おがはまのつぶやき

ボケばばぁの独り言です。今後の老老介護ならぬ朗々介護目指し、
ボケ老人の扱い募集中です!

犬歯

2009-06-30 06:10:13 | Weblog
モモは軍手が大好きです。相手をしろとばかりに持ってくるのでその気になっていたら、なんと!!!。軍手を軽く引っ張ったらモモが止まって口から入れたり出したりしているので、傍に行ってみたら犬歯が抜けていました。モモもびっくり、わたしもびっくりです。あの表情ときたら人間と同じ、唖然としていました。口の中を見たら歯茎があと2箇所赤くなっています。相手の仕方が分からずにその気になって遊ばせた私は、、、、、天罰を受けた感じで後悔しきりです。考えてみたらまだ4ヶ月です。歯ブラシもしていないし、歯茎が赤いから今度相談しようと思っていたのに、先生も呆れるのでは、、、、、。泊りから帰ったじいさまは「なに!!?。おまえは加減をしらないのか?可愛そうだぞ。」」その後は想像の通りです。毎日文句の御馳走です。本当に知らないとは恐ろしいことです。笑うに笑えず、、、、、。ここ1週間は都合で行けず我慢で行くしかありません。モモも軍手を引っ張れとはさすがしません。でも畑に連れて行くとすばやく、しなやかにふっとんで走り回り、元気を見せてくれるので安心させられます。本当に可愛そうなことをしてしまいました。

モモちゃん

2009-06-25 18:07:22 | Weblog
我が家に来てから3ヶ月過ぎてすっかり大きくなりました。朝の新聞配達にもカバンにたずなを装着して歩きます。前になったり横になったりと回数が少なくとも軒並みに玄関に向けて入って行きます。小さい頃に早すぎたのか、足をふんばり行かないポーズでしたが今は鼻を鳴らし、体を揺らし行きたい仕草をするようになりました。ある日お留守番をさせたら、なんと帰って来てびっくりです。行かなそうなので茶の間にシートを敷いて戸を閉めて出かけたらシートの真ん中に「うんち」がもんもりとありました。叱らずに後始末をしたら、じっと見ていて大人しくしていました。それからある日の夜には部屋に入れなかったら、ゲージの敷物の下に「うんち」をして隠した時も怒りませんでした。わたしの不届きだったなーと怒る気にもなりません。それがこうじてか、散歩していて勝手に離れて行ったので、わたし1人で帰って来て手を洗っていたら、横になっているじいさまに向かって「わんわん!!。」じいさまはいつもそんなに吠えないのにビックリして「おかあさんは?」「わんわん!」起き上がって「どうしたんだ?」と不思議がっていました。手を洗って側に行ったらモモがわたしに飛びついて来ました。余程のことわたしを心配したのだなと嬉しくなりました。従順で動じることもなく我が子を育てた感覚が似るのには感慨深いです。飼主に似るとは人も犬も接し方かなと思いました。

2009-06-25 05:46:40 | Weblog
昨日の朝、年子の弟から電話がありました。「もしもし?こちらは盛岡の商品取引ですが、旦那さんはおりますか?」「いえ、おりません」『奥さんはいかがでしょうか?』わたしは関わりを持ちたくないので、丁寧にお断り致しました。「随分丁寧に断るんだねー。」とやっと普通の声になり、ただただ驚きました。わたしはガードを張ることだけ考えて、聞き分けが出来なかったことと、冷静さがかけていました。やっぱりわたしも引っかかり組だと落胆しました。自分の老いを証明したようで恨む気持ちより、気落ちしました。「おれだー!」と笑ったり、褒めたり、「こんちゃんが新聞に載ってるから見てー、」末の弟が写真入りで言葉も書いてありました。夜、コーラスの練習にいって帰って来ましたら留守電が義妹からあり、笑いながら、お詫びの電話がありました。末の弟へはすぐメールで油断禁物だよと弟の電話と仕事を掛け合わせて書きました。返信は「記者も上手くまとめるんですなー。」」と送って来ました。それこそ働き盛りの人たちに、『いい仕事してますねー』と応援したくなります。驚かした年子の弟が新聞に何回か写真入りで載った時は必ずと言っていい位『ねーちゃん見たかー。」と晩酌しながら電話を寄越しましたっけ。子供達が寄っても食事のお世話までしてくれ、子供達が少しでも兄弟の有難さが伝わり、我が子に申し伝わればばいいなと思います。いつも笑いの絶えない夫婦で人相良いのは、良き伴侶のお陰だと思っております。本当に相手次第ですねー。そしてお互い大事に思ってくれることが円満の秘訣かと2人を見て感じます。

母との思い出

2009-06-22 05:15:25 | Weblog
昨日は母の7回忌でお墓参りに行って来ました。6人兄弟ですが、姉は東京で家を構えていますし、3男は大学病院で検査入院し6人でお参りしました。来れない姉と弟は携帯で10秒制限で念が通じるようにと拝みました。おはぎとだんごをお墓で賑やかに食べて、日陰で薄暗い感じですが、笑いで癒されました。男気の強い父と旅行にも行かずに家を守った母の優しい心は、子供、孫、ひ孫に伝授されているように思います。『悪いことするなよ、みんなに迷惑かけるなよ、」が口癖でした。子供達は誰も賢いと判を押す人もなく真面目一筋で定年になりました。わたしはそれで良かったと思っています。腰の曲がってきた母と姉とわたしで温泉へ1泊で行った時に母しか泳げなかったので、『母ちゃん泳いでみて?」と言ったら犬かきで上手に泳いだのには驚かされました。その次に80歳の時に「いとこ会」を温泉で盛大に行いました。横断幕には「なほみさんを囲む会」と大きく書かれていました。車から降りてわたしがすっかり腰の曲がった母を引いて歩き、玄関にはお出迎えの女性の制服姿が6人くらい立って待ち受けておりました。「いらっしゃいませー」恥ずかしさもあり「女代議士と思ったでしょ?』と言いましたら、そこに居合わせた人たち全員で爆笑です。母は「おしょすい(恥ずかしい)から黙ってろー」と幾つになっても控えめな母でした。それに加えてわたしも控えめを目標にしていますが、兄弟、友達からは絶対見えないそうです。本当はナイーブなんですよ、、、、、、。

ががや峠

2009-06-21 06:14:08 | Weblog
ががや峠パート2ですが、10年くらい前に亡くなった近くのお爺さんは、「ががや峠」を越えて婿養子になりました。彼は強気のご先代さまと強妻とのはざ間で苦悩し、お酒に浸りケンカが絶えなかったようです。そうすると「ござ」に親から作って貰った布団を包んで背負い、「ががや峠」を越えて帰って行きました。帰ってはみたものの親に子供のことを考えてみるんだと返されたそうです。飲みすぎて何回か「ががや峠」を越えたことを向かいの我が家では、同情して見ていたそうです。わたし達には良かったのですが、妻に強いられた一生でした。去年、話の証を見てみたいと車で峠を越えました。県境の山道一直線、草も生い茂り、じいさまは車が可愛そうだ、お前に騙されたと文句をいいながらも越えました。日本昔話に出て来るような、山の谷間に細長い地区で電気も一番最後に通されたと聞いている場所です。大げさに言えば、幅200メートルあれば広いと言う感じで住むには圧迫感と寂しいの一言です。清流の小川が流れて、日当たりは平野とは比べものにならずですが、自然が丸ごとOKと思いました。作物も取れない感じですが、家は点在していて戸数も多く、大きな瓦屋根が金持ちのイメージがあります。じいさまによると田畑しかないから何事も工夫して賢いのだそうです。昔は野菜を作り1.2時間かけて、人口の多い隣町に売りに行って魚とか必需品を買って生計をたて、冬場はわらじとか作り、交通も不便なのに生き抜くために無心で歩いたそうです。隣町が活気があって栄えていた頃ですから、運が良かったのでしょう。今は車が一軒に2.3台あり、会社勤めが多く繁栄しているのは、昔からの不便をバネに踏ん張っている気がしました。いつの時代もお金に人生が関わっていると憂慮します。勿論今は家出する時は車です。

回想

2009-06-18 06:12:47 | Weblog
今日80歳前後のおばあさんがやってきました。歯医者の帰り寄ると言うことで約束の日です。おばあさんの父とわたしの父とは、たばこ組合と農協組合の役員で友でもありました。「どういういきさつで結婚したんですか?」と話の流れで聞いてしまいました。『わたしは本当は2度目です。おばの所に嫁いだけれども、辛抱できずにはだし足袋をふとんの下に隠して衣類は外に隠して夜寝静まってから、走って逃げて炭焼き小屋で朝まで待って、山を越えて来たんだ。実家の近くに着いたら近所のおじさんが「逃げて来たのか?「うん」と言い、親には絶対行かないと、初めて反抗したのっさ、、、、」それを無言で親は家に入れてくれて、その次も大百姓で旦那は地区のお世話や農協の役付きで余り家のことはせず、自分が切り盛りして子供が小学1年に家を建てたんだ」その重みの顔には充分な信念が育まれてれていて、頑張りやさんの一生だったとそれぞれの人間模様を垣間見た気がしました。以前の話ですが、姑を10年前に送りましたが、伏せていて介護している時に娘が枕もとで「良くされているか?」の言葉を台所まで聞こえて、泣いて旦那に食ってかかったそうです。嫁とはと考えさせられたことがありました。ちなみに、山越えは今でも「ががや峠」(おかあさんと泣き泣き峠を越えた)で名が知れています。昔は見合った財産で親が決めて、また、その昔は栃の木のある家に嫁げば餓死から免れると言われたそうです。20年生まれは恵まれた時代を歩いた気がします。

外孫

2009-06-14 20:39:30 | Weblog
東京出身の彼女はアメリカ留学してアメリカ人との結婚相手が見つかりました。彼は努力家で彼女を追って中学の英語教師になり田舎を選んだお陰で知り合いになりました。12年間この地にお世話になり4人の男の子を授かりました。2人で4人を育てることは回りの協力がなくては大変と言うことで都合をつけて子守りをかってでました。じいさまとの生活より孫がいると心も元気になり本当に癒されました。1人の孫に2人の付き添いで怪我もなく相手ができたことに安堵してお迎えを待っていたものです。やんちゃで両方の言葉をしゃべり、ただただ可愛い外孫でした。昨年お父さんのお仕事の都合で引越しして行きましたが、昨日久々に遊びに来ました。4年生の長男に気を使って友達に会いに来たのかと勝手に想像しましたが、元気な顔を見て本当に安心しました。昨年引越し目前で熱を出しておんぶして一緒に寝た孫が2歳になり、「あーちゃん」とわたしの手を引っ張ってくれてお母さんの教え方がきちんと伝わっているんだと感心しました。お母さんは幼稚園の副委員長で活躍しているしお父さんは大学院で学び、仕事しながら教授を目指していて未来は有望視されている家族に成功あれと祈らずにはいられません。子供達は世界中どこに行っても寂しくないと前向きで好きです。将来がとっても楽しみな家族で応援したいです。

じいさまの出張

2009-06-13 19:51:19 | Weblog
じいさまの幼友達から電話があり、荒れた土地の草刈りを頼まれ友人2人軽トラックで出かけました。9時半出発で高速2時間掛けて到着です。到着後昼食をとって3人で草刈り機で170坪に挑戦です。柳やら黒松があって、切るのはプロに頼んだ方が良いと枝打ちに挑戦したそうです。はしごも無かったので幼友達の肩に乗って木に登りチェンソーでじいさまが切ったとのことで70歳には危険すぎると驚きました。小さくて身軽は良いのですが、己を省みないじいさまらしさが呆れるばかりです。雨も降って合羽を着ながら5時間で終わり、近くの温泉でお風呂に入り焼肉を御馳走になりました。その後家に泊まる予定だったのですが、友人がお酒飲めないし、夜中2時頃目が覚めるとまた、酒飲まないと眠れないから、今から帰ると言い出し諦めて帰って来ました。家についたのは、9時過ぎました。楽しくもあり、疲れたもありで晩酌も進まずすぐ寝ました。普通の70歳は友人みたいに体に老いたしるしがあるのですが、じいさまは情が深い分何事も頑張ってしまいます。結婚する時に『俺は石橋叩いて渡るんだ』と言って今でも継続中です。そろそろ自分の体に聞いて動いてくれたらいいのですが、、、、、、。丈夫でいてください。お駄賃ありがとうね。

動物病院

2009-06-11 05:22:42 | Weblog
今日の午後、初めての動物病院に行って来ました。車に乗せて10分もするとモモはあくびを始めました。どうも車に酔ってしまったようです。モモから進んで車内に乗ることはありません。いやいや言われて仕方なく、、、、、がありありと見えるから笑わずにはいられないです。言葉を発しできないが喋ることが出来たらわたしに何と言うだろうかと笑ってしまいます。50分かけて病院に着く頃には諦めて寝てしまいました。受付はじいさまで、注射を見るのが嫌なのか「お前が行け」と逃げています。先生とは初対面です。モモは台に乗っても泣きもせず、落ち着いて愛嬌をいつものように振っています。フィラリアとワクチンの注射をして頂きましたが、わたしが耳の辺りをくしゃくしゃと撫でているうちに終わってしまいました。いろいろと初心者なので相談しましたら、動じないから利口な犬ですよとお褒めを頂き喜んで診察室から出て来ました。待合室に戻って来ましたら、チワワと生まれたばかりの子犬6匹と、マルチーズ2匹がおりました。籠の中にいる赤ちゃんを見て、顔を近づけて吠えもせず、じっと見て伏せをして会計を待っていました。チワワの親はわたしが近づくだけで吠えて威嚇するから小さくてもお母さんだと思い可笑しくなりました。モモは聞き分けがあって飼主に似ていると言われたら嬉しいのですが、誰から聞いても疑問符です。どうもわたしには大きなギャップがありそうです。

偶然

2009-06-08 18:55:52 | Weblog
友人2人で先週の土曜日にカシニヨール展へ出かけて来ました。始発のバスで2時間お互いに通路挟んで1人がけで寝て行くことに約束して乗りました。席は自由なので一番前の席を選んで出発を待ちました。落ち着いた頃に40代の女性が小雨のなか小走りに走って入って来ました。「あらっ?〇〇さんのおかあさん?」「えっ?どちらさんでしたかしら?」「小学校の担任でした。」思い出してもまだうる覚えです。「あれから28年経ちました。今は〇〇小学校でお世話になっています。」『よく覚えていましたねー。』「初任地でしたから」わたしがそれ程のインパクトがあったかしら?と自分が見えてきません。どこが印象的でしたか?と聞くには余りにも自信がなくて勇気がでませんでした。PTAのお世話も忘れていつの時に役員したっけ?と自問自答して眠って絵画展に着いてしまいました。先生と言う職業は優秀でなれるし、凡才は卒業すると全部心身共に卒業して忘れてしまいました。28年時を越えても覚えられていることに有難く思いました。