回覧板

ひとり考え続けていることを公開しています。また、文学的な作品もあります。

うまく解きほぐせない疑問

2024年06月30日 | 批評
 うまく解きほぐせない疑問


 うまく解きほぐせない疑問がある。
 ドラマを見ていて、あの俳優は嫌だなと思うことがある。そのドラマの物語の世界内での悪役人物だからとかいうのではない。

 わかりやすく例を上げてみる。今時代劇専門チャンネルでみている、徳川吉宗を題材とした『暴れん坊将軍』は、もうシーズン10(このシーズンの初回は、2000年の放送。)になる。この『暴れん坊将軍』に、微妙な印象を持ってしまう俳優たちが出てきたし、出ている。
 俳優としての三原じゅん子は数回出て来た。
 また、ドラマ上の八代将軍吉宗が、貧乏旗本の三男坊徳田新之助を名乗って居候として立ち寄る火消しのめ組、そのめ組の頭は辰五郎(北島三郎)だったが、シーズン8からは代替わりして、頭は長次郎(山本譲二)になり、魚屋をやっていたおぶん(生稲晃子)が長次郎の嫁になる。シーズン10でも長次郎とおぶんは登場している。

 この時代劇の俳優にもなった三原じゅん子と生稲晃子は、現在は特にあまりいい印象の持てない自民党の国会議員である。俳優としてドラマの世界に立った場合と国会議員として立った場合とは別である、ということはわかるが、実感としてはすっきりと両者を分離できないのである。また、俳優時代と国会議員の現在と時代がズレてもいる。さらに、国会議員としてどんな仕事をしているかは知らない。しかし、総合性としての人間という観点からは、現在は自民党の国会議員であるということがドラマを見るわたしにどうしても悪印象を加えてしまう。つまり、ドラマの中の登場人物として自然に受けとめることができないのである。

 最近、「はかないことも、諦めることも、とてもたのしい。」(宮沢りえ×糸井重里・ほぼ日刊イトイ新聞)を読んだ。その中で、俳優としての宮沢りえが、俳優である自分について、その外側にいるわたしたちには興味深いと思えることを語っていた。その前に、まず糸井重里の言葉。


糸井
職業が「役者さん」でいるだけで、
買い物していても何をしていても
「役者である」ということからは
逃げられないですもんね。
役者さんに限らず、どんな職であっても。
 (第9回 ここにいながら、何だってできる。 2024-06-14)



 わたしたちは誰もが、ある家族の一人であり、ある会社の社員であり、また地域の町会のメンバーであり、ある親類関係のなかのひとりであり、等々、この世界を多重に、多層的に、しかもそれを割とシームレスに行き来して生きている。そして、家族の中の父と職場の中の一人のようにそのひとつひとつの関係の有り様は、相対的に独立している。しかし、逆に、ひとりの人間は、ふだんはそんなことはあんまり意識しないが、その多重な関係のひとつひとつにある意味つながれた存在でもある。そして、ひとりの人間が結ぶ一つ一つの関係が互いに影響し合ったり、干渉することがあり得る。糸井重里の発言は、そのことに触れている。
 
 次の、第4回 「 楽屋にいるときのわたしと、舞台にいるときのわたしは。」では、俳優としての宮沢りえが、自分の体験をもとに、ドラマの世界で自分が演じることをどう考えるようになってきたか、ドラマの世界で演じるときの自分の位置と自分の意味に触れて語っている。第4回の長めの引用である。


宮沢
ああ、たしかに、
演じているときが一番自由な気がします。
でも一方で、演じることって、
自覚的に自分を錯覚させるようなことでも
あるんです。

糸井
自分を錯覚させる。

宮沢
「わたしはこの役の人物だ」と自分に思い込ませる、
という感じでしょうか。
だから、演じているあいだずうっと
「いまのはちょっと泣きすぎなんじゃない?」とか、
「ちょっと媚びた芝居だったね」とか、
客観的に見ている自分がいるんです。
だけど‥‥そうやって錯覚を重ねているうちに、
一瞬、ほんとうになる時間があるんです。
スイッチを切るようにコントロールして
その時間に入れるわけではなく、
自分を錯覚させていった先で、
ふと「あれ? いま、わたし、誰だ?」と思って
「あ、あれが来たなぁ」とわかるような。

糸井
‥‥かっこいいなぁ。

宮沢
ほとんどの時間は、
ずっと客観的な自分が見えているんですけどね。
でも、錯覚させていた自分が錯覚を超えて、
そのとき演じている人物が生きている
「ほんとうのところ」に行けたときは、
とっても自由な気持ちになれるんです。

糸井
聞いているだけで羨ましいよ、それ。

宮沢
うふふ。
自分の人生はどうなっていくかわからないから、
不安もあるし、楽しみもあります。
だけど、脚本はスタートから最後までが
決まっているからこそ、
安心して道を踏み外すこともできるんです。

糸井
あ、そうか。

宮沢
だから、とても自由だなと思う。

糸井
そのあたりのことに、いますごく興味があるんです。
演じたり、ストーリーを表現したりすることって、
言ってしまえば全部自分じゃなくて、
他人を「借りる」わけですよね。

宮沢
うん、うん。

糸井
不自由といえば、
こんなに不自由なことはないわけです。
自分自身がどこにもいないと言えば、
いないんですよね。
なのに、そこにちょっと自分が入る気がしません?

宮沢
ああー、はい。

糸井
自分がほんとうにすこしも入らなかったら、
ロボットに演技させるようなことに
なってしまいますもんね。
その、ちょっとだけ入る「自分」の部分というのが、
みんな大好きで。

宮沢
うんうん。

糸井
その「りえちゃんの役のなかのりえちゃん」を
見つけたときに
「今回のりえちゃんの舞台、見た?
すごかったんだよ」みたいな感想が
出てくるわけですね。

宮沢
はい。

糸井
他人を演じるということも、言い方によっては
一種の「諦め」だと思うんですよ。
だって、自分じゃないんだもの。

宮沢
そうか、そうですね。

糸井
広告の言葉を書くときも、
「これをわかってほしい」とか「伝えたい」とか
「好きになってほしい」ということを、
広告らしい言葉で書いてはいても、
うそはつけないんです。
実際より魅力的に見せたら
たくさん売れるということは
あるかもしれないけれど、
それでもうそはつかない。
で、「うそだけはつけない」と決めていると
自分の本心が入るから、
どこかに自分が入るんですよ。

宮沢
あーー、はい。
わかります。

糸井
道具としての言葉を上手に使って、
自分とは全然違う境遇の人の話を書いたとしても、
どこかで自分が入るんです。
この「ほとんど諦めたところに、おれがいた」
「あの人自身がいた」という感触を、
みんなが楽しんでるんだと思う。
ほんとに、ちょびっとなんだけどね。

宮沢
そうですね。
わたし、以前は、役として
「自分じゃない時間」を過ごしていることが
もったいないと思っていたときがあったんです。

糸井
ほうほう。

宮沢
毎日、舞台の幕が開いたら
「自分じゃない時間」を過ごして、
楽屋に戻ってきてやっと自分に戻るという生活って、
なんか違うんじゃないかなぁ、
自分自身の人生の時間を
捨てているんじゃないかなと
もやもやしていたんです。
でもあるとき、小さな「自分の欠片」は、
例えば戦争に生きている女性、イギリスの王妃、
ロシアの女性‥‥
結局、どんな役のなかにもあるんだと気づいて。
「わたしが演じるときにしていることは、
その小さな自分の要素に水をやって、
肥料をやって、膨らませるということなんだ」
とわかったんです。
ロシアの子もわたし、王妃もわたし、
戦時中の女性もわたしというふうに考えたら、
とっても楽になりました。
豊かになったというか、
空っぽだと感じていた部分がなくなったというか。
それまでは、
他人を演じているときの自分は空っぽな容器で、
演じ終えたら自分が戻ってくる
という感じでしたけれど、
そうじゃなくなったんです。
楽屋にいるときのわたしと
舞台にいるときのわたしは同じ人間で、
その同じ人間のなかで、
境遇や国境を全部飛び越えて、飛躍して、
自分のなかにあるものを役に乗せているんだと
思って演じるようになりました。

糸井
はあーー。
それは、ぼくが最近気になっている
「自分の気持ち」というものに
すごく近い話かもしれないです。
例えば「ありがとう」という一言でも、
サービス業として最高の「ありがとう」が
言えたとしても、
自分の気持ちが入っている「ありがとう」とは
違います。
あるいは、
ふたりの人が恋人同士になりかけているときに
「明日、あいてる?」って言うとしますよ。
そうすると、その「明日あいてる?」というのは、
ただあいてるかどうかを確認したいんじゃなくて、
「明日あいていたら、どうしたいのか」が
入っています。

宮沢
はい、はい、はい。

糸井
その「気持ち」を人のなかに見つけたり、
自分のなかにも見つけたりするということが、
もしかしたら人間にとって一番おもしろいことで、
いままで人間みんなで続けてきたことなのかなと
思ってるんです。

宮沢
いやぁ、ほんとにそうかもしれませんね。
 (第4回  楽屋にいるときのわたしと、舞台にいるときのわたしは。 2024-06-09)



 ドラマの俳優の内側からの貴重な具体的な体験の言葉である。
 宮沢りえの俳優体験によれば、以前は「他人を演じているときの自分は空っぽな容器で、演じ終えたら自分が戻ってくる」と思っていたが、「楽屋にいるときのわたしと舞台にいるときのわたしは同じ人間で、その同じ人間のなかで、境遇や国境を全部飛び越えて、飛躍して、自分のなかにあるものを役に乗せているんだと思って演じるようになりました。」と変化してきたと語っている。

 つまり、俳優は単に仕事としてドラマの世界の登場人物に機械的に同一化するということではなく、自分を白熱化させて登場人物に同一化する(古い言い方では、登場人物に乗り移る)ということなのだろう。例えていえば、巫女やシャーマンの儀式的な振る舞いに似ているのかもしれない。ただし、巫女やシャーマンの場合は、「自分」が共同世界に溶けて埋没してしまっている。

 それで思いついたが、時代劇で、藤沢周平著の『用心棒日月抄シリーズ』のドラマは、藩内の抗争に巻き込まれて脱藩し江戸に逃れてきて用心棒稼業をする青江又八郎という浪人者が主人公であるが、これは主人公を演じる俳優が三人ほど入れ替わった作品が作られている。わたしは村上弘明が演じる青江又八郎を気に入っていたが、それぞれの俳優によってまた違った雰囲気やイメージの「青江又八郎」になっていたように思う。俳優のそれぞれの「自分」が出ているからだろう。

 その「自分のなかにあるものを役に乗せている」という宮沢りえの言葉に呼応する、末尾に近い糸井重里の言葉、「サービス業として最高の『ありがとう』が言えたとしても、自分の気持ちが入っている『ありがとう』とは
違います。」は、自分を入れるということが、俳優に限らずこの社会のいろんな仕事においても同じであると言われている。

 ところで、この社会の内でのわたしたちの生存の有り様は多重であるから、俳優に限らず、父であるとか会社員であるとか町内会やPTAの一員であるとかそのそれぞれの場面で、「自分」というものが出ているはずである。そうして、例えば会社員の場面で、ある社員が町内であるトラブルを起こしているということを他人が知ったとして、その他人はある社員に良くない印象を付加されて持ってしまうかもしれない。このようなことは、わたしたちの日常にはありふれたことのような気がする。人は、この社会に総合性として生きており、また、そのように見なされているから、ある人の別の場面のことがある人の印象として加わってしまうのである。
 俳優でも、その「自分」というものが自然と入り込んでしまうものだから、わたしが、例えば『暴れん坊将軍』に登場するおぶん(生稲晃子)に対して、その入り込んだ「自分」に反応してしまうのは避けがたい。閉じたドラマの世界の破れ目のように、観客のわたしたちはある俳優について付け加わる悪印象(あるいは、好印象)などを持ってしまうのを避けられないような気がする。もちろん、そんなことはドラマの世界の表現とはほとんど関係のないことではある。しかし、人間的には、そのような感受はある普遍性を持っているような気がする。 


詩『言葉の街から』 対話シリーズ 6401-6404

2024年06月30日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



6401
いつも考えているわけじゃない
ほっと一息があり
眠りもあり無心に浸かることもあり



6402
二つは別々のようで
ひとつの塊(かたまり)の
二色の表情のようであり



6403
朝が始まり昼になり夜が下りてくる
ひとりの中でシームレス
に二つを行き来している



6404
ある時は(生きるって何?)を堂々巡り
またある時は
休日を無心に遊覧している


農事メモ ⑪ 今年のスイカ (2024.6.26) 追記

2024年06月30日 | 農事メモ
農事メモ ⑪ 今年のスイカ (2024.6.26) 追記

農事メモ2024.6.29


 今年も一週間ほどの連続した雨。何年か前にもあった。その時は、5,6個スイカを収穫していた後で、雨の後ほとんどのスイカが炭疽(たんそ)病にかかって、ものにならなかった。今年は収穫はまだ、どうなるか、心配。今日は曇りで4日ぶりに畑を見回りした。4列の畝の1畝のスイカの葉が萎(しお)れていた。ドキリとした。

その畝には、黄色いスイカで糖度が高くて評判だという金色羅皇(こんじきらおう)を4苗植えている。テレビで知ったそのスイカの苗が今年は店に出ていたので買って植えてみた。
畝の上のスイカはそのまま、畝と畝の間の低いところになっているスイカには発泡スチロールの箱を壊して小板にしてスイカに敷いた。



一番左が、4列目の畝(うね)で、それを拡大したのが↓下の画像。


スイカの葉が萎れた畝。


発泡スチロールの小板をスイカに敷いた。