山形県鶴岡市羽黒町手向手向にある出羽三山神社の三神合祭殿です。
羽黒山は羽黒派山伏の拠点地として繁栄してきました。崇峻天皇の子、蜂子皇子が3本足の霊鳥に導かれて羽黒山に登拝し、山頂に祠を祭ったのが始まりです。神仏習合時代を忍ばせる建築物や石碑など数多く残されています。
出羽三山神社三神合祭殿は出羽三山の三神を祭る豪壮な建物です。神仏分離令が発令後に改称された出羽神社は月山と湯殿山が冬季間豪雪の為、司祭や参拝が困難なことから出羽神社の本殿で合祭することにしました。現在は三神合祭殿となっています。
各々の祭神は出羽神社が伊氏波神(いではのかみ)、月山神社が月読神(つきよみのかみ)、湯殿山神社が大山祗神(おおやまづみのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っています。
本殿はたび重なる火災に見舞われましたが、現在の社殿は文化元年(1818)に再建されたものです。入母屋、茅葺きの権現造りです。桁行13間2尺(24.2m)、梁間9間2尺4寸(17m)、高さは2丈3尺(28m)、厚さ約2、1mもあります。
平安時代中期になると神仏習合により真言宗に奉仕するようになり、江戸時代初期、中興の祖といわれる第50代執行別当天宥によって天台宗に改宗されました。羽黒山参道の石段や杉並木の植林、山麓の田畑への引水などは、天宥の代になされた偉業です。
三神合祭殿は羽黒派古修験道独特な建築様式から合祭殿造りなどともいわれます。内々陣は17年毎の式年造営が続けられ伝統と技術が古来から継承されています。向拝には様々な彫刻が施されています。茅葺の建物としては正法寺(岩手県奥州市水沢区)に次ぐ規模を持っていて「東三十三ヶ国総鎮護」として威厳と信仰の厚さを感じます。
昭和45~47年(1970-1972)にかけて、開山1380年祈念奉賛事業が催されました。その中の一環として漆塗替修復工事が行われ、きれいに塗られました。また、平成12年(2000)には国の重要文化財に指定されました。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
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羽黒山は羽黒派山伏の拠点地として繁栄してきました。崇峻天皇の子、蜂子皇子が3本足の霊鳥に導かれて羽黒山に登拝し、山頂に祠を祭ったのが始まりです。神仏習合時代を忍ばせる建築物や石碑など数多く残されています。
出羽三山神社三神合祭殿は出羽三山の三神を祭る豪壮な建物です。神仏分離令が発令後に改称された出羽神社は月山と湯殿山が冬季間豪雪の為、司祭や参拝が困難なことから出羽神社の本殿で合祭することにしました。現在は三神合祭殿となっています。
各々の祭神は出羽神社が伊氏波神(いではのかみ)、月山神社が月読神(つきよみのかみ)、湯殿山神社が大山祗神(おおやまづみのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っています。
本殿はたび重なる火災に見舞われましたが、現在の社殿は文化元年(1818)に再建されたものです。入母屋、茅葺きの権現造りです。桁行13間2尺(24.2m)、梁間9間2尺4寸(17m)、高さは2丈3尺(28m)、厚さ約2、1mもあります。
平安時代中期になると神仏習合により真言宗に奉仕するようになり、江戸時代初期、中興の祖といわれる第50代執行別当天宥によって天台宗に改宗されました。羽黒山参道の石段や杉並木の植林、山麓の田畑への引水などは、天宥の代になされた偉業です。
三神合祭殿は羽黒派古修験道独特な建築様式から合祭殿造りなどともいわれます。内々陣は17年毎の式年造営が続けられ伝統と技術が古来から継承されています。向拝には様々な彫刻が施されています。茅葺の建物としては正法寺(岩手県奥州市水沢区)に次ぐ規模を持っていて「東三十三ヶ国総鎮護」として威厳と信仰の厚さを感じます。
昭和45~47年(1970-1972)にかけて、開山1380年祈念奉賛事業が催されました。その中の一環として漆塗替修復工事が行われ、きれいに塗られました。また、平成12年(2000)には国の重要文化財に指定されました。
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