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旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

神護寺

2009年11月04日 | 旅 歴史
 今日は京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町にある神護寺を紹介します。
 神護寺(じんごじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前、神社に付属しこれを管理した寺のことをいいます。神宮寺または別当寺と同じです。
 神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗遺跡(ゆいせき)本山の寺院で、山号を高雄山と号します。寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」というそうです。本尊は国宝の薬師如来像で、和気清麻呂により開基されました。
 大同4年(809)から14年間空海(弘法大師)が住持、その後、荒廃しましたが、平安末期、文覚上人が再興させました。薬師如来像をはじめ平安、鎌倉時代の仏像、絵画、書跡などが多く残り、梵鐘(国宝)は日本三名鐘の一つです。
 空海は東寺や高野山へ行く前に神護寺に一時住しました。最澄もここで法華経の講義をしたことがあり、日本仏教史上重要な寺院です。


福知山城

2009年11月03日 | 旅 歴史
 京都府福知山市内記にある福知山城です。
 福知山は、丹波、丹後、但馬をおさえる交通の要衝の地です。福知山城は天正期様式の天守閣で明智光秀が築いたのが始まりとされています。現在の建物は昭和61年(1986)に再建されたものです。 
  天正7年(1579)織田信長の命を受けた明智光秀は横山大膳信房が守る横山城を陥落させ、新たに城を築き、横山を改め福智山としたのです。後に自ら指揮して福知山城を築城したそうです。
 天正10年(1582)の本能寺の変の後は、秀吉の妻の叔父杉原家次が2万石で入封しました。病没後土豪から出世した小野木重勝が天正13年(1585)3万石の城主になりました。 
 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍についたため、田辺城の細川忠興に攻められ自刃しました。苛酷な有馬検地で有名な有馬豊氏が20年支配し、元和7年(1621)亀山からきた岡部長盛が5万石で入封しました。
 寛永元年(1624)稲葉紀通が城主となりましたが発狂し家臣などを殺害したため除封、松平忠房の後に常陸土浦から来た朽木植昌が3万2千石で入封し、明治まで13代200年間統治しました。
 城は明治5年(1872)廃城令で取り壊されてしまいました。昭和61年(1986)天守閣、小天守、続櫓などが再建されました。天守閣は郷土資料館になっています。 
 福知山城は石垣に特徴があります。粗野に積まれた「野面積み」の石垣のなかに、中世の宝篋印塔や五輪塔の礎石などが185個も用いられているのです。


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琴引浜

2009年11月03日 | 旅 歴史
 京都府京丹後市丹後町網野町にある琴引浜dす。
 琴引浜は、全長が約1800mあり、そのすべてが鳴き砂の浜です。歩くとキュッキュッと音が鳴るので「鳴き砂」といわれるのです。日本の白砂青松百選、京都府の自然二百選、残したい日本の音風景百選、日本の渚百選にも選ばれています。
 鳴き砂の音が琴を弾いているように聴こえることから琴引浜という名が付いたそうです。丹後田辺城主であった細川幽斎や、その息子忠興の妻細川ガラシャが琴引浜や太鼓浜を和歌に詠んでいます。
細川幽斎
「根上りの 松に五色の 糸かけ津
 琴引き遊ぶ 三津の浦浜」

細川ガラシャ
「名に高き 太鼓の浜に 聞く秋の
 遠にも渡る 秋の夕さめ」


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琴引浜鳴き砂文化館

2009年11月02日 | 旅 歴史
 京都府京丹後市網野町掛津にある琴引浜鳴き砂文化館です。
 ここは世界で初めての鳴き砂をテーマにした体験学習施設だそうです。財団法人日本ナショナルトラストが整備を進めている全国6番目のヘリテイジセンターとして建設されました。
 設計は、和風建築の第一人者である吉田桂二氏によるものです。鳴き砂で有名な琴引浜のすぐ近くにあります。鳴き砂の体験コーナーがあり、浜辺ではできない珍しい装置を使った鳴き砂も体験できます。



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屏風岩

2009年11月02日 | 旅 歴史
 京都府京丹後市丹後町筆石にある屏風岩です。
 国道178号を東に走ると筆石の海岸に屏風岩が見えます。打ち寄せる日本海の荒波に削られて海中から屏風のように立ち上がっています。屏風岩は高さ13mもあるそうです。悠々とそびえ立つ姿は力強くとても美しく圧巻です。
  屏風岩は海食崖を形成する網野累層の白っぽい凝灰岩堆積後、中新世末に貫入した堅固な石英安山岩の岩脈が、選択的な海食により削り残され陸地から離れて岩として残されたものだそうです。




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丹後松島

2009年11月01日 | 旅 歴史
 京都府京丹後市丹後町此代(このしろ)にある丹後松島です。
 平海水浴場一帯の海岸線は、日本三景松島に非常に似ていることから、丹後松島と呼ばれています。
 青い海面に点々と松の緑に包まれた大小の島々が連なっています。一幅の絵のように見事な景観を示しています。
 ここから1km北には犬ヶ岬の奇勝があります。岬の形が犬に似ているところから名づけられたそうです。
 丹後には浦嶋伝説があります。海岸に立っているとわかる気がします。浦嶋子つまり浦嶋太郎は丹後の人だと、日本最古の記述である「日本書紀」には記されています。
 浦嶋子は亀の化身である女性と蓬莱山へ行き3年の結婚生活後故郷に戻ってきます。そして玉手箱を開いてしまうという記述は「丹後国風土記」にもあるそうです。



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経ヶ岬灯台

2009年11月01日 | 旅 歴史
 今日は京都府京丹後市丹後町袖志にある経ヶ岬灯台を紹介します。
 丹後半島の最北端の海抜140mの断崖絶壁の途中に、経ヶ岬灯台があります。日本海の荒波が白いしぶきをあげています。
 遠くには若狭の連山が見えます。能登半島まで見える日もあるということです。灯台の下は風光明媚な岩がいくつもあり磯釣りにも格好の場所でもあるということです。
 経ヶ岬灯台は京都百景にも選ばれています。全国に6つしかない最高級・第一等レンズ(フランス製)を使用しています。光度77万カンデラで日本3大灯台の一つにもなっています。
 この経ヶ岬灯台は「新・喜びも悲しみも幾年月」の舞台になりました。55km先まで届く豊富な光量で、若狭湾や日本海を行き交う船舶の安全を明治38年(1898)からずっと毎日守り続けているのです。
 昔たちの悪い悪竜が暴れまわったので文殊菩薩がお経で教化させました。そして、二度と再び悪竜にならないように一万巻のお経を納めたことから経ヶ岬という名前がついたそうです。



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