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作品を読む ⑩

2019年05月05日 | 作品を読む
 作品を読む ⑩ (最終回)



 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


 わたしは、ツイッターの「加藤治郎bot」による表示形態から作品に偶然出会った。そういうランダムな登場に見える作品との出会い方や、またこれが作品読みのレッスンということもあり、ひとつの歌集を取り上げるなどの作者の時系列の固有さには触れていない。しかし、ひとりの作者の作品の取り上げ方として、時系列を退けて表現の系列として取り上げることも可能な気がする。今回は、わたしのこれらの取り上げ方にはあまり方法的ではなく、ランダムな取り上げ方と言うべきかもしれない。途中から、10回くらいを目途にしていたので、今回で終わりである。

 この小さな生活世界に日々生きていて、誰もがふとささいなことに気づくことがある。誰もがそういうことを経験し、それは話し言葉の一回性のように、あるいは水中で息を放った泡ぶくのように、消えていく。こうしたことをわたしたちは何度も反復しているように見える。表現者は、それが消えてしまうのに任せることなく、それに内省を加えるから、あるモチーフを担った言葉となって表現世界に上ってくる。

99.本から帯がとれてしまったさっきからとってもそれが気になっていて 加藤治郎『しんきろう』

 読書していてこれに似た経験がわたしにもある。帯が本からはずれかかって、気になって直す場合もあるし、面倒だからと帯を外してしまう場合もある。それに対する対処の仕方は、人それぞれによっても違うし、また同じ人でも状況によっても違うだろう。どういう対処をするかに大した違いはないように見える。

 〈私〉は、読書していて帯が取れるという事態が急に起こった。人は同時に二つの事態をこなすことはできない。もし、帯が取れるという事態が読書を著しく妨げるなら、〈私〉は取れた帯に対する対処の行動を取るだろう。しかし、ここでは、それらの二つの事態があいまいな気がかりという状況に収まっている。こうしたことは、わたしたちの日常世界にはよくあることのように感じられる。つまり、この作品は、一つのささいな具体的な場面の歌でありつつ、そのよくある日常性の大道をも走っていることになる。

 作者が派遣した〈私〉が、作者があるモチーフを持って選択した日常のささいな場面を走行するとき、そのようなこと自体に触れることが大事なことなんだと背後の作者は感じているのだろう。この作品の所収は歌集『しんきろう』、2012年刊で作者が53歳くらいの時である。同じような作品でも、たとえそれを区別するのは難しいとしても、日常のささいなものへの視線の感度や質は年代によって違ってくるはずだ。断言的には言えないけど、少なくとも、これは若者の視線の感度や質ではないように思われる。

100.時がただ光であるならやさしくてあしたのレモンゆうべの檸檬 加藤治郎『しんきろう』

 レモンと言っても、食材として日常の生活世界に収まってしまうとは限らない。絵画のモデルにもなるし、梶井基次郎の「檸檬」のように想像世界で〈私〉の執着し固執するイメージや解放感のイメージとなる場合もある。

 人にとって時は、主要には平坦な自然性のようなものかもしれない。そのような時の中で、時には優しい面を示すこともあるだろうし、酷薄な形で訪れる時もあるだろう。ここでは、時が一日を推移する柔らかな光そのものであるなら、人にやさしいものであり、それぞれの光に照らされる朝の「レモン」、夕方の「檸檬」というように、人も光の推移する表情のようなものに包まれて柔らかく生きることができるんだろうな、と〈私〉はイメージしている。

 ここでの「レモン」は、日常の生活世界に据えられつつも、〈私〉の理想のイメージが描く線上に乗り生動している。

 一つ一つの作品の表現にも始まりと終わりがあるように、作品の読みにも始まりと終わりがある。読者は、見終わって映画館から出ていくように去っては行くが、読者の日々の現実のある局面で、またいつかふっと作品たちを想起することがあるかもしれない。

  (おわり)


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