読の現場に触れた経験をもとに歌ったのだと思いました。なんとなく〈私〉の臨場感を感じます。以下の会合(註.1)でプログラムにはありませんが誰かが歌ったのかもしれません。しかし、確定はできないですね。
 
(註.1)
以下のようなものを見つけましたが、プログラムには朗読は入っていないようです。作者も出ています。
第20回中原中也の会大会「詩人と短歌」 2015年9月12日 湯田温泉ユウベルホテル松政(山口市湯田温泉)
file:///C:/Users/nishi/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/RKL9FWF6/taikai20.pdf


ツイッターの「加藤治郎厳選短歌bot」の2015年11月30日(月)のツイートに「詩人歌人まっぷたつなりらあらあと朗読の声なか空にある (未来12月号 「中也への旅」)」とありますから、たぶんですが、この会合がきっかけとなって会合の後創作したものと思われます。しかし、事実関係を詰めるのは難しいです。

ご指摘で思いだしましたが、詩人の伊東静雄もよく周囲に詩を朗読して聴かせていたようです。時代的に、まだ朗読ということが少し生き残っていたのでしょうね。

ご意見、どうもありがとうございます。一人で作品を見通すのは難しいから参考になります。
re re らあらあと (nishiyan)
2019-03-07 00:43:14
(註.1)のurl間違いました。正しくは、以下です。
http://www.chuyakan.jp/nts/01news/150912.html

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