視点・論点 「シリア 統治の構図」2012年04月16日 (月)
(NHK 解説委員室, 4/16)
同志社大学大学院教授 内藤正典
中東、シリアでは、反政府運動に対する激しい弾圧がつづいてきました。
さきごろ、国連のアナン前事務総長が、政府側、反政府側の双方に、暴力をやめるよう調停に乗り出しましたが、そのゆくえは不透明です。
シリア政府は、反政府運動側が、武装解除しなければ、武力弾圧の停止には応じないと主張しています。
おそらく、シリアとしては、アナン氏のような大物が仲裁にのりだすのを待っていたのでしょう。
調停案をなし崩しにしてしまえば、彼の後に、仲裁を引き受ける大物は、もういません。
そのことを見越して、アナン氏の訪問を受け入れたとも考えられます。
4月12日、一応、停戦となりましたが、シリア軍は戦車などを引き上げていないので、一触即発の状況がつづいています。
シリアでの反政府運動、今回が最初ではありません。
1980年代の初めにも、起きています。
当時は、いまの大統領であるバッシャール・アサドの父親、ハーフィズ・アサド大統領の政権でした。
アサド体制の中枢にいるのは、シリアで少数派のアラウィーという宗教の信者です。人口のおよそ1割を占めると言われるアラウィー派は、報道などでは、イランのシーア派に近いと言われていますが、実際には、シーア派とは大きく異なり、イスラムの一つの宗派というのは無理があります。
彼らは、長いこと、多数を占めるスンニー派から差別されてきました。
政治のなかのアラウィー派には、ほとんど宗教色はありません。
支配政党のバアス党も、正式には、社会主義アラブ復興党という名称です。社会主義を名乗っているくらいですから、こちらも、イスラムとは関係がありません。
少数派の政権が、多数を占めるスンニー派のイスラム教徒を支配しているのですから、スンニー派の住民は、不満をもっていました。
1980年代にはいると、スンニー派のムスリム同胞団が、政権に対してさかんにテロを仕掛けます。
当時、私は数少ないシリアへの留学生で、首都ダマスカスに住んでいました。
1981年の夏には、ほぼ月に一度の割合で、ダマスカスにある、軍の関係施設、バアス党の施設、ソ連軍関係の施設などで、大規模なテロが起きていました。
そのうちの一つは、空軍省を狙ったもので、爆薬を搭載した車が突入し、空軍省のビルは残ったものの、内部は相当に破壊されました。
私の家は空軍省の近くだったので、家のガラス窓や換気扇が吹き飛ばされました。
大家さんは、すぐにやって来て、黙ってすべてを修理しました。事件については、何も語りません。
シリアでは、何か家にトラブルが発生しても、修理に時間がかかったり、費用のことで大家と揉めることが多いのですが、なぜか、即座に何ごともなかったかのように、元の状態に戻されました。
知らん顔をしている限りは安全。しかし、首を突っ込めば殺される危険に満ちている、それが当時から今日に至るシリアの社会です。
シリア政府は、このようなテロを当初、「爆発事故」と報道していましたが、翌82年の2月、ムスリム同胞団の拠点とされた、シリア中部の都市、ハマを包囲して猛攻撃し、反政府勢力を壊滅に追い込みました。
弾圧は、軍の情報機関、大統領の弟がトップをつとめていた首都防衛隊、そして正規軍によるもので、日常生活の監視から、重火器による攻撃まであらゆる手段が使われました。
外国人の立ち入り禁止が解除された後、ハマを訪れたことがありますが、ものものしい武装兵士以外に、成人男性の姿をみかけないことに、戦慄を覚えました。何人の市民が殺害されたのかも、はっきりとはわかりませんが、1万5000人から3万人と言われています。
当時の、ダマスカスでの生活を振り返ると、奇妙なことを感じます。
それは、たとえて言うなら、ライオンの尻尾さえ踏みつけなければ、危害を加えられないということです。
政権批判をしないかぎり、市民の生活は実に平穏なものでした。テロが起きていてもバザールには活気があふれていました。みな、何が「ライオンの尻尾」であるのかをよく知っていたのです。
私は、昨年はじまった「アラブの春」という民主化運動がシリアに飛び火することはないと考えていました。80年代の激しい弾圧の記憶が残るシリアでは、政権に刃向うことは途方もなく難しいからです。
しかし、それが起きました。今度は、ムスリム同胞団によるものではなく、市民による民主化の要求でした。
しかし、シリア政府は、80年代と同じように、あらゆる手段を使って、反政府運動を封じ込めようとしています。
しかも、国際社会は、石油資源の豊富なリビアには、早々と、軍事介入をしましたが、シリアに対しては、アメリカも口先介入にとどまっています。
シリアが、めぼしい資源をもたないこともその理由ですが、それだけではなさそうです。
シリアは、反イスラエルの急先鋒といわれてきました。
しかし実際には、1973年の第四次中東戦争以降、イスラエルとは戦っていません。
そのとき、イスラエルは、シリアの首都の生命線である水路の近くをピンポイントで爆撃しました。首都の水は、レバノンとの国境地帯の山から、地下水路をとおってダマスカスに来ています。それが、生命線であることをイスラエルはよく知っていたのです。アサド政権は、みかけのうえでイスラエルに敵対しながら、イスラエルと戦う気はありませんでした。
1990年に、イラクがクウェートに侵攻した湾岸危機では、それまで、反米を叫んでいたのに、一瞬にしてアメリカ側につき、多国籍軍に参加しました。
シリアは、冷戦時代には、ソ連と近い関係にありましたが、ソ連が崩壊するやいなや、いわばパトロンを乗り換えたのです。
しかも、その見返りに、シリアは隣国レバノンを実効支配することを、アメリカに認めさせます。
このしたたかさ。実利を重んじ、一日にして外交関係を転換してしまう機敏さ、それが、シリアという国の特徴です。
イスラエルもそれを知っていますから、アサド体制が倒れて、イスラム色の強い政権ができることを、むしろ恐れているはずです。すでに、エジプトやトルコでイスラム色の強い政権が誕生したことで、イスラエルは孤立を深めています。
現在のバッシャール・アサド大統領は医者で、イギリスのロンドンで眼科医として研修していました。1994年、兄が自動車事故で亡くなったため、急きょ、呼び戻され、2000年に父親が亡くなると、大統領の座を継承しました。
空軍出身で、自らクーデタで権力を奪取した父親と比べ、政治家としてのカリスマ性はなく、物静かな印象を受けます。
昨年来の民主化運動に対する暴力的な対応は、むしろ、父親時代から政権の中枢にあった軍人や党幹部がリードしているようです。
激しい弾圧は、アラウィーという宗教マイノリティによる政権が、恐怖で統治をつづけていることを物語っています。スンニー派からも政権に忠誠を誓っている軍人たちがいますが、彼らも、反体制派に屈すれば、裏切り者として確実に殺されるという恐怖に突き動かされています。
反政府側の犠牲者が、ここまで増加した段階で、事態を収拾する方法は限られます。
一つは、反政府運動が壊滅させられ、その一方で、自由な経済活動を行わせることによって市民の不満を解消させてしまう、父親の代からのやり方です。
もう一つは、国際社会が武力介入に踏み切り、アサド体制を打倒し、そのうえで政権中枢の生命の安全を保障することで決着させることです。シリア軍は、自国民の弾圧には力を発揮しますが、他国との戦闘に耐えられるほど強くはありません。
「アラブの春」は、シリアにおいて、もっとも厳しい試練に直面しています。市民が、国際社会に見捨てられたという思いをもつことは地域の将来にとって危険です。中東が安全保障の火種となってきたことを考えると、国際社会は、決然たる態度で、弾圧を抑制させる必要があると思います。