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作品を読む ⑦ (加藤治郎)

2019年04月13日 | 作品を読む
作品を読む ⑦ (加藤治郎)
 


 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


61.れれ ろろろ れれ ろろろ 魂なんか鳩にくれちゃえ れれ ろろろ 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 4/7)
〈私〉は、ハトの無心な鳴き声(と言っても、ハトなりの事情があるかもしれないが)に感応して、自らの悩み(人間の煩悩に満ちた魂)も「れれ ろろろ」と捨てちまおうぜとふと思う。下の句の「れれ ろろろ」は、ハトの鳴き声から独り立ちして〈私〉の心を通過してきた言葉(擬音)、人間的な無心を表出する言葉となっている。



62.香るまで生姜をすればゆらゆらと中村歌右衛門の肩かな 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/7)
自宅で香り立つほど生姜をすっていて、ふとその生姜の揺れ動く様を見ていると、なんだか中村歌右衛門(歌舞伎役者のよう。わたしは知らない。『ハレアカラ』は、1994年刊で、六代目 中村歌右衛門は、2001年に亡くなっているから、この役者のことか)の肩のゆれ(見得を切る姿か)のようだな、というユーモラスな歌。



63.消しゴムの角が尖っていることの気持ちがよくてきさまから死ね  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/8)
「きさまから死ね」は、ドキッとする暴力的な言葉だが、これは書いた文字を消すということだろう。だれでも―特に、子どもは―、このように心の内でつぶやいたり、ひとり言を言ってみたりすることがある。

類歌に次の歌がある。「向日葵の種」→「迷惑メール」→「みなごろし」とイメージが、飛躍・連結される。実際は、自宅の庭の向日葵の種の収穫か。これも内心の遊び心のようなものにすぎないが、人間の精神は不可解なことに、そのようなイメージの連結を真面目に病としてしてしまう場合があり得る。カミュの小説『異邦人』では、主人公ムルソーは、「太陽が眩しかったから」というだけの動機で殺人を犯す。吉本隆明『母型論』を経た後のわたしたちは、人の病的な行動には不条理というよりも〈母の物語〉の不幸が深く関わっているのを知っている。また、個が精神の大気として日々呼吸せざるを得ない社会の病もそれに加担している。

向日葵の種は迷惑メールほどみっしりならぶ みなごろしだ  加藤治郎『しんきろう』



64.その顔はわたくしですか(冬でしょう)そうですそれは夜明けなのです  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 4/8)
この歌は、わたしには不明歌である。普通に構成された表現と思ってたどってゆくとつまづいてしまう。〈私〉に現実的にか想像的にか聞こえてくるいろんな言葉を一見ランダムに並べたものであろうか。これが詩なの?と思われそうだが、どんなことにも詩(情)は成り立つ。作者は、いろんな声を聞いている〈私〉のある心の状態を描写している。以前に取り上げた以下の歌と同様の詩的表現の拡張に当たる実験的作品である。
50.ねえ?(ちゃんと聞いているのというふうに)ん?(なんとなく)煙はうたう
55.ねばねばのバンドエイドをはがしたらしわしわのゆび じょうゆうさあん



65.器から器に移す卵黄のたわむたまゆらふかくたのしむ  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 4/9)
わたしは、小さい頃兄弟で生卵を飲み込んでいて失敗した経験があり、おそらくそこから生卵は食べることができなくなった。ちょっと敬遠すべき生々しさを感じてしまう。だから、この〈私〉の感覚はほんとうはよくわからない。ただ、ぷるんとした生命感あふれるもの、それを取り込むことを想像して〈私〉の心波立つのだろうなあとは思う。



66.UnknownそうUnknownひろがりて首都埋め尽くすそうUnknown  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/9)
「Unknown」は、プログラム用語としても出会ったことがある。具体的には、そのメッセージに触発されたか。ここは名詞で「無名の人」の意味だろう。当然、社会意識や政治意識の場面での欲求やイメージ表出の表現。「Unknown」がくり返されて、呪文のような響き、あるいは固執されたイメージを響きとして喚起する。『しんきろう』は、2012年刊。政権交代した民主党政権は2009年9月から2012年11月の間だから、このような政治情勢下で上記の歌のような表出・表現のモチーフを抱いたか。



67.昨夜だが。俺のあたまに足あとをつけていったな、鉛の靴で  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 4/10)
昨夜〈私〉は飲み過ぎたのか、あるいは悩み事があったのか、今朝は頭が重い。こういったありふれた光景をユーモラスに表現したもの。ありふれたことを「昨夜〈私〉は飲み過ぎたせいか今朝は頭が重い。」とありふれて表現しても詩的な感動はほとんどない。
吉本さんが、古代には敵が攻めてくるなどの人事はそのもとしてではなく木々が揺れ騒ぐなどの自然の喩のような形でしか表現できない段階があったとどこかで述べていたが、その段階でも普通のありふれた表現と詩的な表現の区別はあったのだろうかとふと思ってしまった。少なくとも日常的な話し言葉と知識層の専門的な書き言葉の世界の間には現在以上の断層があったろう。



68.旅立ちの朝の恐れ鶏卵の殻より垂るるひかりは昏し 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/10)
『ハレアカラ』は1994年刊で、作者35歳頃である。前にも書いたように思うが、作品の本質は実体験かどうかには関わらない。作者が、この世界から素材として選択し表現世界の〈私〉のイメージの旅程として書き留める。ただし、そのことに作者の年齢は関わりがありそうに見える。人は、その年齢によって見える世界の地平が違いそこで感じる情感の質も違ってくるからである。

〈私〉の旅立ちがどういうものなのかはわからない。一般的には就職や結婚など思い浮かべるが、いずれにしても今までと違った世界に入り込んでいくとき、人はどんないいことがあるかなと期待もあるかもしれないが、緊張や恐れもあるだろう。その色んな感情が入り交じった上での「恐れ」を、「鶏卵の殻より垂るるひかりは昏し」と日常の普段はほとんど気にも留めないような微細な情景として描いている。



(不明歌について二首)
加藤治郎の作品で、わたしが読み取れないものは多いのだが、ちょと意識的にそういうのも取り上げてみる。他者理解と同じように固有の作者の作品理解も時間というものがかかるような気がするが、読者は誤読(誤解)を恐れず出会いをくり返していくほかない。ちなみに、専門の歌人たちでさえ―人間関係に例えれば、親しい間柄でさえ―様々な違った読みをすることがある。(『短歌のドア』P152-P157 「雪よ林檎の 北原白秋を読む」 加藤治郎)
付け加えると、吉本さんが晩年に語っている。〈まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。〉(「吉本隆明さんを囲んで① 」、聞いたひと…前川藤一、菅原則生 2010年12月21日、「菅原則生のブログ」より) 吉本さんの著作も膨大だが、それに負けないほど吉本隆明論も多いのではなかろうか。それでも、本人の思いは、わかっちゃいないなあと言うことである。このことは、一般には身近な他者の理解さえ難しいということ、同様に、表現者やその作品を、意識的なレベルから無意識的なレベルに渡って、ほんとうに理解することは、とっても難しいということを意味している。

69.あちこちで着信音が鳴る朝のぼくたちはあと一〇〇文字生きる 加藤治郎『環状線のモンスター』
70.toshio_tamogamiとhatoyamayukioに挟まれてつぶやく俺は歯ブラシである 加藤治郎『しんきろう』

(私のひと言評 4/11)
69.
職場の朝、カスタマーサービスの部署か。客からかかってくる電話にまず「ぼくたち」電話機が応答する。マニュアル的な応対の言葉だが、客に応答する「・・・ならば何番、×××ならば何番を押してください」と言うようなメッセージのことを「あと一〇〇文字生きる」と言ったものか。無機物の機械やシステムを「ぼくたち」と擬人化したところが新しい。しかし、現在の社会では、銀行の現金自動預け払い機のように、昔は人間が対処していたこともこのように機械やシステムが取って代わった社会になっている。だんだん『スタートレック』の世界に近づいている。
 
70.
「toshio_tamogami」(2010年1月に登録)と「hatoyamayukio」(2009年12月に登録) は、ツイッターのアカウントで、それぞれ「田母神俊雄」と「鳩山由紀夫」か。「挟まれて」とは、よくわからないけどツイッターのタイムラインで、「toshio_tamogami」のつぶやきの次に〈俺〉がつぶやいて、次に「hatoyamayukio」のつぶやきが流れてきたということ。偶然に実際あったことか架空の表現的な設定かまではわからないし、そんなことはたいした問題ではない。「俺は歯ブラシである」がよくわからない。互いに相対する考えの者(言葉)にはさまれて、それを歯にはさまってきたように感受し、少し圧迫感を感じ、〈俺〉は歯を磨いてきれいにするようにつぶやく、すなわち自分の存在を確保するという意味か・・・。(読みとして、ちょっとすっきりしないなあ。)

調べてみると、政権交代した民主党政権は2009年9月から2012年11月の間であり、『しんきろう』は2012年刊であるからこの作品は、民主党政権時代の作品か。新たに生み出されてきたSNSという仮想世界では、日常の具体的な生活圏では起こりえないようなことが起こる。しかし、人はそんなことにも次第に慣れてゆく。


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