野良耆の見聞記

いなか暮らしの野良着生活

古びていくものには味わいがある。そこに小さな歴史があるから・・・・・

宗良親王と三遠南信

2018-06-28 | ひとりでぶつぶつ

井伊谷宮で宗良親王のことを少し書きました。

その続きです。

南北朝時代に宗良親王は、

南朝として北朝と信濃、三河、遠江、甲斐、美濃で戦っています。

北朝の相手は、信濃守護や駿河守護、関東管領です。

歴史からすると興国五年/康永三年(1344)に

伊那の豪族香坂氏に招かれ大河原(大鹿村)に入る。

文中二年(1373)まで約30年間をここを拠点として戦い

「信濃宮」と呼ばれた。

大河原には「信濃宮神社」があります。

最後は、北朝の信濃守護小笠原長基やのちの信濃守護を兼ねる

関東管領上杉朝房に敗れて勢力が衰え撤退したようです。

井伊谷宮にある宗良親王のお墓入り口です。

同じく 宗良親王の第二子尹良(ただなが)親王も一緒に戦い、

母は、井伊道政(井伊谷城主)の娘とも香坂高宗の娘とも言われている。

お墓は下伊那郡阿智村浪合の「浪合神社」である。

さて

香坂氏に招かれて入った大河原ですが、

現在 リニア中央新幹線の南アルプストンネルの長野県側出口として

トンネル掘削作業が始まっている「釜沢集落」です。

実際には、さらに林道釜沢線を奥に入る終点付近に

石積みがされて平らになった屋敷あとがあり、

ここを「御所平」と地名がついています。

現在でも自動車で行くには大変なところです。

当時は日数を要して移動していたのに

リニアで一瞬にして移動できるとは驚きでしょう。

また

大河ドラマであった井伊家と今川家の対立は

南北朝の戦いのしこりが続いていたことになりますか。

井伊直親が高森町松源寺に隠れたのもお寺のつながりですが、

この時代からの歴史が絡んでいたとも思います。

 

「三遠南信」結びつきは古いです。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 旧官幣中社 井伊谷宮 | トップ | 石垣の民家 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひとりでぶつぶつ」カテゴリの最新記事