先日5月10日放映のNHK大河ドラマ『天地人』は「本能寺の変」。
「本能寺の変」とは、1582年(天正10)6月2日明智光秀が京都本能寺で主君織田信長を襲って自殺させた事件として有名ですが、ではなぜ信長がこの時少数の護衛しかつけずに本能寺にいたのか、みなさまご存知ですか???
なぜ本能寺だったのか、なぜこの時に来る必要があったのか。
【信長にとっての本能寺とは】
信長は本能寺を京都における定宿と決めていました。
「本能寺の変」とは、1582年(天正10)6月2日明智光秀が京都本能寺で主君織田信長を襲って自殺させた事件として有名ですが、ではなぜ信長がこの時少数の護衛しかつけずに本能寺にいたのか、みなさまご存知ですか???
なぜ本能寺だったのか、なぜこの時に来る必要があったのか。
【信長にとっての本能寺とは】
信長は本能寺を京都における定宿と決めていました。
信長が上洛のたびに本能寺を宿舎にしていた理由は、本能寺が城のような構えをもった軍事的要塞だったからです。(敷地は1万5千坪、東西50メートル、南北おそらく320メートルくらいの広大な寺域を持っていただろうと思われ、境内には塔頭が整然と建ち並び、その数30~40近くあったと思われます。そして最盛期には3百人以上の僧侶が住んでいたのではと推定されます。寺の周囲には、全て堀を割りめぐらしてあり、堀の内側には、高さ3メートル近い土塀がありました。この堀と土塀の間にはさらに、堀を彫った時の土を利用して土堤がもうけてあったというまさに城のような構えの寺)
そして、当時京都の町衆=有力財界人がほとんど法華信徒であったという精神的に安らげる面からも信長にとってこの本能寺は、京都における最大の安全地帯だったと思われます。
【なぜこの時】
前日の天正10年6月1日(1582年6月21日)に本能寺で茶会を催し、伝説の茶入れ「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」を手に入れたいためでした。
肩衝とは肩の部分が角ばっている茶入れで、「楢柴(ならしば)」は「初花(はつはな)」、「新田(にった)」と共に天下の三肩衝と呼ばれています。この茶器は「上薬が濃いアメ色」をしていたのが特徴のようで、その「濃い」が → 「恋」 に変換され、さらに「恋」から「万葉集」の
御狩する 狩場の小野の 楢柴の 汝はまさで 恋ぞまされる
はし鷹の 狩場の鈴の なら柴の なればまさらで 恋ぞまされる
という歌にちなんで「楢柴」。と名づけられたそうです。
もともとは足利義政の所有物であったが、彼の死後は持ち主を転々とし、境の商人を通じて博多の島井宗室へ渡っていました。
三大茶器の2つを所有していた信長は最後の1つ、この「楢柴肩衝」が欲しくて仕方ありませんでした。そして、この日は残りの1つを持つ島井宗室が来るので、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうという目的で茶会を開催。信長は大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れました。夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露。算砂らが帰った後、本能寺には信長、小姓、護衛の一部の約100人となり、丸腰も同然となってしまいました。
その信長の油断が「本能寺の変」を起こすこととなりました。
丸腰の信長、しかも信長の5軍団のうち、明智光秀軍以外の4軍団は京都にいない状況、秀吉は備中の高松に行っている、その高松が危ないということで信長が光秀に援軍を指示、引き返す光秀。そして、「敵は本能寺にあり」となったわけです。
その後も「楢柴」をめぐって様々な争いが起きています。「楢柴」はすでに焼失しており実物を叶いませんが、よほどすばらしい茶入れだったに違いありません。
「楢柴」がなければ、織田信長が本能寺の変で明智光秀に暗殺されることはなく、歴史が変わっていたかも知れないですね。
歴史を紐解くのはおもしろいですっ♪
tomo
そして、当時京都の町衆=有力財界人がほとんど法華信徒であったという精神的に安らげる面からも信長にとってこの本能寺は、京都における最大の安全地帯だったと思われます。
【なぜこの時】
前日の天正10年6月1日(1582年6月21日)に本能寺で茶会を催し、伝説の茶入れ「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」を手に入れたいためでした。
肩衝とは肩の部分が角ばっている茶入れで、「楢柴(ならしば)」は「初花(はつはな)」、「新田(にった)」と共に天下の三肩衝と呼ばれています。この茶器は「上薬が濃いアメ色」をしていたのが特徴のようで、その「濃い」が → 「恋」 に変換され、さらに「恋」から「万葉集」の
御狩する 狩場の小野の 楢柴の 汝はまさで 恋ぞまされる
はし鷹の 狩場の鈴の なら柴の なればまさらで 恋ぞまされる
という歌にちなんで「楢柴」。と名づけられたそうです。
もともとは足利義政の所有物であったが、彼の死後は持ち主を転々とし、境の商人を通じて博多の島井宗室へ渡っていました。
三大茶器の2つを所有していた信長は最後の1つ、この「楢柴肩衝」が欲しくて仕方ありませんでした。そして、この日は残りの1つを持つ島井宗室が来るので、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうという目的で茶会を開催。信長は大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れました。夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露。算砂らが帰った後、本能寺には信長、小姓、護衛の一部の約100人となり、丸腰も同然となってしまいました。
その信長の油断が「本能寺の変」を起こすこととなりました。
丸腰の信長、しかも信長の5軍団のうち、明智光秀軍以外の4軍団は京都にいない状況、秀吉は備中の高松に行っている、その高松が危ないということで信長が光秀に援軍を指示、引き返す光秀。そして、「敵は本能寺にあり」となったわけです。
その後も「楢柴」をめぐって様々な争いが起きています。「楢柴」はすでに焼失しており実物を叶いませんが、よほどすばらしい茶入れだったに違いありません。
「楢柴」がなければ、織田信長が本能寺の変で明智光秀に暗殺されることはなく、歴史が変わっていたかも知れないですね。
歴史を紐解くのはおもしろいですっ♪
tomo
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