虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

実態ということ

2006-05-21 10:30:52 | 宗教
思いっきりなのだ。

西洋タンポポが咲き誇り、様々な花々が咲き乱れて、春真っ盛り。

さてさて、2度、途中まで書いたブログが消えてしまったので、面倒だが登録しつつ書き連ねようと思う。

世界には色々な宗教があるが、思うにどれもこれも何かおかしい。
歴史を調べるまでもなく、「宗教って変だ」と思う人はたくさんおり、現代物質文明が広がれば広がるほど増えていく傾向にあるように思う。
別にこうしたことは不思議でも何でもない。
現代の人間は、空も飛べるし、宇宙にさえ行ける。
遠く離れた人と会話もできるし、こうして小さな画面を通じて自分の意見を全世界の人々に伝えることもできる。
科学バンザイ!と言いたいとこだが、一方で現代人は人間の持つ諸能力をすこしずつ失っていくのであろう。
例えば、運動能力。スポーツジムに通っている人々は、どんな人種かな?
物を創造する能力。社会が分業化すればするほど、この能力は減退していくであろう。
人類の歴史の中で、人類は少しづつその持てる能力を失ってきたとみるのは私だけであろうか?
特に、現代はその傾向が飛躍的に、世界的に広がっていると考えているのは私だけであろうか?

シュタイナーはアトランティス時代は記憶力が非常に優れていたと記しているが、古代には記憶することが重んじられていたことは確かである。
例えば、仏典をみるとしよう。
仏典は、すべて詩のような形式で記憶されていたのである。
であるから、同じような内容で登場人物が変えただけの仏典が多数ある。
日本に目を向けると古事記という本があるが、これは稗田阿礼が語ったのではなかったか。語り部として歴史を記憶していたのである。
だが、一書にあるとして他の類似した記録もあったのであるから、漢字以外の文字で書かれたものあったはずだ。日本には固有の文字がないとされているが・・・。
キリスト教ではどうか?
新約聖書が最初からあったのではない。
イエスを信奉する人々は、イエスの奇跡を記憶し、言葉を記憶し、当時の世界の人々へ伝えに出かけたのである。

文字は随分と古い時代からあるが、一般庶民は無論読むことも理解することもできなかったであろうことは、言うまでもない。
何せ、シュメール時代に書記官になる学校があったそうであるから、文字を覚えることは出世の道具でもあったことは、何ら現代と変わらないようである。
一方で、必要なことを記憶し、庶民に語り聞かせるというのが情報伝達手段として最も大切なことであり、記憶力が重視されたことは当然のことであったのであろう。

記憶するということには、もう一つの重要な意味がある。
秘密とされることは、口伝えにしか教えられなかった。文字で書かれることはほとんどなかったのである。
もし、あるとしたら、象徴・シンボルで伝えられた。
何故かといえば、過去の権力者は絶対的な力をもっていたのであるから、秘密の力を得て悪用することを避けたからである。
充分な資格のある者のみに、口伝された。
また、象徴・シンボルは、その意味が分からなければ意味をなさない。

そのような訳であるから、記憶力というものは非常に大切で、重要な人間の能力であったが、現代人は文字を・・・最近の若者は絵文字かも(^-^)ノチャオ・・・重視することによって、記憶力が次第に低下しているものと考えられる。
かくして、現代人の記憶力は機械へと移行し、その能力を減退させていく。

さてはて、その行く着く先が見える。
貴方には、その先が見えるかな?

最後に、この言葉を引用して終わることにしょう。

「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さい者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。」(ヨハネの黙示録 13.15~17)

では、また。







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2 コメント

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思索の中の記憶 (ミューシャ)
2006-05-24 13:19:10
一刀斎さん、こんにちは。



引用されたヨハネの黙示録を読んだ時、思わずIDカードとかクレジットカードを連想してしまいました。



また、記憶力ということについて、最近思うことがあるのですよね。

自分を創っているものの中に存在する無意識下のもの。それは、もしかしたら天地創造のときの記憶から始まるものなのかもし知れませんが、誰にでも記憶されているものなのではないかと。

そして、それを今、肉体を持って生きているときに、どれほど思索の中から甦らせることができるのか。

その甦らせることが出来たものは、初めてそこで確固たるものとしての生命を与えられ、自分のものとなるのかなと。



なーんか、こう、自分の中から現世以前の記憶を甦らせるということに面白みを感じたりしてしまっているのですが。



一刀斎さんにもありそう。不思議な記憶の甦りが。



しかし、西洋タンポポが咲き乱れている北海道ですか。いいなー、広大な自然があって。心が、ドカーンと広くなりそう。
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記憶の蘇り (拝 一刀斎)
2006-05-28 11:04:26
ミューシャさん、こんにちは^^。



記憶の蘇りという点では、多分、高校生の頃でしょうか。

ある時、河原で犬の散歩をさせていたのでしょうか? 忘れましたが、突然、非常な怒りを感じたことがあります。その時、胸の当りに黒い怒りの塊があることに気付きました。

それがなんであるか、今でも分かりませんが、自分に怒りの黒い塊があることは間違いありません。

その時は、はっきりと胸の黒い塊が見えたのですが・・・。

多分、前世で非常な怒りを感じながら死に至ったのではないでしょうか?
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