今どきの野良猫は強がりで、モモを見ても体を張って逃げません。友が言いました。地方の言葉で野良猫を仏戸(ほいと)猫と言い、仏戸は辞書にも立派に載っています。野良猫を「ほいどねこ」と言ったら「差別用語じゃない?」と言うので「ほいとくん」になりました。モモはほいとくんを暗がりの中でも、見ると一目散に走り追いかけます。急に飛び出した暁には、わたしの腕が持っていかれる位痛いです。リードを放すと、諦めるまで待つしかありません。誇らしげに勝ち誇ったことはなく、首を下げて戻って来るので、飼い主に似るものだと受け入れるしかありません。一昨日はNHKで対馬山猫が映し出されました。モモは体をストーブの前で長くしているのを、テレビの前へ顔を向けさせみせました。観るなり立ち上がって走り、、テレビにうなって吠えています。じーとテレビを観るも5分ぐらいが集中です。わたしは「にゃんころちゃんだから勉強だよ」と首を向けさせます。ふっと見たら後ろ向きになっても振り返って観ています。「モモ、修業だよ」最後まで見張って見せました。今度ほいとくんに出会ったら少しは、腰を引かずに積極的に、向かうことが出来るでしょうか?見ものです。優しくて腰が引けるのが欠点です。わたしもけんかが嫌いだから仕方がないですね。このまま行くしかありません。モモもそれでいいよね。でも戦う気はあるの?。無理でしょう。
テレビを観ていたらボクシングの、長谷川穂積選手のお母さんが亡くなり、挨拶で誰にもはばかることなく泣いています。「おかん、ありがとう。おかんの子どもでよかったです。」と、純粋で正直な気持を言える長谷川選手に感動しました。なかなか言えないものです。つい、自分の中で大事に、、、。と思ってしまいます。それぞれどの方でも親への思いがあります。今年の6月に幼友達が、小紋のちりめんを洗い張りして、縫い直しをして欲しいと頼まれました。幅をいっぱい出しても裄も身丈も足りません。襟の折り返しで隠れる分から袖丈の幅に使い、おはしょりの隠れる所へ別布を足しました。出来上がった着物に袖を通して見たら、サイズが丁度良くすっかり喜んでいました。「親からの想いは大事にしたいから、縫い直して良かった。」と言われて、わたしも達成感がありました。わたしは、母から頂いた江戸褄は、松竹梅の刺繍の所を額縁に入れて、仕事部屋に飾りました。母が亡くなって8年になりました。こちらのおばあさんが亡くなってから60日後です。弟が母に布団を作ってあげていました。「勿体無いし、綿も品質が良いのを使っているから座布団でも」と綿打ちをして持って来ました。1年置いてやっと出来上がり、モモを迎えに行きながら持って行きました。長座布団4枚に出来上がりました。弟はすっかり喜んでいます。下の弟もしぶ柿を持って取りに来てくれました。やっぱりみんなの気持は母の温もりで暖かになりたかったんだなーと思いました。わたしも長谷川選手と同じで「かあちゃんの子で良かったです。兄弟みんな仲が良いのはかあちゃのお陰です。何度も言ってましたよね、みんな仲良くねって。」暫らくは長座布団は観るだけにしましょう。体が弱った時に力になって欲しいから。そうしたらきっと頑張れると思います。
18日から信濃大町へ義弟夫婦と出かけて来ました。わたしらは大祭のために3日間でしたが、義弟夫婦は上高地と松本城と善光寺と5泊6日でした。わたしらが眼科の待合室にいたら、携帯が鳴りました。「今、病院」と言って後から掛け直しました。なんと疲れが出て、「帯状疱疹と通風で二人でびっこひきひき善光寺に行って来た。」と言うのでつい笑ってしまいました。挙句に「牛に引かれてじゃないからいいんじゃない?」と失言してしまいました。2日たっての今日、お見舞いに行って来ました。義弟は肩から手首まで包帯です。毎日お手入れに通っているとのことでした。義妹は相変わらず、足腰をかばうので体全体揺れています。創造しなくても手に取るように,善光寺で杖と大荷物を持って、体が揺れている二人の光景が見えます。義妹は「もう二度とお父さんとは歩かない、自分だけさっさと歩いて、暫らくしてからあっエレベーターだって言うから、戻るのも嫌で痛いのを我慢して階段をおりたんだよー」とわたしの一言を待っています。本当に男は空気が読めません。特に義弟は自分本位が強い所があります。優しいけど一言が足りません。義弟は「いつも叱られてばかりだ」といない所を見計らって告げ口です。やっぱり一緒に行ってあげれば良かったと思いました。食事の支度も大変だろうと夕食のおかずとお昼のお弁当を買って行き,みんなでわいわい言いながら食べて来ました。わたしはと言うと、早めに信濃大町を出て娘を呼び出し、大宮のステーションビルの中で、昼食をして孫と楽しい会話をして良かったです。ゴムのネックレスに偽の真珠とピンクのハートでダイアモンドのガラスがおしゃれで可愛かったです。それをテーブルにぽんっと置いて3とか8とか魚とか工夫して上手に遊んでいます。帰ってから娘に電話したら「おばあちゃんに逢えて良かったね」と言っていたそうで、貴重な1時間でした。それにしても健康を自慢していた義弟には笑うしかないと言ったら失礼でしょうか。少しは義妹の不自由さを味わって、雰囲気に見合った言葉を掛けて欲しいものです。優しさがあっても適性でないと、会話のずれが出て来るものです。表現力が下手なところに似た人物が我が家にもいます。やっぱー親かなー。
大祭の賄い係り主任は、今日無事にお片づけを終えて開放されました。笑いが絶えない和やかさは、チームワークが良かったと言う証でしょう。準備の段取りが良く、時間通りに食事を出せられた事は、みなさんの御協力があってこそです。代々の御先代様達が出来たことは出来るはずと昔からの流れに沿って進められる大祭は、又、うるう年の次年度に受け継がれて行きます。90歳前後のおじいさんから聞いたお話ですが、明治時代にこの地に汽車が通った頃の事です。我が家から車で15分ぐらいに家があり、「昔、母親が子供を汽車に乗せたくて、弟を背中にしょって(背負い)俺の手をつないで停車場まで、飴を食べながら1時間以上もかけて歩かせて、たった5分の一駅を乗せ、お祭りを観に来たもんだ。母親の手の温もりは今でも忘れられいんだ。」いくら老いても母親を思う気持は一生なんだなと思いました。「そして、夜店のお手伝いをして焚き火で暖まって一夜を明かし、早朝の神輿争いを楽しんだから、お祭りがとっても楽しみだった」と思いを涙ながらに語ったことを、わたしもお祭りがあると思い出します。その頃は汽笛がその家まで聞こえたことが余計に増幅させたのでしょう。今は雑音で聞こえません。そして、その頃は地区代表の一軒で7歳前後の男の子を袰(ほろ)の殿様に見立て、持ち寄りで賄いをしました。今は子供が少なく難儀しています。町通りの人達はそばやうどん、すいとん、いものこ汁、まんじゅう、ふかしいもとか、果物を、各家で作り2晩の商いをしたのでした。わたしが嫁に来た頃までですから近年までで、保健所の出番が出てくる頃まででしょうか、今は専門の夜店で、夜も遅くまでしません。そして、車社会になり、昔みたいに一晩賑やかと言うことはありません。陸尺もお酒に溺れることもなく、静かに9時、11時にマイクロバスに乗せられて山の神社に登って行きます。零時の神事から本番が始まります。見る方たちも一晩待つこともなく、朝早く来て神輿争いと馬場行列が通り終えると車で帰るので、静かなお祭りになりました。わたしが午前2時前に集会所まで行こうとじいさまにお願いして外に出たら、超ミニスカートの10代の女の子達が戯れていて「トイレどこですかー?」と聞きます。昔は田んぼ、今は簡易式トイレを用意しても、施設の綺麗なトイレを選ぶ時代になりました。ただただお疲れが残る昔からのお祭りです。
じいさまは孫以上に犬のモモをばか可愛がります。食事の時は必ずじいさまの脇にお座りをして、横目で真剣眼(まなこ)でおこぼれを待っています。ドックフードを食べなくなるから止めてと言っても、次には又おすそ分けをあげてしまいます。じいさまがいてこのモモかと、同じことを言うのも諦めモードです。それでどちらの言うことを聞くかと言うと、メリハリのしつけをするわたしの方が服従度が抜群です。晩酌を終えるとモモは落ちつかなくそわそわしたり、おんぶしたりします。おねだりをされたじいさまは見かねて「モモ行くか、」と言うと、人より先に茶の間の戸を開けて玄関に行きます。わたしがお片づけを終えても今晩はまだ来ません。間もなくじいさまが「モモが来たか?」と帰って来ました。やっぱり、、、、、と甘く見られるじいさまを恨めしく感じます。「リードを放しても橋の先で待っているんだ」と自慢していたのですが、この有様です。生き物は言い分もあって一定ではありません。笛とリードを持って出かけると間もなくモモの吠える声が聞こえて来ました。笛を吹いても来ません。1週して帰ろうと半分まで行くと「おーい!!」と叫んでいます。田んぼの周りの散歩コースなので、暗闇の中はよく聞こえます。戻って近寄ると紙紐をリードにされたモモは、反省したのか、わたしに叱られるのが嫌なのか、大人しくして下を向いています。帰って来たら勿論、無言のお仕置きでゲージから出しません。何回か吠えるので、じいさまが「泣かないんだよ」だけ。わたしは「うるさい!!」の一言で、一晩静かに寝ていました。どうだ!!じいさま!。甘やかしだけでは駄目なのです。叱ったら褒めるが鉄則なのです。わかった!!じいさま、わかんないだろーなー、、、、。そこが老いたじいさまだから。
今月は22.23.24日の三日間に特別大祭が行われます。先陣、本陣、後陣とあります。地区ごとに山車と子供のお殿様と神様のお導き役の大先司と新宮と本宮の神輿の先着争いがあり無形文化財のお祭りです。神様のお迎えに荒馬17匹は夜中の3時頃に17匹の馬が提灯をもち、町を行進するところがわたしは一番好きです。1820年の歴史があり、その家代々の世襲制で、役を受け継がれ、屋号や地区名も役にちなんだ名前がいまだに受け繋がれています。ところが人口の流出で小さな村は絶えていき、受け継ぎも難しく、寄内だったり、代役になって来ました。100人と言っても集まりませんが、神社の行事とばかりに住民総がかりです。立ち柱の2丈8尺5寸と2丈5尺5寸で両宮のお神輿の先着争いですが、朝の6.7時頃と早く見物客も昔よりも少なく、参加した人のみ盛り上がる感じです。お酒は前日の夜から飲みっぱなしですが、祭りが終わると皆さん一度に解散しお昼にはどこの家も寝てしまいます。100人の賄いに10人を主任2人で集めるも、御勤めの方たちは当てになりませんから大変です。不適任としりつつも押されて「やるしかない」心境です。「神様に受け申されたのだから」。それに法事で長野大町まで義弟夫婦とわたしら夫婦と行くことになりました。ずーっと断っていたのですが、乳がんを患った義妹が今年しか行けないかもと脅し、往復2万円だからとお願いされました。観音様のような彼女には気の弱いわたしは断りきれずに、じいさまの進めもあって行くことに決心しました。お祭りは一人で頑張るものではないと腹を括ります。帰って来て次の日は賄いの準備、そして、3日間の本番となり次の日はお片づけと出ずっぱりです。自分の体に自信はありませんが、乗った船は漕がないとねー。身の程知らず、、、のわたしです。
昼食をとっていると携帯電話がなりました。受け取って「もしもし?」何を言っても応答がありません。だんだんに「う、うう、うう、」「???もしもし?」傍から「あっつ!」と言って長男が出て「Nが勝手に悪戯するようになって、、、」と言い訳し、電話で話したいらしいからと、又「う、うう」と1歳5ヶ月の孫が言っています。赤ちゃん言葉で対応は勝手の解釈で話しかけます。そのうちに兄の次男が「おばあちゃん、今日お兄ちゃんの運動会だったんだよ。今帰って来たの。おばあちゃんに絶対相撲勝つからね」「ちゃんと修業しておばあちゃんに勝つんだよ」と言ってはみたものの、まだ5歳には負けたくない気持です。お兄ちゃんは小学2年生でこの間の夏休みには強くなって胸に飛び込んで来るので、「お兄ちゃんは卒業ね」と言ったらまだやりたいと自己主張するようになりました。本当に成長は早く、わたしも老いの加速を実感し、反比例していくんだなーとこの先の短さを考えます。3男と相撲をとれるのは後5年、わたしは70歳で大丈夫かなー、、、、?息子は3人の男孫の親になり、わたしらが日を並べて共に成長したように、日を並べて歩んでいくでしょう。わたしが越えて来たように越えるしかないのです。1人前に仕上げるまで気持ちの奥で気を張っていなくてはならないのです。誰でも我が子を育てるのに苦るしみもありますが、喜びは3人だから3倍になって返って来ます。3人の時期を見逃さず、伸び放題の盆栽にならないように気を配って欲しいものです。おばあちゃんになって声を掛けられると、孫がいて良かったなーと思います。娘の女孫3歳は初めて擦り傷を作り、「おばあちゃん、チチンプイプイノプイって言って」と電話で泣きそうな声でわざわざ言うので、「チチンプイプイノプイ、痛いの痛いの飛んでいけー!」と言いました。返ってきたのは「ありがと」でした。まだまだバ~バのお役が続きそうです。