野良耆の見聞記

いなか暮らしの野良着生活

古びていくものには味わいがある。そこに小さな歴史があるから・・・・・

茅野市の長円寺(2)

2022-12-14 | ひとりでぶつぶつ

茅野市玉川にある長圓寺の2回目

今回は、建物に「武田菱」の家紋があることです。

本堂の正面にあります。

そして、薬師堂にもあります。

薬師堂の隣の建物にも。

その理由は、慶安2年(1649)に初代住職武田慶尊法印が、

諏訪藩二代藩主諏訪忠恒公より境内地を賜り開山したことです。

この慶尊法印は、武田信玄の弟の武田備前の甥の子になります。

諏訪氏と武田氏の深いつながりを感じます。

 

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しまんりょ小路

2019-06-13 | ひとりでぶつぶつ

紫雲山頼朝院十念寺の続きです。

このなかで、

裾花川が現在と違って

善光寺前の中央通り新田町交差点あたりを流れていました。

その名残があるので紹介しましょう。

中央通りの新田町交差点から長野駅に向かって歩くと

ホテルJALシティ長野の横にお寺があります。曹洞宗栽松院です。

それからしばらく行くとかるかや山西光寺から末広町交差点になります。

下は栽松院の写真です。

このお寺は「嶋の天神」と呼ばれ「嶋」が付きます。

その右側の路地は「しまんりょ小路」です。

本来の「島の寮」から「しまんりょ」となりました。

ここは裾花川の中洲だったところです。名前が残っています。

江戸時代に裾花川を現在のように犀川に合流させて、

この地域を水田地帯にしたのです。だから新田町交差点があるのです。

そして、長野市街地の地形は北西から南東に川が流れ

市内の小路もそれに沿って北西(長野県庁方面)から南東(長野駅方面)に通っています。

上が栽松院前から見た善光寺方面、下が長野方面です。

なぜかこの辺りの勾配が緩くなっています。

新田町交差点から善光寺と西光寺から末広町交差点の

道路の勾配は大きく違うので気にしてください。

 

 

 

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紫雲山頼朝院十念寺

2019-06-05 | ひとりでぶつぶつ

長野市の善光寺へ向かう

中央通りにある「紫雲山頼朝院十念寺」

山号の紫雲は縁起のいい雲。

院号の頼朝は、建久八年(1197年)に源頼朝が善光寺を訪れたから。

この時に阿弥陀三尊が出現し十念を授けたことから、

頼朝が寺領を寄進してできたお寺と伝わっています。

 

ちょうどこの辺りの南側(長野駅方面)に

現在の裾花川が流れていて、橋が架かっていたと言われているからです。

このお寺は中に入ると珍しく神仏混合で「秋葉神社」があります。

正面が十念寺。左が秋葉神社

善光寺の七福神めぐりのひとつで「福禄壽」の御利益があります。

 

 

 

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AM放送を廃止?

2019-04-01 | ひとりでぶつぶつ

3月23日付けの地元の新聞にこんな記事がありました。

「AM放送廃止へ 制度改正を要請

            民放連方針 FM一本化図る」

このタイトルで、

「ラジオのAM放送を廃止しFM放送に転換できるようにするため、

民放連が総務省に制度改正を求める方針をきめた。

これにより、北海道などの一部を除き民放AMが将来なくなる可能性がある。

AMからFMに転換できるよう、2028年までの制度改正を求める。

総務省は、ワイドFM対応受信機の普及状況やFM転換後のAM電波の

活用方法なども考慮して、制度改正の是非を慎重に判断する見通しだ。」

 

こんな内容の記事ですが、

民放自体がFMへの転換を考えているといことで、

これから先のAM放送はどうなりますか。

灯台放送が中止されたように、中止されるのでしょうか。

時代の変化とともにいろいろが変わってゆくのが世の中の常ですが。

 

スマホで簡単にラジオが聞けるようになって、

またワイドFMが各局で放送されるようになって、

ベリカードの役割も徐々に薄れてきたような感じです。

 

 

 

 

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宗良親王と三遠南信

2018-06-28 | ひとりでぶつぶつ

井伊谷宮で宗良親王のことを少し書きました。

その続きです。

南北朝時代に宗良親王は、

南朝として北朝と信濃、三河、遠江、甲斐、美濃で戦っています。

北朝の相手は、信濃守護や駿河守護、関東管領です。

歴史からすると興国五年/康永三年(1344)に

伊那の豪族香坂氏に招かれ大河原(大鹿村)に入る。

文中二年(1373)まで約30年間をここを拠点として戦い

「信濃宮」と呼ばれた。

大河原には「信濃宮神社」があります。

最後は、北朝の信濃守護小笠原長基やのちの信濃守護を兼ねる

関東管領上杉朝房に敗れて勢力が衰え撤退したようです。

井伊谷宮にある宗良親王のお墓入り口です。

同じく 宗良親王の第二子尹良(ただなが)親王も一緒に戦い、

母は、井伊道政(井伊谷城主)の娘とも香坂高宗の娘とも言われている。

お墓は下伊那郡阿智村浪合の「浪合神社」である。

さて

香坂氏に招かれて入った大河原ですが、

現在 リニア中央新幹線の南アルプストンネルの長野県側出口として

トンネル掘削作業が始まっている「釜沢集落」です。

実際には、さらに林道釜沢線を奥に入る終点付近に

石積みがされて平らになった屋敷あとがあり、

ここを「御所平」と地名がついています。

現在でも自動車で行くには大変なところです。

当時は日数を要して移動していたのに

リニアで一瞬にして移動できるとは驚きでしょう。

また

大河ドラマであった井伊家と今川家の対立は

南北朝の戦いのしこりが続いていたことになりますか。

井伊直親が高森町松源寺に隠れたのもお寺のつながりですが、

この時代からの歴史が絡んでいたとも思います。

 

「三遠南信」結びつきは古いです。

 

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